敬天新聞12月号 社主の独り言(渋口)

(敬天新聞12月号)

▼外交は力である。世界は常任理事国が動かしている。5カ国の中でも中心はアメリカで時々ロシアや中国が力を発揮することがある。

中国などは十年前は金もなかったし、日本に歴史認識、靖国神社首相参拝でクレームをつけることで、飯を食ってた時代があった。その頃は金もなかったので、世界に対する発言権も大したことはなかったが、金を持てば軍備も増強するし、それなりに五月蝿い存在になる。

突然尖閣諸島問題で騒ぎ出した。元々歴史的に周辺国への侵略が顕著で中国と一括りにするが、昔のソ連のように、色々な国の寄せ集まりだから、強制的に統治するより方法はないのである。 韓国ドラマを見てもわかる通り、地続きである大国の侵略に怯えながらの歴史の連続である。

アメリカの大統領は日本に原爆投下したことを(日本を降伏させるには)「仕方がなかった」と言っても批判されないが、日本では久間章生元防衛大臣が同じく「あれ(原爆投下)は仕方がなかった」と発言すれば、大臣を辞めなければいけなくなるのだ。

この違いはなんだろう。配慮ある国民性の違いである。例えば韓国は未だに慰安婦問題を持ち出して謝罪しろとか、歴史認識が違うとか文句を言うが、歴史認識はその国によって解釈が違って当たり前である。

打開策の中間点という模索は外交上必要な時もあろうが、無理に合わせる必要もなかろう。慰安婦問題も事実であれば大変不幸な問題であろうが、それらも含めて「戦争中の迷惑行為」の全てを含めて謝罪、賠償の意味を込めて国家間で取り交わした条約であるわけだから、日本に文句を言うのではなく、韓国政府に苦情や賠償を求めるべきである。

それで韓国政府は抗議・批判で日本に訴えるのではなく、「お願い」として「一度終ったことだけど、何とか慰安婦の人達の辛さを取り除いてあげたい。ついては協力をお願いできないだろうか」と申し込めば、日本国民は優しく受け止めるであろう。

条約違反を威張って金寄こせと言われたら、いくら配慮ある国民と言っても納得出来るものではない。それも金を借りるネタがないのか、毎度同じネタだから困るのである。

例えば日本はアメリカに「原爆投下の被害賠償してくれ」ということを言ったことはない。勿論アメリカは言ったところで払うような国ではない。払うことが非を認めると考える国だからである。それどころか原爆被害者は日本政府に賠償や保障を訴えている。

国に責任を求めているのである。韓国国民も先ずは国を訴えるべきなのである。日本政府にも責任がある。言われたら、幾らでも金を出すから、相手は調子に乗るのである。

「それはもう終ったこと」の一言で片付ければいい話である。靖国神社参拝もとやかく言われることではない。行かねばならないと思うなら、毎日行けばいい。その内呆れて何も言わなくなるよ。国民性の違い、文化、伝統、慣習の違いは他国にはわからない。

私たちも余所の国のことでわからないこと、理解できないことはたくさんある。しかし口は出さないし、批判もしない。その国がどのような歴史を辿ったにせよ、憐れみと尊敬と感謝を持ってそこに立とうと努力するからである。

外交は力である。しかしそこに人間力としての憐憫の情、惻隠の情を持って臨めば、必ずや理解される日も訪れよう。

▼小鳥や小さな虫たちは、時として我々の心を癒してくれる。しかしながら、生まれながら嫌われる運命の小動物もいる。ゴキブリやネズミ、蛇もそうだ。

何も悪いことをしないうちからそうだ。中には優しい性格のゴキブリもいれば、身体の弱いネズミもいるかもしれない。それなのに、誰も手を差し伸べてくれない。

なんで人間は自分たちの都合でしかものを考えないのだろう。小さな虫達は生まれて生涯を終えるまで、まず天寿を全うすることはできない。

殆どが食物連鎖で食べられてしまう運命である。それもある日突然に。そういう自然の営みに加えて、予想外の人間にまで嫌われ苛められ、揚句には捕獲されたり、踏みつぶされたり、つらい生涯である。

生まれてくる子供は親を選べない。動物も同じである。いつも食べられる標的にされる草食動物は、肉食獣に生まれたかったと思ってるかもしれないし、肉食獣は本当は狩に疲れていて、野原で楽しそうに草を食ってる草食動物を羨ましいと思ってるかもしれない。

