格闘家石井騒動に思う

2008/11/04

 かつて石井は好青年であった。少なくとも今年の全日本で優勝した時までは。今年の全日本で勝った時でも、解説の篠原氏等の意見は厳しく「挑戦者の姿勢ではない、あれではオリンピックに選ばれるかどうか分らない」と言っていたし、本人も「選ばれなくとも仕方ないような試合内容でした」と泣いていた。だが全柔連は試合に勝ったことを評価しただろうし、その陰で先輩でもある全日本男子柔道監督の斉藤仁氏の強い「押し」があったことは間違いないだろう。
  だが北京オリンピックで金メダルを取ってからの石井は豹変した。これには鈴木桂二選手の敗退が大きく関係しているだろう。日本の柔道会の救世主、というマスコミの扱いが本人を「放言王子」にしてしまったのだ。鈴木が金メダルを取っていれば柔道界のスターは当然鈴木だろうし、石井がどんなに放言しても、大して価値はない。大学の先輩でもあるし、鈴木の二連覇や内柴の二連覇が、俄然光ってくる筈である。

 私は始め、石井の放言癖の話は知らなかった。全柔連の苦言に対して、一般的には好感触なんだ、という程度の認識でしかなかった。ただ個人的な見解を言えば、私の考えは吉村強化委員長に近かった。吉村氏の発言はいつも自信を持っている。強いリーダーシップを持って強く発言する。発言に信念があるから他者を圧倒するところがある。リーダーにはこれが必要である。石井だけが柔道をやっているのではない。百年の伝統と百万人の競技者がいて、その中の一人の発言に振り回されるのは、真っ平御免である、と言いたかったのだろう。私自身もこの放言騒動を何度か書こうと思ったのだが、事を荒立てたくなかったので控えて来た。

 マスコミというのは反論すればする程、エスカレートするし、一方が反応すれば、それを又ほじくり返す。一昨日(十一月二日)全日本大学柔道選手権の決勝で一ー六という大差で国士舘が負けた。この試合に石井は出場しなかった。石井がいても勝てたかどうかは分らない。だが少なくとも一連の石井騒動はチームとしての国士舘に悪影響を及ぼしているのは事実だろう。本人はマスコミへの露出の多さに有頂天になっているのかも知れないが、徐々にメディアは本性を現してくるだろう。最初はおだて、持ち上げ、面白おかしく祭り上げているが、ある日突然、奈落の底に叩き落すのだ。

 わかり易くいうと、本人はサービス精神があってみんな平等に出ようと思っても、マスコミは独占して初めて値打ちが出る訳だから、一社独占を目指そうとして、他社(他誌)に出させない。そうすると他社(他誌)は粗捜しを始めるのである。その事を先輩や先生方は知っているからこそ「発言に気をつけろ」と諭すのである。大学主催のオリンピック出場者祝賀会でも、先生方は一様に貢献を称えた後、「ただ……」と一言注意がついた。恐らく先生方はもっと叱りたかったのだろう。本人が偉くなって言い辛かったのか、お客さんがいたから歯に衣を着せたのか歯切れは悪かった。

 他人は何とでも言える。自分に直接何の影響もないんだから。だが関係者は穏やかではない。そこで石井の育ての親でもある川野先生に直接尋ねた。先生は「石井の人生だから、どの道を選ぼうと構わない。だが今は国士舘の学生であり、柔道界に籍を置いている訳だから、そこに籍のあるうちは、そこに関係のある人に迷惑を掛けてはいけない」という意見だった。恐らくこの意見に集約されるだろう。自分だけで責任を取れる範囲で言葉を吐け、という事である。大切な金メダルを簡単に他人にあげたり、川に捨てたい、と発言すれば、金メダルの価値が安く見え、他のメダリストまで不愉快にさせてしまうだろう。

 石井はプロレスの小川の大ファンで小川を尊敬しているから、金メダルを小川にあげたのだろうけど、関係ない私でさえ、どうせあげるなら御世話になった川野先生とか、或いは国士舘の柔道部とかにあげるべきじゃないのか、とさえ思ってしまう。その場で本人に「君の人生だから他人に振り回される必要はないが、世話になった人に迷惑をかけるな、少なくとも卒業するまでは言動は控えた方がいい」と言ったら「わかりました」と答えたのだが。
  暫くはなりを潜めたと思ったら、恩師の批判まで始めた。それだけは辞めた方がいい。ヒールに憧れていると聴いた事があるが、役者の中のヒールはそれはそれでいいが、人生でヒールになることはそんなに楽な事じゃない。今はマスコミも面白がっているが、世間の全ての人を敵に回す言動は控えた方がいい。一人で強くなったという考えは日本人には似合わない。

 昨日、待望の格闘家への転向を表明したそうだが、あれだけの実力者だから、それなりの活躍はすることだろう。だが、傍に理解者や指導者がいないことは淋しい。金の成る木に人は寄って来るだろう。だが果たして今寄って来る者達が、石井にとって本当の支援者と呼べるかどうかは疑わしい。君に格別の才能があったことは誰もが認めるところだ。私自身も大学一年の時、小野路の食堂に居た君を見て驚く程ほれぼれした。今、君に小言を言うことは釈迦に説法かも知らんが、一人でここまで来たのではない、ということだけは忘れてはいけない。

 

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