敬天新聞9月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞9月号)


▼安倍総理の七十年談話について、中国や韓国の金毟りに協力するような陣営からの大騒ぎであったが、終わって見れば拍子抜けたように、何の反応もない。今思えば、安倍総理に物言わせぬための恫喝プロパガンダに過ぎない小細工だったのであろう。

毎年毎年終戦記念日になれば、韓国と中国に謝罪を要求され、節目の年の談話にまで、内容をチェックされ、バカかと言いたい。アジアの国々は韓国と中国だけではない。談話と言うのは、よその国から指示されたり、干渉されたりして述べるものではない。時の総理が、戦後七十年経って、今感じることを述べればいいことであって、述べる前からとやかく言うことではなかったのである。

戦後七十年の間に、世界は目まぐるしく変わり、日本が先の大戦の反省から、世界に貢献したことも多々あるのである。特に中国への貢献は顕著であったはずだ。

村山談話が常に談話の標準軸のように言われるが、それは棚から牡丹餅でたまたま五十年という節目に巡り合わせた、村山氏の運の強さもあったろうが、あくまでも彼の感性で語りたかったことが談話になっただけで、国民の総意とは限らない。その前の河野談話にしても、河野氏の個人的な意見に過ぎないのである。それを何で歴代総理が踏襲しなければならないのだ。敵国からみたら、過剰な謝罪意見、気配り、気遣い談話は、大歓迎のはずである。それが公的なものであればあるほど価値はあろう。なぜなら、訴訟等での高額な賠償にも繋がるからである。

この百年の戦争責任で罪を問うなら、世界中の国々の人たちは間違いなく、アメリカを選ぶだろう。どこの紛争にも介入し、問答無用で相手を叩き潰す。兵器の種類にも容赦はしない。勝つことだけが使命である。人種にも宗教にも、国境にも、相手を選ばない。一人の国民を助けるために、千人の相手さえ殺す。しかし、これがアメリカの正義である。国だけではない。悪と思えば、他国に存在する一つの組織にだって、牙を剥く。世界の警察たる所以である。アメリカは自分のやった行動に対して、一切謝罪しない。個人的には反省はしているかもしれない。

だが、国としては謝罪しないのである。またアメリカに賠償を求める国もないし、しても相手にされない。それはアメリカが自国の行動に対して、ゆるぎない正義感を持っているからである。原爆を落としたことに対しても、個人的には感傷的な意見を言うアメリカ人もいるが、公的には堂々と肯定するのである。

それは否定=謝罪=賠償に繋がるという感覚がアメリカ人にはあるのであろう。日本人の文化では、ちょっと体が触れただけでも「あっ、すみません」と言う言葉が直ぐに口から出る習慣がある(最近は少ない)。そういう感覚での謝罪も、外国では悪意を認めた謝罪と受け取られることはあるのである。

そういう意味では、安倍総理の謝罪に一定の区切りをつけるという考えは正しい。一緒に仲良くやって行こうと言いながら、都合悪くなったり、金が欲しくなったりしたら、謝罪を求める姿勢を強調されたら、一緒に仕事なんかやれるわけがない。

遠い親戚より近くの他人である。遠い中国より近くの台湾である。世の中には、何でというほど、悉く気が合わない人はいるものである。とにかく何を言っても反対する人は反対するのだ。それにしても、高市早苗総務相、山谷えり子拉致問題担当相、有村治子女性活躍相、立派だねー。


▼日本の終戦記念日間近の八月十二日、鳩山由紀夫がわざわざ韓国まで行って、日本の朝鮮半島統治時代に独立活動家らが収監されていた場所(西大門刑務所跡地)で、ご座の上に正座して謝罪した写真が流れていた。この男は目立ちたがり屋なのか、パフォーマンス好きなのか知らんが、行く先々で、頭下げて回るので困ったものである。

 

日本の代表でもないのに、今でも日本を代表してると思っているのだろうか。個人として、行っているのであれば、目立たないように頭を下げて、写真なんか撮らせないようにすればいいと思うが、やはり目立ちたいのが目的なんだろうなー。

その証拠に、謝礼と言うのか、寸志と言うのか、香典というのか、お布施と言うのか、玉串料というのか知らないが、袋に入れた中身が三万円だったそうである。日本に不愉快な思いをさせたい連中からすれば、いい絵が撮れた作戦成功と言うことだろうが、本当に気の毒に思い、何かの手助けになればと思うなら、三百万円の袋を何か所にも置いてきてあげた方が何倍も有意義であった筈である。

金は腐るほど持っている(今から十年前、母親から貰う一か月の小遣いが一五〇〇だった)わけだから、たった三万円はないだろう。どこまで日本に恥を掻かせれば気が済むのだろうか。脱税した時逮捕すべきだったのである。そうすれば、この男の人生も変わっていたろう。日本人の情けが仇となったのである。


▼共謀罪について、共産党や法律の専門家である弁護士団体が反対するのは、何となく理解できたが、自民党や与党権力者に近そうな人物が反対するのは、何故なのかなー、と思っていたら、自分たちのビジネスに影響するから、反対に回っているということらしい。検察OB弁護士は相変わらず、犯罪者に需要があるようだ。警察官僚OBも現役に顔が利くという神話があるようだ。

