社主の独り言 辛口

(敬天新聞七月号)

▼権力者というのは何処の町にも何処の組織にもいる。どうすれば成れるのか具体的には知らないが、凡そはわかる。努力して手に入れる人もあるし、金で買う人、運でなる人、譲り受ける人、奪い取る人、等色々ある。

 権力者も同じ人間であり、元は普通の人である。だが権力を持つ事で、周囲がひれ伏してくる。賄賂が押し寄せてくる。どれが御礼なのか寸志なのか車代なのか賄賂なのか分らなくなって来る。自分が言った事が全て通る。いや周囲が通す。

 時には法律さえ解釈の違いと称して無視する。否、小さな法律なら変えてしまう。力がある時の権力者なら司法さえも手を出せないのだ。勿論、権力者にもランクはあるだろう。私の場合、権力者と対峙する事がよくある。権力者は奢り昂ぶって財産を独り占めにしようとする傾向があるし、耳は聴く為にある筈なのに聴く耳を持たない人が多い。その結果、公私を混同してしまう。権力を持った者は金を持っている。自分の金を持っている(人もいるが)というより、その地位がある為、使える金を持っている。

 その金で手に入れた権力をより強固に、より長続きさせる為に強力な用心棒を雇うのだ。そこに向かって行くのだから容易ではない。権力者は使える金はあっても決して自分の金ではないので、そこで私腹を肥やし蓄財をしようとする。不正をしなければそれは不可能なシステムに、世の中は出来ている。蓄財は一人では出来ない。必ず相手がいる。大抵の場合、腹心の部下がこの汚れ役を請け負い、そしてその相手方を出入り業者が担う。というのがパターンだ。使える金をそのまま私的に使えば、横領になってしまうからだ。

 だが、権力者の最盛期には公権力の捜査さえ押さえる事もある。そんな連中との対峙には勇気と正義が必要である。如何に不正を暴き出すかの一語である。その地位から引き摺り落とせば、只の爺々に戻るのだ。

 しかし決定的な一撃を加えられるのは、いつの時代も、どこの場所でも最後は「民意」なのである。普段は全く動かない、誰が上にいようが我関せず、決定された事柄に着いて行く。ある時は浮動票、またある時はキケン票と言ったような争いを好まない平均的日本人。

 この民意の風こそが、その権力者を引き摺り落とす原動力となるのだ。彼等こそ昨日までその地位にあった人に対して、今日を境にハッキリと区別を付ける事が出来る人達だ。

 それはそこに情も義理も絡んでいない、その地位の命令に従い、頭を下げてきた人達だからだ。この人達は普段動かない分、動き出したら雪崩のように一気呵成に動く。その根拠は不正の許容範囲だろう。強い権力者は頼もしく見える一方、不正の温床に陥り易い。また品行方正な権力者は清貧ではあるが、物足りなく感じたりする。どちらを欲するか庶民はないものねだりである。

 ただ一つだけ言える事は、権力という地位は永遠であるが、権力者は必ず滅びるという事だ。
▼日本が犯罪大国になって久しい。少なくとも三、四十年前の日本は世界で最も安全、安心国家の一つであったし、犯罪検挙率第一位と言われた。その日本が何故こうも犯罪者天国になったのだろうか。そこには人権が多いに影響してくる。

 勿論、人間としての権利、人権は最も尊ばなければならない権利の一つであるが、それを強調する余り、今まで続いて来た伝統や文化、果ては教育、倫理までをも蝕み、偏向させてしまい、犯罪を助長して来たように思えてならない。

 例えば教育の場で子供の人権を強調し、大人と目線を一緒にする為と称して教壇を無くす。先生と生徒が友達語で話す、注意や怒るより誉めて育てる。競争はさせない。欲しい物は何でも買ってあげ、蝶よ花よと高校も含めて十二年間育てたらどんな大人になるか、それだけでも想像はつく。先生は師であり、三歩下がって師の影踏まず。

 犯罪検挙率が下がったのも人権を強調する余り、及び腰になり過ぎ。勿論、誤認逮捕や冤罪は言語道断だが、犯罪者、加害者に対しての配慮が行き過ぎではないか。その結果、最近何度かテレビで見た犯人と警察の格闘シーンで何んと警察の弱々しい事か。あれでは国民に頼りなく見えるし、世界中に笑われる。前後からサスマタで押し捲くり圧倒しなければいけない。

 マスコミがいけないのだ。拳銃を抜けば、抜く必要があったのか、と騒ぐし、一々現場に居ない本部長のコメントまで取ろうとする。あれでは駆け付けた警察官はどう対処していいのか迷うだろう。目の前の武器を持って向って来ようとする犯人に対しては、確実な方法で逮捕する必要がある。結果は見えないのだ。

