敬天新聞6月号 社主の独り言(辛口)

(敬天新聞6月号)


▼一水会の木村三浩代表が右翼陣営から攻められていたが、右翼という名前を使わないという事で決着したようだ。木村代表も新右翼というジャンルで縦横無人の活躍をしていた。

新右翼という名を広めたのは、多分野村秋介先生であったろう。おそらく、既存の右翼と呼ばれる分野から枠を超えて自由に活動すると言う意味があったのではないか。

木村代表自身は今も、そういう感覚での活動かもしれない。だが、伝統的右翼陣営の人達から見れば、右翼陣営が感覚で持っている一線を越えていたのだろう。私も軽々には記事を書けないので、何人かの年配者の意見も聞いてみた。  「色んな手法があっていい」という意見から、「明らかに一線は越えている」まであった。「左翼に比べて右翼は地味だから、華やかな言動は歓迎する」という意見もあるが、元々右翼という勢力の歴史は国体護持・安泰・繁栄・皇室の弥栄等を目的としている。

普段の活動は地味こそが右翼の真骨頂なのだ。言うならば、国家民族に価値観を置き、その心情の下、政策論の相違は今まで問わなかった。そのために、線引きが分からなくなったのかも知れない。

よく代表される論点の一つに、反米と親米がある。それこそ愛国的立場から論ずるなら、どちらも正しいと言っていい。だが、現状はしっかり見なければならない。反米を声高に叫んでも、核も軍隊も持たない現状で、アメリカと対峙、できるのか。

アメリカと日米安保を解消した途端に中国は尖閣を占領し、沖縄の侵略を現実化するだろう。アメリカが過去に日本にやってきた悪徳行為を訴えるのはいい。 今、世界各地の紛争に介入しているアメリカの警察的軍事行為に間違いはないのかと、世に問うのもいい。しかし、それを言うなら同時に、核と軍隊を持つべきであると言う事もセットで言わなければ説得力はなかろう。

特に、木村一水会の反米運動は、アメリカと対立する国や地域、団体との交流が盛んに行われているが、一時期は評価される領域ではあったが、段々エスカレートして、国から追放されたような集団であったり、犯罪者集団のような団体との交流も目立つようになった。

誰と交流しようが勝手である。マスコミに出るのも自由である。右翼陣営側のいい分を聴いてみると、その点で苦情を言ってる人はいない。

要はマスコミに煽てられ、「右翼側を代表した意見と勘違いされるような発言をしないでくれ」と言うものだ。「木村の言動は、とっくに右翼の一線を越えているし、それに代表する意見でもないし大物でも何でもない」と言うわけだ。 確かに大物と言うのは、マスコミのヨイショも含めた、ビジネス表現ではあろう。まだそこまでの貫禄ではない。一般的な知名度は高いが、古い伝統・しきたり・秩序を重んじる世界だから、その辺はうるさいようだ。

最近の木村代表の付き合いを見ていると(一水会が発行している新聞でしか知らないが)、左翼関係者が多い。別に個人としての付き合いにケチをつけるつもりはない。

だが、その関係が、個人的な関係を超えて、右翼陣営からみれば許せない一線を越えているのである。おそらく木村代表自身は、野村先生が掲げられた新右翼は自由な発想であった、という考えがあるのかもしれない。

確かに野村先生も右翼の枠を超えたような、人脈や付き合いはあったようだ。しかし、個人的な付き合いはあったが、言動では最後まで右翼の矜持は持っておられたはずだ。だからこそ、未だ信奉者は多い。

野村先生の意思を継いでいる第一人者である蜷川正大氏に意見を聞いてみればいい。先ず私に言わせれば、鳩山由紀夫と行動を共にしたことは理由の如何を問わず、理解は得られまい。

鳩山は右翼陣営から見れば、売国者と言われる最たる一人である。今は国が豊かだから、危険な発想を持つ者は少ないが、戦後のような混乱期で尚且つ国が貧しければ、最初に命を狙われる人物であろう。鳩山は「尖閣は中国にくれてやればいい。」という考えの持ち主である。尖閣を中国に取られたら、そこを足がかりにして次は沖縄を狙うだろう。