高級な肩書の検察OBも警察OBも数は少ないわけだから、この一部の知名度ある高級者だけが、犯罪のもみ消し、隠ぺい、軽減、捜査への圧力・横槍等のビジネスが大流行のようである。

一口に力があると言っても、その能力は千差万別で、肩書だけとも限らない。要は人たらしと言われるぐらいの八方美人さや調子の良さも、武器になったりするのである。また、組織と言うのは人の集まりで形勢されてる以上、必ずしも実力者、優秀者、人望者等がトップになるとは限らないのだ。権謀術数に長けた要領のいい者が、天下を取ることは儘あることである。

共謀罪を法律化したい代表は与党政治家、犯罪者を追いかける捜査当局である。反対派の代表は犯罪者そのもの。拡大解釈されたら影響するような人(組合や裏で活動しているような者)、反権力者というぐらいの認識しか、一般人にはない。事実、普通の人にはあまり関係はない。

反対者は、極端に一般人に「危なさ」を植付けようとする。仮に拡大解釈しても、犯罪に縁のない一般人にはあまり関係はないのだ。故意に悪用しようとすれば、共謀罪に限らず何でも悪用できるのだから。とにかく日本は全てに刑が軽過ぎる。

現在は犯罪が多角化し、尚且つ犯罪構成要件を部品化し、仲間でありながら善意の第三者を装うことをシステム化しているので裁判に問うても旧来の法律では罰せられないのである。共謀罪成立は喫緊の課題であろう。特に詐欺罪には必要である。


▼歳を取ってくると、善悪の基準と言うものが緩くなるようである。ついこないだまで、白黒がはっきりしていて、悪い者は悪い、という考えにブレはなかった。ところが、最近騙した奴の事情を聴けば、なるほどそれも一理あるな、と考えたりするのである。

しかも、彼らにも家族が居たりして、家にせっせと金を運んでたりすると、さもありなん、と思ったりするのである。

松尾和子の再会という歌の詩の中に、「みんなは悪い人だと言うが、私にゃいつもいい人だった」という歌詞をふと思い出すのである。

中には何処から見ても、誰から見ても悪党と言う人もいようが、大抵の人は一人や二人ぐらい、掛け替えのない人がいるものである。働くと言うことは、結局は自分にとって掛け替えのない人たちを食わせるためにであり、満足させるために頑張っているのである。自分の満足のためにだけであるなら、そんなに多くの富は必要なかろう。と、つい仏心も出る夏の終わりである。

今年の夏はベランダに蔓を這わせようと、どんな蔓があるのか、見て回った。そこで生きて行く生命力の強さに感動した次第である。何年か前直射日光を遮るために、窓側に網を張って、そこに朝顔やヘチマやキュウリを這わせれば5度ぐらい温度が下がるということで、ちょっとしたブームになったことがある。

そんなことに、あまり興味がなかったのだが、何かの会合に出る度に、病気の話、老後の話、終の住処の話と、悲しくなるような現実の話ばかり出てくるものだから、若い人からエネルギーでも頂いて生き甲斐を見つけることにした。

人間の若い人とは、話も合わないし、着いてもいけない。とても合わせてまで生きて行こうとも思わない。エネルギーを貰う前に、気遣いに疲れてこちらが倒れてしまう。さりとて動物と戯れてるほど暇もない、ということで、取り合えず蔓の植樹から始めることにしたのである。

先ず蔓の逞しさが気に入った。蔓にも色んな種類があって、地面に這って行くもの、壁に這って行くもの、何かに巻き付いて行くもの等がある。中には空中を遊泳するように、伸びるものもある。好き嫌いもあるのか、隣り合わせに居ながら反対方向へ伸びて行くものもあれば、柵や網に絡まないで、自分たち同士で複雑に絡み合ったりもするのである。自然版三本の矢である。

よく見ると、蔓には産毛のようなものが沢山付いている。巻き付いたとき、滑り落ちたりしないようになっているのだ。まるで船頭でもいるかのように自由自在に伸びていく。何かに巻き付きながら伸びて行く様も見事であるが、一本のツルが空中を遊泳する様も逞しさを感じるのである。

その空中遊泳している蔓の上をアリが自由に歩いているのである。ベランダにプランターを置いて朝顔、夕顔、ゴウヤ、キュウリ、トマト等を植えたら、カマキリも遊びにくるようになった。蟻はどこから登ってきたのだろう。蜘蛛もしっかり糸を張って、食物連鎖の罠を仕掛けている。自然の掟は厳しいのである。

自然の掟では生と死は常に隣合わせで存在するし、今日を生き延びても、明日が生きれる保証はないのだ。それに比べたら人間社会の何と平和で幸せなことよ。日本人に生まれてよかったと、しみじみ感謝するこの頃である。

高校時代同級生だったバスケット部の環ちゃんが亡くなった。可愛い人だった。その弔いの飲み会をみちよちゃんの店で、一期下の松本君が音頭を取ってやった。飯田君と安藤君と毛利君が出席した。池崎秀子さんも亡くなった。石川富士子さんも亡くなったらしい。さみしいねー。


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