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「俺の名を 勝手に使っちゃ いけません
野毛孝容クン 懺悔しなさい」 −若山牧水
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明治・大正の歌壇で活躍し、“旅を愛し酒をこよなく愛した歌人”として知られる若山牧水。
また、故人は土肥との所縁も深く、生前は多くの作品が此町で生み出された。 土肥の人々もこの事を誇りに思い、町内のそこかしこには牧水の歌碑が設けられている。そういった牧水の功績を讃える町民の心情を知ってか知らずか、またまた野毛孝容がやっくれた。
野毛が経営する旅館『土肥館』には、牧水荘との冠が付随されている事は皆周知の事だが、野毛はそれだけに飽きたらず牧水の名を利用し、更なる銭儲けを思い付いたようなのだ。
土肥の象徴ともいえる、若山牧水胸像・歌碑のすぐ並びに、牧水と土肥館の関わりを誇張した、誰が見てもあからさまな広告と取れる顕彰碑(得意の無許可・無申請)を付近の視線に止めることなく、いきなり設置したのである。
そもそも、風光明媚な土肥の美しい風景に牧水は魅せられたのであって、たまたま常宿として利用していたのが土肥館だったというだけの話である。
それを「牧水は土肥館を常宿に利用したからこそ、素晴らしい歌を次々と世に送り出せた訳で、それは全て“ウチ”のおかげによるものだ。その牧水の名を拝借し、営業に利用するぐらいは当然だ」などと、呆れんばかりの勝手な解釈のもと、長きに渡り故人の名声の上に胡座をかき、利潤を手にしていたのである。
野毛も何かと逆風を浴びているさなか、同じ早稲田大出身(牧水は本物)の大先輩に助けを求めたといったところか。
牧水が常宿にしていたという事実がある以上、苦々しくも百歩譲って牧水荘の呼称を認めていた者達も、流石に今回野毛がおこした行動には、唖然呆然それこそ開いた口が塞がらなかったという。
前号で報じた違法設置看板の補強といった奇行に続き、今回の信じがたい愚行でもって、野毛の求心力は一気に落ち込んでしまったらしい(ハナから無いか、そんなもん)。
野毛にしてみれば、いくら叩かれようとも“土肥の暴君”健在振りを示したかったのかもしれないが、やはり時期が悪かった。
というのも、孤軍奮闘中の植村氏の糾弾活動がここにきて更に勢い付き、野毛に対しては何事に於ても腰が引けっぱなしだった土肥役場も、今回ばかりは無視を決め込めず、広告顕彰碑の撤去を野毛に通達したのである。
その結果、設置から僅か5日後には排除されるという傍若無人勝手気ままな行動が許されていた今迄の野毛の立場からしてみれば、考えられない解決を見ることとなった。
結果、野毛は周囲に単なる恥を晒しただけに終わったのである。
野毛自らが、自身の下僕と称していた者達からの早速の“手の平返し”に、野毛も心中穏やかではないところだろうが、今迄散々悪事を働いてきた事への報いは、ようやく始まったばかりであり、正にこれからが本番である(覚悟しといてネ)。
事実その数日後には野毛の牙城ともいうべき観光協会では、その理事会に於て五役(商工会・旅館組合・飲食店組合・民宿組合・観光協会)の退任が協議され、近々各団体で決定の運びとなりそうなのだ。
風雲急を告げる現在の土肥では、何かと注目を浴びがちな立場にいると「何時標的になるかもと不安でいるよりは、さっさと辞めてしまおう」というのが皆の本音らしいが、観光協会長に固執していた野毛にしてみれば、それこそ奈落に突き落とされた思いに違いない。
そういった最中、落胆した野毛の姿を横目に、植村氏の商工会入会に絡んでの両者確執も、商工会理事長と事務局長による、氏への不手際な対応に対する謝罪が実現されるなど、土肥の状況は明らかに改善へと進んでいる。
一人時流に取り残された感もある野毛の行く末は如何なるものか、今後とも目を離せない。
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