敬天新聞8月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞8月号)


▼今月は安倍総理が戦後七〇年の節目に当たると言うことで、談話を発表するそうである。毎年毎年盆の季節になると、謝罪発言をすることが慣習のようになって当たり前化しているが、そんなに敵国に謝罪し続けなければいけないのだろうか。詳しくは敵国ではない。

何年か植民地として統治していた韓国・北朝鮮・中国に対してである。アメリカをはじめとした本当の敵国だった国々は別に謝罪を要求しない。

また同じく侵略されていた他のアジアの国々では、そんなに謝罪を強調する国はない。朝鮮半島は長く中国に支配され、苛められてきた。朝鮮半島だけではない。中国の周辺国は、全ての国々が中国に虐げられてきたが、中国に賠償せよとか謝罪せよとかは言わない。

恐れ多くて言えないのである。言っても実行されないのは目に見えてるし、下手すりゃその言葉を口実にまた侵略してくる可能性だってある。そういう認識が、長い歴史の中で擦りこまれているのだ。

勿論言ったところで、中国は歯牙にも掛けないであろう。アジアを長く支配(植民地)してきたヨーロッパの国々も、当たり前のように歴史を語るし、支配されてきた国々も、賠償請求しているという話を聴かない。 歴史と言うのは国内外問わず、食うか食われるかを繰り返してきたのであり、どちらが正しいという結論は有り得ないのだ。逆の立場から見れば、真逆の答えになるからである。単に強かったから勝ったのであり、弱かったから負けたのである。

策略であろうが、騙しであろうが問題ではない。勝つことが正義の全てであったのだ。勝ちさえすれば、幾らでも理屈や理由は付けられる。本当は一度話が終わればそれで終わりの筈であるが、中国・韓国だけは毎年毎年ぐじゅぐじゅ同じことを繰り返し言っては金を無心していくのだ。

これには日本側にも責任がある。戦争が原因で謝るなら敵の総大将だったアメリカに謝ればいい。戦争に駆り出した国民に謝ればいい。韓国との賠償は終わっている。 今頃になって、今の価値を持ち出して、少ないとか、あれもこれもと言われても、その当時のトップ同士が決めたことである。責めるなら自国のトップの能力の無さをこそ責めるべきである。

また相手から苦情が出れば、揉み消すために裏から「金を払ってきた」歴史があるのも事実である。ODA資金なども利用されてきた。そして、仲介に動いた政治家がキックバックを貰うことで強請られ、また出さざるを得なくなる。  それを生業にしている者たちがいるのも事実である。日本人は旅に出ると心が浮ついて、旅の恥は掻き捨てと勘違いするのである。だから相手の国策女との写真を撮られる。

隣国との垣根が無い海が、警戒心を緩めてしまうのだろう。その海の危険さに気付いたのが安倍政権である。政治とは表では綺麗ごとを言うが、現実の裏は汚さ、醜さ、騙し、裏切り、策略が満ち溢れているのである。もう謝罪発言は止めたがいい。

その発言が、相手国の内政引き締めに政治的利用されるだけなら、何年経っても終わることはなかろう。今の安倍政権のように無視するしかない。そうすれば相手は自滅するのである。安倍総理も今の時代に則した自身の意見を述べればいい。河野談話や村山談話を踏襲する必要は全くない。

▼東京オリンピックの開催式を行う新国立競技場建設が白紙に戻された。開催決定の立役者だった石原都知事が引退し、その後を継承した猪瀬都知事が予想もせぬ出来事でズッコケてしまったから、リーダーがいなくなってしまった。

リーダーがいないと言うことは、責任の所在が判らないということでもある。それを良いことに、やりたい放題の予算編成が浮かびあがってきた。一三〇〇億だった建設予算が、いつの間にか二五〇〇億円になって、それでもまだ屋根代が入ってないとか、観客席が可動式ではないとか、三千億を超える勢いだった。取りあえず安倍総理が介入して、白紙に戻したから一応収まったが、そのままにしておいたら、野党のエサにされるところだったろう。

流石に白紙に戻したら、野党の批判は弱くなった。こちらと安保法案の両方を攻めれば焦点がボケてしまうからだ。白紙に戻したからと言って、ドサクサに紛れて利益を享受しようとしたのは誰なのか、誰が暴走したのか、なぜ迷走したのかは検証されなければならない。

この責任の所在を有耶無耶にし、ケジメをつけないことが、役人と政治家の無責任なところである。そういう意味から言えば、民主党は先頭に立って徹底追及があってもいいのだが、勢いがない。本当にこのやり方がおかしいと言うのであれば、徹底追及して、その不正者は罰すべきであり外すべきである。私は先ず迷走した最大の原因はサメ脳森元総理をオリンピック組織委員長にしたことだと思う。

それまで森氏はラグビー連盟の会長であり、ラグビーワールドカップを日本に誘致した立役者であった。オリンピックのことなんか頭になかった。ラグビーに関しては青春時代の思い出もあり、感謝・恩返しの気持ちが強く、無報酬で無欲で貢献してきたはずである。しかし、主宰者として金はかかる。ラグビー連盟には金はない。国民の理解も今一である。そこで降って湧いた東京オリンピックの責任者の話である。慌ててラグビー連盟の会長職を降り、オリンピック委員長に専念した(ような振りをした)。