先ず、沖縄の独立運動を煽り、独立した暁には、堂々と力でねじ伏せ、中国に編入してしまうのである。鳩山という男は、良心的(?)地球市民を上回る、宇宙的市民を自認しているから、国と言う垣根を取り外すのが目的であろう。それは夢のような理想の中の理想である。

だが、世界の現実を見よ。どれだけの国と地域で戦争が行われているのか。鳩山は食うに困らないだけの金を持っているから、言いたいことを言えるのだ。 世界を平和な一つにしたい宇宙人を自称するなら、先ずは一〇〇〇億の資産と言われる全財産を、国でも世界でもいいから寄付せよ。大抵の争いの種は貧困である。

行き先々で、口先だけのトラブルを振りまく鳩山は、日本にとって百害あって一利もないのである。その鳩山を連れて歩いて、右翼として国を語るな、と右翼陣営は言っているのだ。

私自身は似非右翼だ、新聞ゴロだ、総会屋だ、と言われ、半分あたってるところもあるから、否定も肯定もしない。右翼標榜新聞とも恐喝新聞とも言われる。 何を基準にこう呼ばれるかは知らないが、いずれにしても私自身の不徳の致すところであることは間違いない。だから、せめて記事だけは、不正、不条理を見つけたら、正しく記載し、徹底的に暴露して、事件化に繋がる端緒にしようと心掛けている。

私自身は自分の立ち位置を、極端な右側とは思っていない。左側の真髄である組合的な発想とか、共産党的発想がどうしても納得できないから、対称側にいるだけである。国が無くなれば、民衆は路頭に迷い難民になるしかない。侵略された国の奴隷になるしかないではないか。その事実は、何千年と続いた世界中の歴史が証明していることではないか。

共産社会で言う平等も、力でねじ伏せた偽りの平等であることは、中国や北朝鮮を見ても明らかだろう。

また、動物が基本の人間であるから、本質は動物の本能に似ている。弱肉強食が基本であることは人間も同じである。それは食物連鎖を見てもわかる。表向きは食われる動物を可哀想と言いながら、一方で一心不乱に抵抗できない動物を食す。

食は生きる上での核心であるからだ避けられないことなのだ。普通の人であれば、何処の国の人でも、人種・地域に関係なく、生まれた郷土・国に誇りを持ち、愛郷、愛国精神はあるはずである。

だから、主義・主張が異なり、外交で対立し争いがあるのである。木村代表はタレントになりすぎた。右翼は影のような存在をよしとするのではないか。新右翼であれ、新々右翼であれ、右翼という名を使用する以上、右翼の範疇を超えるのは不味いと陣営の者は言っているのである。

おそらく自分では気付いてないのかもしれないが、一線を越えたのは間違いないだろう。そうでなければここまでの抗議はしないはずである。

右翼陣営と言うのは、国家護持・日本主義・尊王愛国を考える人達の集団であり、多くの団体の集まりだから、細かくは色んな考えの人達がいる。だから、一つの団体のように「破門状」と言う形は出せないのかも知れないが、陣営を混乱させたのは間違いないわけだから、その責任は取る必要があったろう。

東京都知事を仲間に引き入れたり、徳田議員を味方に付けたり、鳩山由紀夫の心を掴んだり、既存の右翼にない、類稀な人心掌握の才能を持っているわけだから、右翼という名前を使わなくても、充分やっていけるだろう。

もう名前も充分売れたろうから、評論家としてもやっていけるだろうし、そこで君の理想とする右翼論を言論で語ればいい。このまま混乱を続けるのは得策ではないと思っていたので、先輩として意見を書いてみた。

▼一水会の鈴木邦夫顧問が木村三浩代表の立場をやんわりと擁護する意見を述べられている。師弟関係であろうから、当然である。

右翼には自由闊達な活動がなかったから、左翼ほど市民運動が盛んにならなかったし、支持されなかったというのである。同じものを目指しているのではないから、当然である。鈴木顧問は既存右翼の度量が狭いと言いたげである。

