敬天新聞8月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞8月号)


▼一年で一番暑いこの時期には、どんな素敵な殿方も家の中ではステテコ一枚で過ごされてる方も多かろう。都会では今はどの家庭にでもクーラーがあるから、下町や地方に行かなければなかなか見られない光景になった。

それにステテコ姿を嫌う女性も増えたから、尚更女性に気を使って少なくなったようだ。私の若い頃は田舎であったせいか、おじいさんは皆、上は裸で下は褌かステテコだった。おばあさんも上は裸で下は腰巻という姿も少なくなかった。あの頃はまだ国が貧しかったから、妙にそういう姿が似合っていたし、それが自然だった。

流石に最近は上は裸という人は少なくなったが、ステテコ姿も見かけなくなった。ステテコ姿の似合う人物の代表は庶民なら波平(サザエさんのお父さん)さん、偉人なら田中角栄さんが真っ先に浮かぶ。

私の高校時代の恩師も夏は麦わら帽子にランニング、ステテコ姿がよく似合う人だ。恐らく今は田舎でも、家の庭までがステテコ範囲(草取りや水撒き)で、近所に出かける時でさえ、無理に服を着せられるのではないか。色気や気配りが要らなくなった熟熟年には苦痛である(と思う)。

私のおばあさんは九十歳の頃、庭を挟んで建っていた家で一人で住んでいたが、夏は裸で生活していた。天然記念物のような価値ある皺皮を理科室の骨組み人体模型が着たような様で動く姿は、動く見本の骨皮筋衛門のようで、女性を超越した存在として強烈に少年の脳裏に残ったのである。

庭になる果物は全て自分の物だと言う欲張り婆さんだったが、楽しそうだった。そういう田舎で育った私は大学に来た時、パンツ一枚で街の中を歩くのを恥ずかしいという感覚がなかった。

田舎では近所の銭湯に行くのに、家からパンツ一枚で行くのが習慣だったから、世田谷の松陰寮前に住んでた頃もアパートから若林商店街を通って銭湯までの行き来をパンツ一枚で過ごしたので、当時から変わり者と思われていたようだ。しかし相撲取りなんかは今でもパンツ一丁やステテコ一丁で近所に買い物に行っても、誰も白い目では見ない。これらは習慣であり、周囲の理解なのである。

あれから五十年が過ぎた。世の中に余裕や自由が生まれるのはいいが、同時に常識が強調され規則も多くなり、窮屈も増えた。せめて家の中だけでも自由を謳歌したいのだが、昔の親爺に比べたら確実に権威は落ちた。それどころか妻の発言力は増したし、子供にまで気を使わなくてはならなくなった。下手に意見したり、怒ったりすると、直ぐに家を出て行くのだ。子供が、では無い。妻殿が、である。

子供はいつか出てゆく存在であるから、別にいい。だが、女房に出て行かれては困る。だから「夏はステテコだ」と言う男は、「夏はステテコよ」という女を選んでおかないと熟熟年齢になった時、同じ墓に入れない時代になったのである。

人は世に連れ世は人に連れ、とはよく言ったものである。

▼夏休みなので、子供の教育と学術的な立場から書く「屁」の話である。だいたい「屁」という言葉は「軽い」とか「意味がない」とか「無害」とか言うような意味あいで用いられることが多い。

その人の取り方で解釈は違うようだが、捉え方 の大半は家族の中での育ち方によるのではないか。私が子供の頃の記憶では父親は家族の前で平気だったが、母親はしなかったようだ。記憶にない。

私の妻たちも基本的にはしたことがないので、日本人の女性の屁は聞いたことがない。自分の出る屁の量を考えると、これを全部我慢してるとなると相当苦しいはずである。それとも女性は男のように屁が出ないのだろうか。いや出るのは出るだろう。

女を捨てる年齢になるまでこれを続けようという女性は立派の一言である。医学的には「我慢しないで出しなさい」という方針のようだ。それなら医学の重要性を学んだ白衣の天使である看護婦さんは出そうになったら、ところ構わず放屁するのだろうか。逞しい。

ただ屁も歳と共に、音質が変わってくる。若い頃は音も吃音で可愛かったし、単発だったが、中年を境に音は濁音に変わり、一発で押し出す力がなくなってくるのか、連発になる。これが熟年になると、尻の肉も落ちるためか、更に音は複雑になってくる。片方の尻の皮の皺と、もう一方の尻の皮の皺に挟まれた状態を押しのけ、乗り越えてやっとの思いで、外に出るためか、バイブレーションの効いたこの世の物とも思えない突拍子もない音になって表れるのである。

  

どんな偉い人も、どんな美人の人も、同じような音が出るのかなー。いやあの人はしないだろう。そうだ、あの人には尻の穴そのものがないかもしれない。屁などするわけがない。うんこだってするわけがない。って考えたこともあった青春時代が懐かしい。

