ワシより1400年も後輩のくせに何を言うとる!倭は神の国に決まっとるじゃろが、バカもんが!
身はたとい、武蔵野の野辺に朽ちぬとも、とどめおかまし大和魂
森君の発言は正しいが、森君自身にも問題はある。 男は戦いを忘れちゃ駄目だべーー。
おごる平家は久しからずと言うじゃろが。 石原君だったら、こんなに叩かれなかったろうな…
 
 日本は神の国である

  「神の国」という発言の何処がいけないのか?
 世界中の大多数の民族が「我が国に神は存在する」と思っている。
 アメリカの大統領が演説の締め括りに「神のご加護を!」と言ったら、マスコミが騒ぐのか?聖書の上に手をかざして宣誓式を行ったら、何処の国がアメリカに文句を言うのか?
我が国の総理大臣が、古事記や日本書紀に手をかざして所信表明演説を行ったら、政教分離に反する、と一斉攻撃を受け即刻更迭となるだろう。
 日本国憲法・第20条=政教分離の原則(信教の自由)を我が国に押し付けたアメリカではあったが、自国には政教分離の原則が無かったとは、いやはや驚いた。
森総理が言うところの神とは、麻原彰晃や福永法源が言う神とは違うのだ。

 我が民族は、古より神を祀り、神に祈り、感謝の誠を捧げてきた。山には山の神、海には海の神が宿る。太陽にも水にも、火にも木にも、大工なら鋸や鉋、その他、それぞれの生業に用いる道具にまでも神は宿るのだ。このように森羅万象に神が宿るという神観念をアニミズム文化と呼ぶ。
 だからこそ我が先人達は自然を尊び、時にはひれ伏しながら自然と共に生きてきた、いや、自然と神によって「生かされて」来たのである。
 また、病苦や様々な悩みに押し潰されそうになったとき、どうしても叶えたい夢があるとき、人は神に祈る。その神が耶蘇であれ釈迦であれ亡くなった父母であれ、そういった状況下の当人に取っては全て神なのだ。
 森総理の発言は聊かも間違ってはいない。
 マスコミの煽動にまんまと引っ掛かる野党も野党である。神の国発言よりも、行政のカラ出張、経費使い切り(年度末の無駄な道路工事など)や、自民党議員の大手ゼネコンとの癒着、利権漁りに箱物行政等々、批判や追及を加えるべき点は山程あるではないか。政党は政策で戦うべきであって、揚げ足取り研究会であってはならない。

 國體(国体)を護ることの一体何処が悪い?国の体制は常に強くあるべきで、天皇陛下を中心に、且つ、天皇陛下と国民とが一丸となって国家を構成させることの、一体どこが戦争賛美で部落民差別で軍国主義的なのか・・・?
 それに、教育勅語の何処がいけないのか?
紙面の都合上、全文掲載は避けるが「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」(国民の皆さんは、親に孝を尽くし、兄弟は仲良く、夫婦は和の精神を持って互いに相手を思いやり、友は信じ合いなさい)という考え方は、人権侵害だろうか?
 「博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ」(分け隔てなく人を愛し、学問を修め、仕事を習得しなさい)という考え方は男女差別か?
 「国憲ヲ重ンシ国法ニ遵ヒ」(憲法を尊重し、国の法律に従いなさい)という考えは法治国家への反逆なのか?
 「朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ」(私〔明治天皇〕と国民とが〔以上の内容を〕共に肝に銘じましょう)という考えは、国民主権に反するか?
 一体どこの誰が侵略戦争をオッパジメようとか、戦前の日本に戻ろうと言っているのか?…誰も言っていないではないか!
 寧ろ戦争の悲惨さや苦しみを知っている世代こそ、二度とあってはならないと思っている筈だ。

 
 天皇陛下は『祈る』存在

 ただ、戦後民主主義教育が、昨今の少年による凶悪犯罪のような弊害を齎す一因(無論、それだけが原因だとは言っていない)となっているのでは?、という観点から、戦前の教育の中には良い物も沢山あったのだから、それを取り入れて見てはどうだろうか、という気持ちで、前記のような単語が用いられたに過ぎない。
 大いに結構なことではないか。確かに今の教育は間違っている部分が多い。
 子が親を脅し、親は子供に振り回され、生徒が教師を殴り、教師は生徒に媚を売る。こんな国が世界の何処に在ろうか。これを自由とか平等とか民主主義と呼ぶのか。そんな下らない民主主義ならば、やめてしまえ!

 また、神と言えば、我が国には「靖國の神々」を冒涜する不届き者が跋扈しているが、250万柱の英霊の尊い犠牲を礎として、今日の我が国の平和が成り立っている事を、延いては現在のアジア諸国が、欧米諸国による搾取や植民地支配から解き放たれ、真の独立を果たした事を、奴らは知らないのか?
 一国の総理が国民を代表して、靖国神社に祀られた英霊に感謝の祈りを奉げ、二度と戦争の惨禍を繰り返さないように誓う事の、何処が間違っていると言うのか?
 そういった事に外国が容喙する事を内政干渉と呼ぶのだ。そもそも我が国の総理や閣僚が外国を訪れた際には英霊の墓前に花を手向けるのに、何故外国の首相や大統領は靖国の英霊に参拝しないのか?

 それに、先帝陛下(昭和天皇)の誕生日を「みどりの日」と言い換える必要が何処にあるのか?同じく明治節(明治天皇の誕生日)を「文化の日」と呼ぶのも変だ。
更に、森総理の発言に間接的に繋がるので、この事も申し上げておきたい。それは11月23日の新嘗祭(勤労感謝の日)である。
 我が憲法第七条には、天皇陛下が行う国事行為として「儀式を行ふこと」とある。ご承知の通り天皇陛下は「国安かれ、民安かれ」と『祈る』存在なのだ。
脈々と受け継がれてきた我が国の悠久の歴史を、なぜ否定しなければならないのか。まさか新嘗祭のせいで先の大戦が勃発した訳ではあるまいに、こんなにも素晴らしい伝統行事の日を何故「勤労感謝の日」と、言い換えなければならないのか、甚だ不可解で不愉快だ。
我が民族の文化は「コメの文化」と申し上げて全く差し支えない。「お米」が採れたことを神に感謝して何が悪いのか。

 この新嘗祭とは宮中の賢所で、天皇陛下が天神地祇(あまつかみくにつかみ)(諸々の神様)にその年の新穀を奉げ、神と共に天皇陛下も新穀を食されて、五穀豊穣に感謝の祈りを奉げられる祭祀である。この祭祀は誰も覗く事が許されない、天皇陛下お一人で長時間に亘って執り行われる祭祀だ。
天皇陛下以外の代行は原則としてあり得ないが、昭和63年に限っては天皇陛下ご重病のため、掌典長が代わりを務められた。その際、いくら待っても掌典長が出てこないので止むを得ず中に入ったら、疲労困憊の末に倒れていたという。
 それ程までに渾身の力を込めて、天皇陛下は毎年お一人で神に祈りを奉げられるのだ。一体、この世界中の何処にこんな国が在るというのか。
 「天皇を中心とする神の国」とは、まさしくこの事なのである。

 
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