敬天新聞4月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞4月号)

▼今の日本のような法治国家での人権蹂躙の最たるものは、おそらく「死刑制度」ではなかろうか。それでも口にはあまり出さないが、八割の国民が支持している。

私は声を大にして支持している一人である。日本では国民の「声」、「風」、「支持」によって、体制が変わるシステムになっている。今の日本は外国のように「革命」を起こさなくてもいいのだ。

昔は天下を取るために、戦いを繰り返した。また、近代国家ができる時にも、相当の血も流した。世界を相手に戦った時も、コテンパンにやられた。

そうした上で、今の日本ができあがっている。是か非かは別にして、負け犬根性が染みついてしまっているのも事実かもしれない。中国や朝鮮のように、声を届ける、風を起こす、支持を表明する、ことができない国もある。

我々は離れているから知らないが、アフリカ辺りには北朝鮮より厳しい国があるというから、驚く。それも一つの統治の仕方である。それを不幸と思う国民もいれば、幸せと思う国民もいよう。

現に「イスラム 国家」のような集団を支持する国もあったり、あこがれる若者もいるのだ。本能的に戦いを好む雄だけでなく雌までいるのには驚く。それが、現実の世の中である。

昔から、おそらく争いのない世界は「理想」だったろう。だが、有史以来「理想」が現実になったことはない。最小の集団は家庭である。幸せな家庭もあれば、不幸な家庭もある。

その原因は長である父親の責任による場合が多い。父親は立派だが、働く場所がなければ町の行政が悪いのかもしれない。町の行政が悪いのは国の政治が悪いのかもしれない。

そこで思うのだが、今ヤクザが暴力団と呼ばれて、仕事もさせない、弁当も買わせない、銀行も使わせない、という人権蹂躙に晒されている。

しかし、暴対法ができて二十年、それでも足りないと暴排条例ができて二年が経つが、勢力そのものにそんなに影響力が落ちたという感じを国民は持ってない。

唯一、工藤会だけは確実に組織力が落ちてるように、感じる。これは警察の徹底した取り締まりと、それを後押しする国民の支持があるからである。

つい一年前までは、余りの怖さに地元の人は声さえも出せなかったようだが、全国民の後押しがあって、風が吹き始めたようだ。

地元の人が声を出せない理由は一つである。地元の状況を知っているからである。それは取り締まる側の癒着である。下手に相談に行ったり、情報を流したら、直ぐ漏れることを知ってるからである。

東京では警察に情報を流して自身の仕事を有利にする、「狗」とか「鳩」とか呼ばれる輩が存在するが、地方では、これは「村八分」になってしまう。

また、中学、高校と一緒に過ごした級友が敵味方に分かれるわけだから、やりにくい。特にヤクザになろうとする者は子供の頃から荒っぽい性格だし、腕自慢も多い。 工藤会壊滅に向けた作戦が今のところ成功しているのは、しがらみの無い警察官や応援部隊を全国から、呼んでいることである。

どこまで、弱体化させるかであるが、撲滅させてしまったところで、辞める者もいようが、殆どが結局は、どこかの組織に吸収されて、その組織を利するだけで、イタチごっこでしかない。

本当に暴力団組織を撲滅するという気持ちがあるなら、国民にその必要性を問うて見ればいい。国民の声が八割を超せば「組員の起こした罪はすべてトップの責任」とか「千人を超える組織は認めない」とか、何でも法案として通ろう。

それより、任侠としてのプライドが何よりも強いヤクザ組織は、自分達が世間で必要とされていないという結論が出れば、解散を宣言する組織が雪崩を打つよ。

しかし、現実として、政治家や企業トップがヤクザの暴力装置を利用しているという側面もあるし、余りにヤクザ組織の勢力を削ぐことで、準暴力団の様な集団の台頭や外国人犯罪者集団の台頭もある。そこら辺の対策は万全なのか。

だから、ヤクザ組織にだけ人権蹂躙を押し付ける必要は無い。聖域を作らず、犯罪の全てを厳罰化すれば、理想の国家に近付くことは間違いない。

▼新橋の寺小屋(寺ちゃんの小屋)万世は相変わらず先客万来である。ここの主宰者寺ちゃんは、私を初対面のお客さんに紹介するとき、「この人は今、売って売って売ってる盛りの人だから」と先ず、枕詞を付けてから相手に紹介する。