 評論家は後で物を言うが、後でなら誰でも言えるのだ。この前の朝日新聞の鳩山法務大臣に対する「死神」発言も酷かったねー。鳩山さんも「友達の友達にアルカイダがいる」と言ったりする変った人ではあるが、死刑囚に対する刑執行の印を押すという法務大臣の重要な任務を遂行する役目に於いては、歴代大臣の中でも立派の一語である。本来は判決確定から六ヵ月以内というのが決まりであるのを押さない事が慣習化し、平均八年になっているだけである。

 それより詐欺師を何とかならんか。人を騙すというのは泥棒に匹敵するぐらい恥ずかしい行為で日本人が最も忌み嫌う恥ずべき行為の一つだった筈だが、今は平然と行われている。最近では詐欺も多岐に亘り複雑化している為、警察も中々手が出せず、捕まえる頃には被害者がスッテンテンになってしまっている。

 未然に防ぐ為に今やってる最中を見つけて届けても、ある程度被害が出ないと動いてくれないし。最近は相手が詐欺をやっていると分っていても金になるなら協力する弁護士や公認会計士、税理士までいるから余計に警察が手を出せなくなってきている。

 そこで我々が詐欺師、泥棒と怒鳴ったり、騒いだりすると名誉毀損で訴えられるのだが、訴えられた時は、詐欺進行中であるから、相手方の「事実無根」、「営業妨害」、「信用毀損」という言葉を重んじ(あくまで相手方を信じている訳ではない)、取り合えず我々に街宣禁止であったり記事削除であったりの命令が出る場合が多い。裁判所まで詐欺師に慎重である。
▼当紙が普通の新聞に比べれば、多少偏っていたり、主張が多かったり、過激であったりは仕方がない。機関紙的な意味合いも含まれている訳だから、当然である。

 当紙の記事がよく名誉毀損の対象になって削除を求められるのだが、創価学会の「聖教新聞」の名誉毀損に比べたら可愛いものである。これに出てくる原田会長、正木理事長、田村九州長、三井夫人部長、棚野男子部長、熊沢女子部長の実名入り座談会はいつもワンパターンではあるが、徹底している。原田会長は仏法者の道を説きながら、仏教に学ぶお坊さんの事を坊主、坊主と軽蔑した呼び方を連呼するし、正木理事長や田村九州長は大石寺の日顕法主を目の敵にして「芸者遊びが知れ渡った、生臭坊主じゃないか」「あいつは『供養が欲しいから』大石寺に通っていると、他の坊主から陰口を叩かれているよ」と言えば、「呆れた!どこまで強欲なの」「有名ですね。それも宗門の方から訴えた裁判で惨敗したんでしたね」と三井夫人部長と熊沢女子部長が応える。

 そして必ず言葉の後に(笑)や(大笑い)がついている。徹底して対象者をこき下ろした挙句、文章の締め括りとして必ず「我が学会は社会で益々勝ち栄えている。隆々たる学会の発展とは全く正反対に、無残極まる敗北の末路を辿っているのが、坊主や元議員等、忘恩の悪党共だ。皆から馬鹿にされ抜いているじゃないか」で終るのだ。元公明党委員長だった竹入義勝氏はケチョンパンに袋叩きにされた。それでも戦えない。圧倒的な戦力の前に戦意喪失するのだ。

 しかし同じ元公明党委員長でも矢野絢也氏は違った。これこそ窮鼠猫を噛むと言うのだろう。徹底的な物量作戦の前にどれだけ耐えられるか。硬軟入り混じった糾弾、司法を動かす権力、池田教が全てという信者、良心を買収しうる資金力、これらを敵に回すのは容易ではなかろう。時には立法や行政さえ飲み込む事もある。これに打ち勝つには信念のみである。矢野氏が勝つ方法はある。どんな妨害、策略にも負けない強い信念と常に世間に一部始終を報告する事である。広告やスポンサーで侵略されているテレビや大手新聞のようなマスコミは当てにならない。

 真実を堂々と載せてくれるようなマスコミを見つけて、兎に角世間に訴える事、幾ら学会に会員が一〇〇〇万いると言っても十二人に一人であって、あと十一人は非学会員なわけだから必ず不条理な攻撃に対しては救いの手を差し延べる筈だ。  日本を一信教の間違った宗教国にしてはいけない。中国の新聞や北朝鮮新聞と見間違う様な、前進、勝利、正義という文字が乱れ飛ぶ聖教新聞に歯止めは要らないのか。やはり創価学会の政教一致に関しては、もうそろそろメスを入れるべきではないだろうか。

 

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