NHKがいい放送をしてくれた。「ためしてガッテン」という番組で「屁」を特集し、「屁」の成分のほとんどが「空気」で、本来は匂いもないのが普通で、時々匂うのは、便通が正常でない時(例えば便秘)等に臭くなるのだそうである。あの番組を見て、目から鱗が取れたようだった。

私はそれまで「屁」の存在を、通常使われる意味合いよりも重く考えていた。日本人は礼儀や作法を重んじるため、屁に気を遣いすぎてきたのではないか。そういえばアメリカでは「屁」より「ゲップ」の方が失礼にあたると聞いたことがある。昔付き合ってた台湾の女の友達の女は、俺の二段先の階段を昇りながら、続けざまに屁をしたし、食卓代わりに新聞を広げて飯を食ってる時も屁を振り続けた。文化の違いだったのだろうか。

テレビでは品のない芸人が時々屁で笑いを取ったりする者もいるが、昔古舘一郎と一緒に司会をしていたジャズ歌手がゲストの男がいきなり立ち上がって屁をしたら、一回目は「キャー」と声を上げたのを古舘が取り繕ってなだめたが、二回目に屁をしたときは、その場から走って逃げたのがテレビに映った。かように、屁に対する認識、対応は人によって様々で、医学的立場を優先するのか、礼儀、常識を優先するのか、結構苦慮するのである。

長い人生では色んなことも経験するのだが、こんなこともあった。ある時知り合った女性は、酔った勢いで一夜だけの愛を育む関係になる予定だった。これから組んず解れつ気合の入る寸前に、「ぷー」と汽笛を鳴らした。笑いこそ出なかったが、やっとの思いで起立していた人格別人が戦意喪失してふにゃふにゃと崩れ落ちた。若い時なら、何のこれしきと屁とも思わない現象も、ただでさえやっとの思いで立ってる熟年齢になると、些細な出来事でも熱中症になって倒れてしまうのである。

若い時は男も女も自分を綺麗に見せるために、美容やスタイルや衣服に気を遣う。屁にも気を遣う。それが似合っている。歳を取ると、美容にもスタイルにも衣服にも気を遣わなくなる。屁にも気を遣わなくなる。それがまた似合ってくる。若い時の屁は音は軽いが気は重い。熟年の屁は音は重いが気は軽い。

屁の一発で争いの火種になったり、コミニケーションになったりと、真に深い味わいのあるもの、汝の名は屁なり。夏休みの体を労わる月間として学術的立場から「屁」について考察してみました。

▼健康であると言うことは、毎日美味しく食事を頂いて、毎日きちんと便通があるということである。我々ぐらいの年齢になると、トイレに行ける有難さもわかってくるようになるのだが、健康の有難さがわからない(当たり前と思っている)年代というか、見てくれが優先する年代では、便通は避けたい話の一つであろう。特に男女間では恥ずかしい話である。

恥ずかしい年代と言うのは、それはそれで貴重な年代だから、とやかく言っても仕方がない。他に学ぶこと、経験することが沢山あるのだから。今日の話は小学校の話。小学校の殆どで子供達は大便をしないのだそうだ。理由は恥ずかしいからだそうである。

ところが、韓国人や中国人は違う。子供でも堂々と「うんこしてくる」という。やはり教育なのだろう。「恥ずかしくないか」と尋ねたら「何で恥ずかしいの?誰でもするのに」と答えた。言われてみれば確かにそうだが、中国のように運動場に穴掘ったようなところがトイレだと、生まれた時から認識していれば、出来ないこともなかろうが、一朝一夕には無理である。

大人はいい。自分の判断でやれるだろうから。そういう判断ができるようになるまでの、子供達が学校のトイレに入れるような教育はできないものだろうかと思案してるのである。中学生になれば異性心が芽生えてくるので仕方がない面もあろうが、せめて小学生ぐらいまでは何とかトイレに行って大便することは恥ずかしいことではないと教えたいものである。食うことと出すことが自然現象である以上、本当は同じくらい大事なことである筈だ。

ここは政府が国策として、一番この重要さをわかっている医者のスペシャリストに語ってもらうことである。不思議なもので医者が話をすると、説得力があるのか、誰も汚い話とは思わないし、素直に聴けるのである。

子供時代に「食べることと出すことは表裏でセットになっている」ことの重要性を教育として、しっかり教えることで、いい判断が出来るようになろう。その上で、本人たちが体の健康を優先させるのか、年頃の恥ずかしさを優先させるのかは選べばいい。

外国人に比べて日本人は排便排尿に対して、特別羞恥心を持っているのではないかと感じるのである。私も日本の「恥ずかしい物は見せてはいけない」という文化は好きである。ただこの歳になって色んな物が見えてくることがある。特に健康は大きな財産であることに気付く。だからこそ若い人たちに命も体も大事にしてもらいたいと願うのである。

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