そういう紹介をされるようになってから、もう十年も経つが未だに、果実が実ったような感覚はない。寧ろ、登り切ってもいないのに下り坂という感じさえ感じる今日この頃である。この一節だって、過去に一度か二度書いたような気もする。

昔書いたかどうかも忘れていたり、同じことを繰り返したり、ということは、外国からわざわざアルツ君が時々、遊びに来ているのだろうか?しかし、私の作風から言えば、小さなキャパシティー故、ワンパターン、ワンフレーズの域から抜け出せないレベルだから、許されて読んで頂きたい。

例えば、作曲家でも画家でも、曲調を聞いただけで、これは誰々の作曲だとわかったり、この絵は誰々が書いた絵だとわかったりする場合がある。有名なのは「爆発だー」で一世を風靡した岡本太郎であろう。

著名な人を引き合いに出して恐縮だが、人の持つ感性と言おうか、培った生き様と言おうか、そういうものは「その域を出ない」と言いたいのである。もちろん、評価は人それぞれに違ってくる。

こう書くと、飲んでない時の寺ちゃんは、「お見事。そっちは腕をあげたねー。もう、とても足元に及ばなくなったよ。いやー、立派。」と持ち上げる。そして、飲んでる時には、「あれは、前にも書いたじゃん。敬天もそろそろ、だね」と突っかかってくる。

そして、こちらが「だから、ちゃんとアルツ君が遊びに来てるのかなー?、って書いてるじゃないの」と言うと、「ちょっと待ったー。」と、相手の話を遮ってくるのである。

そして、お客さんと喧々囂々、ひとしきり、右側から見た理論を「酒場で」吠えまくるのである。話の内容は立派なので、ぜひ街頭演説でもお願いしたいと思っている。

そして、侃々諤々が終わるとカラオケに行って、でかい顔を鶏のリズムに乗せて歌うのである。想像が難しい人は、形態模写のコロッケが島倉千代子の真似をして歌っているという感じを思い出して頂ければ、いいと思う。

寺ちゃん曰く、「頭が太いので重たくて、歌いだしたら前に横に垂れてくるので、リズムに合わせて持ち上げているだけ」だそうである。ぜひ一見の価値あり。ただ、飲み過ぎなのか、最近顔が小さくなっているのが気になる。健康には留意してもらいたい。

新橋駅周辺には一流の詐欺師、事件師、ブローカーが事務所を構えているから、その周辺者もまた集まってくる。駅周辺の喫茶店には朝昼晩とてんこ盛りである。

寺小屋にも当然、そういう輩も集まってくる。情報を持ってくる人。その情報に絡みたい人、それらを記事にしたい人、それを調査したい人、それらを操作したい人、それらを捜査したい人、中には飲み食いに参加したいだけの人、とか様々である。

私はそんな新橋駅頭で二十年街頭演説をやってきたので、寺小屋の住人や近隣住人には、それなりに知名度はあろう。だから、名前は知らないが、挨拶をされるので、こちらも返すという関係の人が沢山いる。

私は寺ちゃんのように愛想よく話ができないし、人付き合いができないので、カラオケも滅多に行かない。詐欺師、事件師、ブローカーという部類の連中は、好んでヤクザの看板を使う。それも看板が大きく強くなければ意味がない。

相手を騙すアイテムとして看板を使うわけだから、相手を畏怖させる威力がないと意味がない。ましてや自分が喧嘩できるわけがないから、戦わずして相手に戦意喪失させなければ、看板を使う意味がない。

だから、ヤクザ以上にヤクザっぽいのである。その辺の事情を、元後藤組組長の後藤忠正氏が著書「憚りながら」の中で「本物の舎弟と企業舎弟とは、腹の座り方が月とすっぽんほど違う」と書いている。その通りだと思う。

ヤクザ社会の掟の中で、飯を食っている者は、吐いた唾は呑み込めないことを知っている。間違った場合、その代償が如何ほどのものかを知っているから、軽々には論じない。事件師、詐欺師、ブローカーは本物のヤクザではないから、あっちこっちの親分の名前を使う。

その時代、時代に名前の売れた組の名前を使うのが、儲けの早道である。こういう輩と一度お茶飲んだ親分は、親分がトップを走っている間、「親しい仲」として、ずっと名前を使われるのである。

その新橋今昔物語を先月、朝日新聞が記事にしていた。当紙も今昔の「今」として、掲載されていた。昔も今もサラーリーマンの原点の街が新橋なのである。

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