敬天新聞3月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞3月号)


▼戦争が起きれば、その近隣国が儲かるという。戦争特需というのだそうである。武器商人が儲かるのは理解できるが、破壊するばかりだから、一見何故儲かるのか理解できない。

「風が吹けば桶屋が儲かる」(何となくわかるが、よく意味がわからなくて使っている)という理屈だろうか。それに戦争が起きた場合、どちらが勝つか結果はわからない。そんな時、仕事が入った場合、保証がないわけだから、とてもツケでは受けられない。負けた側との取り引きだったら、回収は不可能だろう。おそらく現金決済するのだろうか。

それとも、当事者ではなく、それを仕掛けた者、戦況を見越した者、勝たせたい者が、第三者として「商行為」をするのだろうか。「朝鮮戦争」が起こった時、確かに日本に「特需」があったと言われている。

だから危険を承知で、紛争地帯へ行く者もいるのだろう。湯川という男性は、日本で事業に失敗し、妻に先立たれ自暴自棄となり、一旗揚げるために、かの地へ行ったらしい。

そこで一度誘拐監禁され、それを知った後藤さんが解放交渉をして助けたことがあったらしい。その時、その周辺を離れればよかったのだろうが、このままでは「故郷へ錦は飾れない」とか「都落ち」だけはしたくないと思ったのか、またシリアに舞い戻ったという。そこで二度目の誘拐に遭うのだそうだが、それを聞いた後藤さんが、またしても一人で助けに向かったそうである。

紛争地での子供支援に当たっていたという後藤さんは、おそらく地元に知り合いも多く、信頼もあって、「敵でない自分が話をすれば理解してくれる」と過信したのではないか。

ところが、戦況は常に変わっている。組織というのも、いつまでも同じではない。外からは同じに見える組織でも、勢力関係は常に変化している。組織の中の誰かを知っていても、その人が失脚していて、ライバルが主導権を持っていたりしたら、逆に知っていたことが災いすることだってある。

始めは湯川さんの個人的な問題だった。それを助けに行った後藤さんも一人で判断した(仲間や支援者がいたかもしれない)。そして、個人的な身代金誘拐に発展した。

それが水面下で動いていた。相談された警察を通じ、政府も二人が誘拐された事実は知っていたろう。だが、表沙汰になってない時点で国家の金を使うわけにはいかない。この時点では要求額も低いし、金を払えば、解放された可能性は高い。しかし、それは結果論であって、今だから言えることである。

だから、これからはこういうことも踏まえて、海外で誘拐された時には、家族に金がなかった場合、「幾らまでなら国が貸す」とか「いや、基本的には国が関知すべき事柄ではない」とか、「危険地帯は除く」とか、ケースバイケースもあろうが、ある程度のマニュアルは作って置くべきである。

ただ、日本の法律が通用しない海外での犯罪に利用される可能性も多いにあるので、軽々に国が金を出すのはよろしくないのである。日本人として恥ずかしいことだが、アジア近辺では日本から出かけた不良者と地元の暴力団が結託して、日本人の身代金誘拐ビジネスが流行っているそうである。しかも一部地元警察官も絡んでいたりして、先ず事件にはなりにくいのだそうだ。

ところで、イスラム国という集団は、残虐性と恐怖で住民を支配しているそうだが、一方でそれも含めて「よし」という応援国もいるそうだ。

彼らはイスラム教の信者とは言えない。色んな国からの逃亡者や不満者の集合体であって、正統にイスラムの文化を引き継いでる者たちではない。犯罪者集団と言っていい。その証拠に、身代金誘拐や石油泥棒が主な資金源である。数が多いから、政治闘争になっているが、少なかったら間違いなく「犯罪者」として捕えられてるはずである。そんな危険な所に行くことが間違っている。

ジャーナリストであろうが、ビジネスで行こうが、行くときは自分の判断で行くはずだ。誘拐されてから、助けてくれと言うべきではない。湯川さんも後藤さんも助けてくれとは、一切言ってないと思う。

あの棒読みな話し方こそ、命乞いしてない覚悟を決めた後藤さんのメッセージであったと思う。相手が、金を取るために国を揺さぶったに過ぎない。批判は簡単だが、決断は難しい。毅然と対応した政府の方針は正しかった。安倍政権に拍手を送りたい。


▼文化や伝統、風習という者は、その国によって、全く違う。国の中でも、所によって真逆のような所もある。昔の人が、その土地の風土に合わせて、その土地の民衆をまとめていくのに必要な儀式に利用されてきたのだろう。