その心の中はその立場のその動物にしかわからない。動物たちは単純な行動原理で生きている。強いものだけが生き残り、弱いものは犠牲になる。だが歴史的には強いものが生き残ったのではなく、変化に順応したものが生き残ってきたと言われている。

人間の世界でもそうなのであろうか。自然の原理を当てはめるなら、男は強さを維持する者が長生きし、女は美しさを維持する者が長生きするのではなく、子供、少年、青年、大人、中年、壮年、熟年、老年と歳を重ね、その年齢の味の変化を微妙に調整できる人が長生きできるということである。

確かに人間にも小鳥のような癒しを持った人、クジャクのように華麗さを持った人、虎のような逞しさを持った人とそれぞれである。いや、狐や狸やゴキブリ、ハイエナに例えられるような人達もいる。

生物は動物だけではない。植物だって生きている。植物はただ生えているだけ、動物や人間に食べられるだけの為に生きているように見えるが、本当にそうだろうか。植物には千年を生きた樹木が存在する。日本で言えば平安時代である。そんな時代から、生き続け日本の姿を見て来たのである。

国や国民に言いたいことが沢山あるかもしれない。本当は樹木は喋れるかもしれない。しかし喋れば災いの元になるから、だんまりを決め込んで一切無口を通しているのかもしれない。

すべてを見てきた植物は人の考えがすべて違うことを知っているから口を開けば誰かが喜び、誰かが悲しむことを知っているのだ。人間が喜怒哀楽に振り回され、生涯を終えることも知っている。

つらいことが重なって死に急ぐ人もいるが、急がなくても死は必ず来ることを知っている植物は春夏秋冬に人の心を癒し、勇気づけ、感動を与え、自らは犠牲の一生を終える。

それでも小言の一つも言わない。植物こそ人間が学ぶ見本である。比べて人間は短い生涯を慌ただしく虚勢・喧騒の中で生きようとする。例えば国民、都民、県民、市民、町民という風に使う「民」という字は人の目に針を刺した状態を表した絵文字からできた文字だそうである。

時の為政者が政治をやり易いように、常に民を欺き真実を見せなかった、民はすべてを見る必要はないという意味が込められているのだろう。現在にも通じる教えのようである。

▼今年ももう一年が終わろうとしている。一年一年人生の閉幕が近づいてくるようである。あと何回正月を迎えられるのだろうかと思いながら、頑張っている人たちもいることだろう。

毎年毎年、年内のことは年内に片付けて、新たな気持ちで来年を迎えてと思いながらもずるずると、けじめのない年の瀬を何年続けてきたことだろう。あースッキリした一年だった。今年は充実した一年だった。なんて気持ちで暮を終わり、正月はゆっくり温泉でという夢を持ち続けながら、毎年寝正月だった。

働き蜂のように忙しい星の下に生まれた運命と諦めるしかあるまい。ということで、今年を表す一文字が何に決まるかわからないが私の中では「暴」だった。

暴力団に対する世間の風が強くなり暴排条例も吹きまくったが、柔道連盟の指導がすべて暴力と認定されたことは大きかった。この問題は女性の指導に対する批判から始まった抗議だった。

確かに女性に対する指導は今の時代に合わなくなった部分はあろうが、男に対する指導では褒めておだてて、チヤホヤするだけの指導が正しいとは言い難いものがある。

スポーツ全般の指導について、何でもかんでも暴力にしてしまう風潮が続いている。暴力を肯定しているわけではない。確かに暴力を振るう運動クラブもあるが、女性はともかく男は多少は強く育てないと雄としての本能が目覚めないではないか。褒めて長所を伸ばすというのは、ある時期まではいいことである。

それでは大人になるまでずっと褒めて褒めてチヤホヤするのか。わがままで、聞き分けのない子供にも、注意をするだけで、それで終わりか。おそらくそれでは教育が成り立たなくなるだろう。隣には何十年も同じことを言いながら賠償、援助、借用という名の恐喝を続けてる国が存在する。

日本のような奉仕を目的とした自衛隊ではなく、敵国人を殺してもいい教育を受けてる軍隊が存在する。そのような国と外交での駆け引きをするとき、最後の決断は胆力である。雄の本能で決まる。

いずれこの国のすべてを荷負うことになる若者をそんなに軟弱に育てていいのか。マスコミが作り上げた重箱の隅を突いた様な現象で惑わされ、厳しい指導がすべて悪と断じていいのか。雄の本能はもっと大切に守るべきである。


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