敬天新聞5月号 社主の独り言(甘口)

(敬天新聞5月号)


▼韓国時代劇ドラマはおもしろいだけでなく、学ぶことが多い。日本の政治家も、くだらん日本のテレビを見るより、韓国の時代劇ドラマを見て学んでもらいたい。

NHKでやってる奇皇后もおもしろいが、今私が是非日本の政治家の皆さんに見て頂きたいのは、昼間の一時からBS7チャンネルでやってる「広開土太王」である。高句麗の王が主役であるが、周辺国と戦いながら、領土を広げていく物語である。大国の王は傲慢であるし、小国はいつも苛められて悲哀である。

先日の場面では、絶壁の要塞である百済の関弥城を攻めるにあたって、干満の差が激しく水路からは攻められない環境であるが、日食の日の一日だけ、潮が引き道ができる瞬間に攻め込むという方法しか、城を攻め落とす方法がないという設定に、出征者は生きて帰れないことが分かっているので、その作戦に王は反対する。

しかし、武官達は出征を志願する。王に隠れて行動した者を、厳しく処分しようとした時、武官のトップは「武官の誉れは、主君と国のために命を捧げること。これ以上の名誉はありません」と告げる。

それを聴いて王は、「余の命も、そなた等の命も尊さは同じである。それなら、余が先陣を切る」と言い放ち、戦争を決意する。また、部下は部下で、その志願した一人に「お前は妻や子供がいるから辞退せよ」と言うと、「国があってこそ、家族も生きて行けます。行かせて下さい」と志願する。

涙なくしては見られないシーンだった。政治家にも、最近の日本の子供達にも見せたいドラマである。どこの国も、国と民の考えは一緒である。祖国が踏みにじられれば、誰かがリーダーとなり、奪い返そうとするし、小国はいつの時代も悲哀を受けて屈辱を感受しながら生きてきたのである。

だから強くなりたい。国民を豊かに幸せに導きたい。これがいつの時代も、どこの国でも為政者が考えることなのである。しかし、必ずしも結果が良と出るわけではない。相手もまた同じ事を考えているからである。だから、外交というのは、駆け引きであるのだから、押したり引いたり、恫喝も親切も必要なのである。今の日本の外交は、押したりが全くなく、「引いたり、引いたり」ばかりなので、舐められてしまうのである。国内の苦情を力で押さえつけてしまう共産社会の中国見たいに、恫喝ばかりも品がないが、羊のような外交もまた国民は疲れるのである。実力と外交とのバランスは取れてない韓国であるが、気迫だけは、韓国ドラマに学びたいものである。

日本のテレビドラマは、作る前から、周辺国に気遣いばかりして、歴史認識が遠慮しすぎなのである。時代により、強かった時代、弱かった時代とあって当然である。メソポタミア(どこにあるのか知らない)が栄えた時代、エジプトが栄えた時代、ギリシャが栄えた時代、ローマーが栄えた時代、中国が栄えた時代。そうだ、マヤ文明が栄えた時代もあった。歴史は見る角度によって全く変わってくるが、民族の誇りを維持するためにも「ありのままに」がいいのである。

▼私が手塩にかけて育てた娘とカラオケに行った。手塩にかけて、と言うのはオーバーである。手塩にかけて育てたのは母親であって、私は生活費を渡しただけで、これと言って育てたわけじゃない。世の中にはそういう男親は多い。ところが、成長する過程で、会話がスムーズに行かなくなったり、男親を嫌ったりして、疎遠になったりする。

息子なら、多少は心理もわかるので、言うこときかなかったら、取り合えず、殴っておけばいい。というようなことで、男親と言うのは、娘との関係はなかなか難しいのである。その難しい娘とカラオケに行った。疎遠になった頃の生活ぶりを知らないところもあったので、不安な部分もあったが、よく笑うので、可もなく不可もなく楽しく育ったのだろう。歌は上手いのであるが、何せ最近の歌は全くわからない。私は演歌を歌うのだが、娘は演歌がわからない。私が歌い終わると「せつな〜い」と叫ぶ。演歌の場合、基本的に寂しい、悲しいが詩や曲のサビになっているので、そう感じるのだろう。

私が「歌っていて、涙が出てくるような歌もあるの?」と尋ねると、「あるよ」と言うので、「それを歌ってみてよ」と言うと、「これは歌詞が泣けるのよ」と言いながら歌いだした。画面で歌詞を見てても、泣けるような歌詞は出てこない。

どう考えてもそこらへんの日記のような詩なのである。それに比べて演歌は、過去の暗くつらい日々を思い出して、やっと今ここまで来れたよ、お前のおかげだよ、といたわり合う心が泣けるのである。

それを説明すると、「おも〜い」と一蹴されるのである。教育の違いで、美しい言葉、日本語の深さ、漢字の意味とかの、学び方、教え方の違いで、解釈や感激が変わってきてるのかなー、と感じたけれど、よくよく考えれば、我々世代だって、その親の世代に比べれば、漢文なんか殆ど読めないし、日本語の持つ美しい意味や響きを、どれだけ引き継いでいるかと言えば、全く疑問である。

この子達もいずれ親となり、歳を取ってくると、それなりに演歌の心が分かるようになり、家族や社会や自然に感謝する日もくるだろうし、そう考えると、単に、歳の差の感性の違いという結論に達したのである。「あま〜い」。

▼公園を散歩していたら、蝶々がぶつかってきた。フラフラっという感じだろうか。クラクラっという感じだろうか。

高速道路を車で走っていて、蚊やカナブンみたいなのがフロントガラスにぶつかるケースはたまにある。しかし、蝶々がぶつかってきたのは人生で初めてである。身体の一部に停まったという事は過去にもあった。

しかし、ぶつかってきたのは初めてである。ボケーっと飛んでいたのだろうか?春になったばかりで、しばらく飛んでなくて、飛び方を忘れたのだろうか?いや身体障害を持った蝶々で、目が悪かったのかもしれない。それとも、人間の子供だったら、露骨に嫌な顔をする加齢臭が蝶々には得も言われぬ心地よい香りに感じて、フラフラと寄り添ってきたのだろうか?いや、私の男冥利にクラクラっとしたのかも知れない。妙齢の女性は私の良さをわかってくれぬが、蝶々だけが、愛を感じたと言うのか。

それにしても、二十代、三十代のイケ面ならわかるが、還暦も過ぎた熟男をよくぞ選んでくれたと一日中嬉しかった。公園はすっかり、冬から春へと衣替えをしている。

この記事は五月号として掲載しているが、前段部分は実は、三月の終わりに書いてるから、少し季節の移ろいに誤差が生じている。まー、一ヶ月前は何をしてたかなー、と思い出しながら、アルツハイマー訓練も兼ねて読んで頂きたい。

公園を歩き始めた時は、桜の花が一分咲きだったのに、帰る頃には五分咲きぐらいに変わっていた。たった一日で、これだけの変化をするとは知らなかった。

こんな身近な出来事さえ、還暦になるまで知らないんだから、人生死ぬまで勉強ですな。今日は蝶々に愛を教えられ、桜に自然を教えられた一日だった。と気持ちよくロマンチックに文章を終わろうとすると、高校時代の古典の恩師が「お前はここが間違ごうとろうも〜ん。文法が違うよ。もう忘れたとかー?」と電話がかかって来る。

夫婦ではないが、あれからから四十年である。教え子に恥を掻かせたくないといつも一字一句誤字が無いか監視されているのである。「つら〜い」。


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