日大の名物監督の一人に篠竹幹夫監督という人がいた。昨年定年退職と同時に規定通り監督業も引退されたのだが、この度めでたくアメリカンフットボールの殿堂入りをされた。
私が監督と知り合ったのは20年以上も前である。国立府中大学を出てブラブラしていた頃、加納貢氏から声がかかった。篠竹監督に敵対する者がいて、それが国士舘のOBで、そのOBは国士舘のOBを全て押さえている奴だ、ということだった。私は、全くそのOBの名前を知らなかったし、若さもあって、「OB全てを押さえているというのは嘘だと思います。少なくとも、私は知りませんから。私がその人の敵になります」と加納氏に答えた。
次の日、新宿で初めて篠竹監督とお会いした。当時の篠竹監督にはオーラが出ていた。動作の一つ一つにエネルギーがみなぎっていた。試合は連戦連勝、後に全て局長に出世する栗原、滝沢、鈴木、横山コーチ等が脇を固め、万全の組織だった。おそらく当時は日大一の実力監督だったろう。
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篠竹元監督 |
加納氏から「今日から篠竹について応援してやってくれ」と言われ、篠竹監督側近の1人になったのである。今ではすっかり伝説の人になった加納氏は、篠竹監督や森山先生、故竹田先生等が若い時には憧れの、不良学生のスターだったらしい。
かくして篠竹氏からの私の最初の仕事は、国士舘大学OBを全て押さえている人との掛け合いから始まったのである。結論からいうと、その人自身は実在したのだが、全てのOBを押さえてしまう程の人など元よりいる訳がなく、しかも篠竹氏と敵対した人はその本人ではなく、その人の兄という人で国士舘は全く関係のない話だった。
篠竹氏のエネルギーのある超特大大ボラと思い込みの激しい性癖を全く知らない当時である。相手が自衛隊に強いから機関銃を持って乗り込んでくる、戦車でくるかもしれない、いやジェット機で爆弾を落とす可能性がある。
まさかと思いながらも、毎日会うたび言われると、私自身も少し被害妄想の気があるらしく、一緒になって日本刀を持ち歩いたり、「学生を巻き込んだらいけないので、いざとなったら2人だけで戦おう」と言って、グラウンドのあっちこっちに武器として鉄パイプを埋めて、戦闘準備完了、とやった日も今はなつかしい。
相手から話をよく聞いたら、監督と相手の腕自慢から始まって、全てが日本一じゃないと満足しない篠竹監督に対して、「うちの弟の方が強い」という禁句を発したのが逆鱗にふれた、というのが真相だった。栄華を誇った篠竹監督も晩年はコーチ陣の引退や大病もあって連戦連敗が続き、生涯監督の夢は破れた。もう長くお会いしていないが、噂では灯台下暗しというのか、身の回りで裏切りや女難もあるという。
日大には超一流名物監督が多くいた。篠竹監督を始め水泳の古橋広之進先生、体操の遠藤幸雄先生、スキーの八木裕四郎先生、ゴルフの竹田昭夫先生、相撲の田中英寿先生等である。この中で現役で残っている先生は田中先生1人になってしまった。
こういう人達の指導を受けて今もオリンピック候補生達は育っている。これが伝統なのである。今、日本人は伝統を持たない、伝統の持つ深さがわからないアメリカの合理主義を満喫しているが、合理主義の良さを学びながらも伝統の意義深さも見直す時期にきているのである。
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