▼安藤昇先生の秘書から電話が入った。「この前の話ですが、早速お願いできますでしょうか」と言う電話だ。アレッ何か約束したっけ?と思いながら「何の話だったっけ?」と訊ねたら「堀江さんから伺ったんですが…」ああそうか、安藤先生の誕生日に堀江さんに「麻雀できるの?」と聞かれ「並べるだけなら」と答えたら「今度顔出してよ」と言われ「いいですよ」と挨拶としての返事をしておいた。まさか俺に直接!

 麻雀という遊びは13牌を面前に並べ、14個目を目の前の山から1つずつ取りながら捨てを繰り返し、1つの種類を3個集め、それを4種類と頭と言って残りの2つを同じ種類にするという遊びである、ということを知ってるぐらいで、54年の人生の中で30回ぐらいしかやったことはないのである。しかも、わがままの効く仲間とやっただけで、他人としかも勝負としてなどとんでもない。とても闘える腕ではないのである。しかも他人がやっているのは何度か見たことはあるが、もう20年もやったことはないのに俺に指名である。いや俺もいけない。実は安藤先生の麻雀を見ていた時、先生は右利きにも拘らず、今、右手が不自由で左手でされるので、ゆっくり打たれる。ゆっくりだと考える時間があり、色んな手を考えることが出来る。このぐらいのペースでならと考え、しかも後ろで見ているとみんなの手の内が見えるから自分が上手になったように錯覚する。将棋や碁を他人が打っているのを見ていると、ついお互いの手が良く見えるのと同じである。堀江さんに聞かれた時「並べるだけなら」と言いながらも、どこかに「参加してみたい」という望みと、ひょっとすれば俺でも、という奢りがあったのだろう。しかも堀江さんは俺の「並べるだけなら」という真実を謙遜だと思っていた。ああここから悲劇が始まろうとは。

 6月2日(木)当日はやってきた。メンバーは誕生日当日、名司会をそつなくこなした吉田松陰の会の会長、日吉修二氏、もう1人は正体不明のサブちゃん、そして先生と私である。日吉氏とゆっくり向かい合ったのは初めてだが、まぁヨイショ口撃の素晴らしいこと。元より安藤門下生の、先生の為のリハビリマージャンだそうだが、先生は勝負ごとで手加減は大嫌いだそうで、勝負は和気藹々の中にも真剣である。私の場合、真剣であろうがなかろうが面前でテンパッたら全てリーチである。ポンやチーの余裕がないのである。それでも、積もるのや捨てるのが早すぎたり遅すぎたり、何度か日吉氏が「チョッと待ったー、そのまま!誰か間違ってる」と指摘。もちろん必ず私である。面前の我が牌だけに一生懸命で他人の手など全く見ていないのである。よくもまぁーこんな実力で天下の安藤先生と並んで雀卓を囲むとは俺も何とも厚かましい男よのう等と思いながら、日吉氏の目を見ると冗談口撃の時とうって変わって、その目は獲物を狙ったタカのような冷たく鋭い視線なのである。さすが「吉田松陰先生を学ぶ会」を主宰するだけの人物である。スキがない。上積(うわづも)の筈が下積(したづも)になった瞬間を見逃さなかったのだ(当たり前ッてか)。そのくらいもわからない私の麻雀歴である。

 そういえば、先生の誕生日にメインテーブルで私のトイメンに座ってた人はプロ麻雀師の小島武夫氏であった。そんな人達も先生の為のリハビリ麻雀に参加しているのだ。結果は4着、4着、3着、4着、であった。ルールをもう少し理解すれば4回のうち1回ぐらいは1位になれるかも知れない。何せ麻雀は8割が運というから(安藤先生の言葉)。

 それより先ず、日吉氏にタカのような鋭い目つきで待ったを掛けられないようにするのが先である。帰りがけ秘書の近藤君が「来週もまたお願いします」って言ってたけど、あれで迷惑じゃなかったのかなァー。それともカモがネギ背負って善行寺参りってか。それでも先生のリハビリに役立って日吉会長の貴重な御鞭撻が伺えるのなら、もっともっと今日勝つ道に励み、カモがネギ背負って鍋まで持ってせっせと安藤事務所へ通うとするか。

 
▼国会議員には2つの顔がある。1つは国家の現実と将来像をバランスよく発言し実行すること。もう1つは陳情者の願いを叶えることである。

 1つ目はテレビなどで見かける表向きの顔だから皆さんよく知ってることである。問題は裏の顔である。陳情者が色んな話を持ってくる。それを叶えてあげるのがいい国会議員と思われがちである。業界団体にとって不利益な法律が出来ようとする時、取締りが厳しくなろうとする時、或いは田舎に直接飛行機が飛ぶようにとか色んな陳情話がある。陳情話でも飛行機が来るようにとか、高速道路が来るように、とかいう陳情は時間もかかるし、国会議員からすれば目の前のメリットはない。

 胡散臭い動きをするのは許認可を貰う話や、今後取り締まりが厳しくなる話などの時、行政に圧力をかけるのである。わかりやすく言えば、鈴木宗男的動きをするのである。大なり小なり国会議員は鈴木宗男である。良い方に作用している時は地元民は歓迎するが、一旦マイナスに作用すると奈落の底である。そのサジ加減が難しい。それは、常に犯罪とすれすれだからである。全く堅い人は役立たず、と言って次の選挙で落とされる。当然陳情者は利害の絡む陳情の場合、手ぶらという訳にはいかない。それを受け取るか拒否するか、或いはどの位までなら受け取っていいのかが難しい。我々でもそうである。余程の特ダネや独占記事であれば金は取らないが、基本的には謝礼の多い方から順番は先になるし、気合も入るのである。それは大抵の国会議員でも弁護士でも同じだろう。人間の欲望がそうさせるのである。役人の立場でも同じである。ワイロを貰う奴もいれば、全く融通の利かない堅物の人もいる。また正義の人もいよう。人はその時々で自分の環境や立場から相手を評価し、意見する。要は自分に都合よく解釈する。いい加減である。