しかし、頭の中はラグビーが中心である。ラグビーの開催とオリンピックの開催がダブってくる。オリンピック開催は国民に認知されているが、ラグビー開催のことは知らない人も多い。

オリンピックに多少、高額な金がかかっても国民は納得しているが、ラグビーに高額な金がかかることには国民は納得(了承)していない。しかし、その両方を成功させたいという森氏の考えに矛盾を感じる人はいても、安倍総理の後見人を自称する森氏に意見は言えない。

その責任所在を問えない状況の中で、予算を膨らます部署や業者まで現れたのである。この際国民から、オールジャパンの支援を受ける体制を再考するのであれば、オリンピックの責任者から森氏を外し、まだ手垢が付いてなくて、世の中の柵に縛られてない若い人を責任者にしたらどうか。

小泉進次郎議員なんか最適任者ではないか。被災地にも通い続けているということで被災者に信頼があるし、おばちゃんにも人気がある。第一、東京オリンピックのサブタイトルは「復興オリンピック」ではなかったのか。

森氏は根はいい人だし、サービス精神も旺盛だから、つい本音が出てしまう人である。開催までの5年間にまだまだ、二度や三度の失言はあるだろう。森氏は実務には一切関係ない名誉顧問ぐらいが適任であろう。そして、本来のラグビーで活躍すればいい。

また東京という冠が付いているわけだから、表向きの顔は都知事でよかろう。JOCの役員も見直した方がいい。中には激しい火を噴く可能性がある者もいる。

▼安倍総理が骨太の逞しさを見せている。前回の脆弱さとは比較にならない。いいことである。リーダーと言うのは良くも悪くも結論を出さなきゃいけないところがあって、大衆に流されてはいけない信念が必要である。同じ白黒を付ける立場に裁判官がいるが、裁判官の基準はあくまでも憲法であり法律である。そんな裁判官でさえ時に、大岡裁きをする人もいれば、なんじゃこりゃと言う人もいる。国のリーダーは裁判官ではないので、憲法、法律だけでは賄いきれないところがある。よく使われる政治的決着である。

国のリーダーは大きく言って二つの舵取りがある。一つは国内を治める問題。もう一つは外国との交流の問題。国内の問題に関しても一億人が居る訳だから当然意見が違い、纏まらない。しかし、纏まらなくても方向性は出さなきゃならない。その方向性に反対意見の人は、大声で批判をする。

そして、どちらがいいか選べないという人たちを煽って取り込もうとする。日本人は何事に関してもあまり自分の意見は言わない。相手に言わせて、後から陰でこそっと、そこら辺で「それは良いとか、それは良くない 」とか言う国民性である。

安倍総理の不支持率が支持率を上回ったと言って、現政権に揺さぶりを掛けたりしているマスコミもある。此処で動揺して右往左往すれば、相手側の計略にかかってしまうのである。そいう意味では高村副総理の「我々は支持率で政治を行ってきたのではない。国民のためになることは多少支持率を下げても進めてきたのが自民党の歴史である」は良かった。

政権与党を担う政治と言うのは大衆に良いことばかりを言えないのである。時に嫌われる、恨まれることもしなければ国は維持できないのである。野党は無責任だから、国民受けする都合のいいことばかり言えるのだ。税金で国が運営されてる以上、税収が足りなくなれば、国民に増税策をお願いしなければならない。ただこの件に限って言えば、官僚、政治家の無駄遣いは、全国民から批判されても仕方がないところがある。森元総理の「たった2500億円」発言がその非常識度を、顕著に表している。税金がもっと有効に精査されて使われれば国民も政治を信用するのであるが、現実は国民に厳しく、政治家に甘い処遇に映るので、理解が得にくいのである。

外国との交流についての舵取りであるが、これは国内で出す方向性よりも、もっと難しいのである。相手の国々もそれぞれに文化や風習や言葉が違うからである。もっと言えば民度や常識さえも違う国もあるのだ。それらの国々とも交流を持たねばならないのである。

昔のように、鎖国を宣言するとかもできないのだ。時代は確実に流れているし、その時々で世界の情勢も変化している。世界が動いていて、尚且つ世界の経済の中心で利益を享受し、世界中との貿易で成り立ってる日本国が、事故や事件もなく世界中を航行できるのは、通過する国々の安全管理のお蔭である。

例えばソマリア沖辺りには海賊が出る。それらも近隣の国の対策のお蔭で安全が守られている。逆に、日本近海で正体不明の海賊船に、外国船が襲撃されて、その船から日本にSOSが来た時、「日本は憲法で戦争放棄を謳っているので、外国船のトラブルには介入できません。申し訳ありません」と知らんぷりを決め込むのだろうか。

結果的にそれが原因となって、相手の国から抗議される結果となっても、義を見てせざるは勇なきなり、と助けに行くべきではないか。自国の権利だけ訴え、世界の一員としての義務を果たさない国として、それこそ世界中から批判されるのではないか。これこそが今国がやろうとしている安保法案の骨子である。

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