右翼と言われる人達は「浪人」を憧れの生業と考えている人が少なくない。従ってビジネスに疎い者が多い。理想はスポンサーがいて、自由に生きる、のようである。しかし、昔と違って、環境は厳しい。国も豊かになって、目標も見つけにくい。単に反共・愛国・北方領土返還・日教組糾弾だけでは、理解も得にくい世の中になった。だから、左右を超えた大所高所からの判断が必要な時代なのだ、と言いたいようだ。ところが、殆どの右翼陣営で活動している人は、鈴木氏ほど執筆を振るえない。

右翼陣営の立場から執筆で飯を食えてる代表者が鈴木邦男氏ではないか。もし、鈴木氏が新右翼であれ、「右翼」という肩書きがなかったら、今ほど注目を浴びないだろうし、著書も購読されるかどうかもわからない。

あちこちの雑誌社から連載や対談が組まれているが、それらもあくまで、「新右翼」の立場で重鎮としての依頼ではないのか。その立場がなかったら、需要がそれほどあったかどうかはわからない。立ち位置が右翼と言う側に居て、その立場で利益を甘受しながら、右翼を批判し、明らかな左翼を代表する政治家達を応援して廻ったりするのは、明確なルール違反であろう。裏で個人的に支援したり、友情を育むのは別にいい。誰にでも事情はあるからである。

ところが、鈴木氏は色んな雑誌や、或いは選挙区に行って、堂々と右翼陣営が敵とするような輩を支援する。北朝鮮でも中国でもロシアでも、今敵国と思われてるような国へでも、その国と交流を持つ者と帯同して出かけるのである。

私自身も自民党がだらしなかったり、中央官庁の不正が発覚した時等は、何度も共産党候補者に投票したことはある。また是々非々で意見が合う者もいるし、人間的魅力で惹かれる者もいる。だが、表に出て行動を共にするという事は、その全てを是としていることと同じである。少なくとも世間はそう見るだろう。だから、我慢ならぬと右翼陣営から批判する者が出てきたのであろう。

だから、タレントとか評論家として、活動すれば、右翼陣営としては誰も文句は言わないと思う。鈴木顧問も、木村代表も過去には右翼としての立派な活動歴もある。しかし、今の言動は左翼活動そのものである。右から左に行く人。左から右に行く人。長い人生には色々ある。別に転向したからっていいじゃないか。右翼と言う立場を、最も甘受している一人でありながら、左翼的な言動はおかしいのではないか、と言っているのである。

新右翼の代表であった野村秋介先生の継承者である蜷川正大氏も、右翼陣営では珍しく執筆活動で飯を食ってる一人だが、軸足はしっかり右翼側においての言動である。

確かに右だ左だと限定しない方が、物事の捉え方は広く正論が語り易い。右翼はヤクザと同様に見られるところもある。先ず考え方が似ている。

右翼は愛郷、愛国が基本である。ヤクザにも地元を守るという概念がある。また右翼はヤクザの補完勢力という一面もある。組織力、経済力、支配力、暴力等、全てにおいて、ヤクザが一枚も二枚も上である。 しかし、思想戦略、政治運動、社会運動に関しては、右翼にしかできない活動であることも事実である。鈴木顧問も、木村代表も、右翼陣営には珍しく、タレント性があり、交際術が上手い人である。

自分では相手を説得して、自分の側に組み入れるという考えを理解して貰えなかった、という解釈のようであるが、付き合ってる相手はガチガチの左翼の猛者なわけで、とても転向するような柔な輩ではないのは一目瞭然で、両名の方が、左側に引っ張られて、確実に足を踏み入れてるなー、という感じを殆どの人が持っていたのである。

あくまでも私の私見として書かせて頂いた。

敬天ブログ敬天新聞トップページ敬天千里眼社主の独り言