 職業や役職によっては正義だけで生きなければいけない人もいるだろうし、堅物でなければいけない人もいるだろう。しかし人が正義と堅物だけの人しかいなかったら法律はいらないけれど世の中はギコチなく、面白さや楽しさが大幅に減るだろう。やっぱり世の中には弥次さん喜多さんを始め、熊さん、八ッつあん、ご隠居さん、隣のミヨちゃん、タバコ屋の看板娘、遠山の金さん、清水次郎長、石川五右衛門、銭形平次、ねずみ小僧、そしてアンタも私もあの人も世の中みーんな必要なんですね。

 要するに生物の社会の仕組みが弱肉強食が基本として構成され、人間がどんなに理屈を並べたところで、欲望という心を押さえることが出来ない以上、その環境や時代に応じた法律や罰則は仕方がないこと。今の時代のように新しい犯罪が次から次から出てきたら新しい罰則規定をどんどん作らなきゃいけないし、また今の罰則規定を遥かに超えるような犯罪も多発している現状では有期刑を50年ぐらい増やす等は仕方のないこと。一般の人々はこのような凶悪犯罪には当事者として直接関係ないだろうが、贈収賄まではいかなくとも、御中元、御歳暮という習慣のある国民性だから一歩間違えば、お縄を頂戴することもある。その範囲が難しいのである。如何に許容範囲内であるか、ということが大事なのである。何事もいわゆるほどほどにそこそこにということである。

 
▼先日、任侠系右翼団体の発会式に出席して突然、来賓挨拶を頼まれたので堅い話をすべきか軟らかい話をすべきか隣席の一誠会会長の渡辺氏に相談したら「いつもの白倉節でいいんじゃないの?」と言うものだから大先輩の方々を前にして「振り込め詐欺や泥棒はやってはいけないが、国の為になるなら恐喝や傷害は自分の責任においてどんどんやれ」と檄を飛ばした。また「援助交際という売春はよくないが(貧しい国の女性が)生きていくための売春ならよい」という話もした。我々は子供の頃、よそのお爺さんやお婆さんを騙して金を取ったら、親に叱られる、家族に迷惑をかける、家族が恥ずかしい、近所から白い目で見られる等が先ず頭に浮かび、いわゆるハレンチ罪というような違反行為は出来なかった。勿論、今も同じである。子供の頃から家でも学校でもその様に教育された。今はそれがないのである。

 また後日、青年思想研究会の物故者を偲ぶ会に出席していたら、正気塾の中尾副塾長から「恐喝の極意を教えてよ」と聞かれたので「それは相手から金を取らないことです」、「?」。隣に居た21世紀書院の蜷川正大氏が「そういえば北一輝先生は、企業へ寄付を貰いに行った時『薄い』と思ったら、『厚く』なるまで席を立たなかったそうだ」。全員納得。今度は八矛社の犬塚会長が「それでは正しい恐喝とはどんな恐喝なの?」と聞かれたので「正しい恐喝とは、貧乏人や弱い人から金を取らないことです。悪いことをして儲けた輩からのみ取るのです。強きをくじき、弱きを助けるのが“正しい恐喝”です」。

 任侠道にも似た、義賊にも通ずる一面だろう。

 予てから私は明日を行き明後日を生き抜く為に、先ず目の前の敵や困難に打ち勝つ勇気を持つ事が必要であり、その為には、今日勝たねばならない、という事を提唱してきた。最近、私のこの「今日勝つ道」運動が民族派の人達を中心に人気を博している。近々「全日本今日勝つ道連盟」でも作って、元気のない日本に「強喝」を入れて歩くか。

 

▼人間が生きていく上で何が一番大事だろう、と考えていたら、結論は「根性」と出た。始めは「男」という限定で考えていたが、結局、女もやっぱりそうで、動物も、もっと総論的にいうと生物の全てがやっぱり最後は根性になった。何かをやろうと決断するのは、最後は根性があるかないかに到達する。

 例えばバンジージャンプなんかでも、直ぐに飛べる人もいれば、スタートするまで1時間かかる人もいるだろう。しかし最初1時間かかっていた人も、何回もやっているうちに慣れて、直ぐに飛べるようになるだろう。最初の獲物を狙うとき、たとえライオンの子といえ、それは勇気がいるだろう。しかし、慣れれば狩りも上手になる。ライオンの場合、基本的に強さが備わっているからいいが、人間の場合、自分で強くならないと、生まれながらに強さは備わっていない。成長するにつれて体力と共に根性を作っていかないと、常に食われる立場から逃れることは出来ない。

 特に雄の世界においては根性が『ある』と『なし』では死活問題である。こんな雄と一緒になったメスはろくに飯も食えず、生涯を通じて苦労するのである。だから昔から「バカと根性なしは面倒みるな!」という。根性がないと獲物が捕れない。飯が食えないのである。飯が食えない、ということは生きていくという基本が出来ないということである。

 誰かに付いていくということも根性が必要である。時には自分を否定しなければならない事もあろうし、飲めないものを飲まなきゃいけない時もあるだろう。他人に負けたくなかったら根性を磨き強くする以外に勝つ方法はないのである。

 
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