日本はアジアに属する国であるが、先の大戦でコテンパンにやられ、強制的に「西洋風」を押し付けられたため、他のアジア諸国に比べて、いち早く西洋暦を取り入れ、アメリカ風自由主義を取り入れた。アジア諸国では未だに旧暦を大事にするため、誕生日が二回ある。

また、国によっては、生まれた日と役所に届けた日が違っていたり、それに新暦、旧暦と一年に誕生日が四回あったりして複雑で仕方がない。しかし彼らは、それらを全く普通と考え、全くおっくうと考えていないのだ。これこそが文化の違いであろうが、(西洋人に感化された)日本人から見たら、「誕生日は一年に一度で、旧暦は毎年変わるから、覚えにくい。

新暦で統一した方が分かり易い」と要らぬお世話をしたがるのである。確かに国民を管理し統制したい国から見たら、新暦で統一した方が、管理し易いのは間違いない。人と人の争いは主張の違いから生じる場合が多い。

他国の文化を否定することも争いの切っ掛けになったりする。そんな時、相手に二回主張させて、こちらが主張を一回にすれば、争いは減るかも知れないと、ふと思ったしだいである。

その理由は、「なぜ耳は二つで口は一つなんだろう?」と考えた。ひょっとすれば、これが「聞き上手」ということだろうか。

水商売でバイト経験のある女性から昔聞いた話であるが、「小さな店では通用しないかもしれないけど、女性が沢山いる店では、お客に気を遣って、よくしゃべる女性よりも、黙ってお客が喋る話に相槌を打ってるだけの方が喜ばれた」というのだ。

そして帰る時に「君はこんな難しい話がわかるなんて、頭のいい子だね」と満足して帰るそうだ。別に女性は話の内容が分かったわけではない。相手が喋ることに相槌を打って黙って聞いていただけだったそうだ。人は言いたいことを言えばすっきりするのかもしれない。

それなら外交でも相手国に二回主張させて、こちらは一回にとどめておいた方がいいだろうか。それはまた違うような気もする。やはり譲れないところは譲ってはいけないからだ。ただ、島国という井の中で暮らしてきた歴史が長いから、大陸の人間のように揉まれていない。

特に外国との交渉となると萎縮してしまうのか、羽を伸ばしてしまうのか、金を取られるばかりで、いい結果に結びつかない。

政治家の話術は、町村レベルの議員では話は下手だが、国会議員に立候補する者ぐらいになると、演説が上手くないと当選しない。聴衆を惹き付ける話術が必要になってくる。

その人に国や国民を思う心があるかより、耳障りな言葉が少なく、夢を語る話術が上手い人が当選しやすい。だから、政治家を目指す者は学生時代から「言論部」で弁を磨くのである。確かに主張をしなければ、相手には通じない。

しかし、日本人のように、いつも遠まわしに配慮に配慮を重ねた言い回しで、結局何を言いたいのかわからないような、主張しかできない国が、たまに断定して主張すれば、不慣れなせいもあって、恥を掻く主張か誤解を招く主張になってしまうのである。

日本では、「耳が二つあるということは、相手の話をしっかり聞きなさい。口は一つだから主張は半分に控えなさい。女性はおちょぼ口が理想です。より控えなさい」という文化なのに対して、欧米では、「耳が二つあるということは、しっかり情報を集めなさい。口は一つしかないんだから、その分はっきりと主張しなさい」という文化なのかもしれないなー。


▼公園を歩いていたら、セスナ機が飛んでいた。素人の練習だろうか、何度も何度も上空を旋回していた。

人生の勝者と勘違いしているような輩が操縦桿を握っているんだろうなー、と思いながら眺めていたら、曲がる時、羽が上下になるぐらいな角度になってたけど、空中でも遠心力は働くのだろうか。

もし、知り合いにセスナ機を持ってる者がいて「乗りませんか?」と言われても、俺は絶対乗らないね、とか空想しながら散歩した。

どんな人生を歩いてきた人達か分からないけど、今日も黙々とおじいさん、おばあさんが歩いていた。この歩みを目標を持たない若者に見せてあげたい。小中学校に熟年者の見回り奉仕活動。幼稚園児と老人ホームのコラボ。

夢を持たない死に急ごうとする子供たちよ、生まれて来た以上は生きるべきだ。老人は生きてるだけで、世間を励ましている。歳を重ねることで見えてくるもの、理解できるものがたくさんある。

昔、森重久彌さんが、何かの主題歌で歌ったものだが、今ふと、思い出した。

♪どんなに時代が移ろうと、どんなに世界が変わろうと、人の心は変わらない。

喜びに悲しみに、みんな生きている。だけどだけど、これだけは言える。人生と言うものはいいものだ。あ〜あ〜、あ〜あ〜、人生とはいい〜ものだ♪

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