敬天新聞12月号 社主の独り言

(敬天新聞12月号)


▼人間がやらかす最大の災いは戦争であろう、と言うことに異論はなかろう。とはいえ、有史以来すべての国、地域で、戦争の無かった時代はないのである。戦争が愚かな争いであることは誰にでもわかること。

しかし、人間の欲と権力を満足させるために、時の為政者たちは戦いを避けて通れなかったのである。仕掛ける方も、仕掛けられる方も、どちらに是があり、どちらに非があるのかさえもわからない。見る角度、切る角度にもよろうし、受けた被害も損害も敵味方で全く判断が違おう。勝った方から見れば、弱いから負けた、という理論になろうし、負けた方から見れば、卑怯な手を使った、という理論を持ち出すだろう。

後付け講釈はいろいろ言えるが、その時点では勝った方が全てである。理由や正義や大義は勝った者が作り、その負の遺産は全て敗者が背負うのである。勝った者達がその国と地域を支配してきたのが歴史である。南京虐殺も全くなかったとは思わない。慰安婦問題もいくらかはあったろう。 戦争が起これば何でもアリなのである。強盗、強姦、人殺し等。だから最大の人災と言われるのである。敵国なのだから、正義も理論も相反するわけだし、意見が真逆であることも当然である。無理に合わせる必要もない。この考えは愛国主義でも右でも左でもない、ごく普通に人間の感情として沸き立つものである。キリストの教えに、「右の頬を打たれたら左も差し出せ」とかいう有名なセリフもあるが、そんな馬鹿な奴は世の中にはいない。

右の頬を打たれたら、怖くてしゃがみ込む者はいるだろう。第一、キリスト教を大切にするアメリカは、相手が右頬を殴ろうとする前に、ストレートパンチをお見舞いするではないか。だから、小国は強くなりたいと望むし、差別された国民は復讐を恐れないのである。ISIS国のテロは法治国家である日本から見れば、戦争と言うより犯罪に見える。日本国内でTSTS国がテロを起こせば、間違いなく犯罪として警察事件として対処することになろう。外国で日本企業や日本人が襲撃されても今の日本では為す術もない。指を咥えて見守るしかできないのである。

また人殺しも個人でやれば犯罪として処分されるが、集団としてやったらその組織の大きさによっては、手を出せなかったりするし、国に至っては正当化されたりもする。世の中は不条理、矛盾だらけなのである。一神教のキリスト教を崇拝するアメリカ・ヨーロッパの国々と、同じく一神教を崇拝する中東のイスラム教と、多神教の考え・文化を持つ日本人とでは、物事の捉え方が大きく違う。日本の場合多神教だから、どちらも受け入れられる寛容さがあるが、一神教は唯一神だから、他の宗教を受け入れることはできない。イエス様もアラーの神様も仲良くしてもいいように思うのだが、「神は我一人」という考えだから、お互いに引くに引けないのだろう。何とも罪作りな神である。

その点日本では一神教は育たない。信教の自由であるから、全ての宗教の自由を認めているが、あの世界宗教のキリスト教やイスラム教も日本では、思うように根付かない。日本では神代の昔から、自然を含めたすべての物に神が宿るという考え方を持つ文化を大切にしてきたから、外国から入ってきた仏教でさえ元々の形と大いに変わっているし、また土地土地によって、風習も合わさり、穏やかな変化形になっている。

宗教は本来、人に優しく心の安らぎに繋がるものでなければならないというのが、日本的宗教観であるが、外国では何千年と続く戦争の火種になるほど激しい怨念が満ち溢れているのである。穏やかな国日本が、こういうタカ派な国々と対等に仲良くやっていくには、時には凛と時には毅然と、という姿勢が必要であろう。


▼お十夜という仏教の行事で、お説教を聞いた。地方によっては報恩講とも呼ぶそうである。縁があって何度か話を聞いたことがあるが、生きて行く上で大切な基本みたいな話をされるので、有難いのである。宗教に出てくる漢字や熟語は難しく、初めて知る言葉や熟語も多いのである。

人は忘れてはいけないものを忘れ、忘れなければいけないものを忘れない生物だそうである。 例えば「受恩刻石(じゅおんこくせき)・与恩流水(よおんりゅうすい)」。受けた恩は石に刻むように忘れてはいけませんよ。与えた恩は流れる水の如く忘れてしまいなさい、ということらしい。

しかし、現実には人は、受けた恩は直ぐ忘れ、わずかばかりのしてあげた事を、恩着せがましく、いつまでも自慢するのである。貧乏な時は、自分の我を殺して生きなくてはいけないので、他人の話しや仏の教えに耳を傾けるところもあるが、ちょっと生活が楽になると、自分一人の力だけで成長したように錯覚するのである。

特に成金などに顕著に見られる例である。歳を取ると、物忘れが出てくる。昨日食べたご飯のおかずも思い出せない。よく忘れ物をする。これらは自然のできごとであって、誰もが通る道であるから、さして大したことではないのである。大事なことは、人としての本質を忘れないことである。ところが人は、人としての本質を忘れてしまうところに悲しさがある。一般人は仕方ないにしても、国の中心にいる人がこの本質を忘れたら、国民は不幸になるのである。記念の念と言う字は、忘れない、思い出す、という意味だそうである。だから記念写真と言うのは、その時の思い出を記す写真とか、その時を忘れないための写真、と言う意味になるのだそうだ。念と言う字をもっと分解すると、今の心となる。この反対語となると、亡くなった心で、忘。忘れるという意味だそうである。なるほど。

そこで、念仏という言葉に繋がるのであるが、南無阿弥陀仏と唱えることを、念仏を唱えるという。この解釈から言うと、仏様を忘れない、仏様を思い出す、という意味になるのだが、阿弥陀仏と言ってるわけだから、阿弥陀様と仏様の二尊を忘れないと言うのが、教えなのだそうだ。 因みに南無と言うのは西方浄土のことである。災いは忘れた頃にやってくる。人はお金があれば、何でも取り戻せると勘違いしているが、この世には取り戻せる失くしたものと、取り戻せない失くしたものがあって、取り戻せる可能性のある失くしたものを「損失」と言い、取り戻せない失くしたものを「喪失」と言うのだそうである。損失は補てんが効くが、喪失は補てんが効かないのである。

葬儀の時、喪主になる人は、亡くなられた人から見て、取り返せないほどの悲しみの中心にいる人、と言うのが喪主であって、金のある人とか、一番各上の人とか言う意味ではないそうである。葬儀を取り仕切ってくれる人とか、世話してくれる人は、施主とか葬儀委員長とか言うそうだ。一般には喪主と施主は同人という場合が多い。人生は有限であって、喪失の連続なのである。


▼公園を歩きながらふと思った。木々を支えている土が透明だったら、土の中に生えてる根っこの広がりなどが見えて、だからこれだけ大きい木でも倒れないんだー、というのがよくわかっていいだろうなー、と思った。こう書くと、必ず「 見えないからいいんだよ。世の中には見えるものと、見えないもの、見せてはいけないものがあってバランスが取れている。木の根っこのグロテスクな部分が見えれば、せっかくの花や葉や幹の美しさが興醒めになる。」と言う意見も出るだろうなー。

その時は、「見える部分の美しさは、それはそれで感傷に浸ればいい。一時の幸せを夢見るのもいい。しかし、それには、それらを支えてるものたちがいて、成り立ってることも知るべきではないか。ハクチョウはアヒルやカモに比べて見える部分は優雅に見えるが、水の中では同じように、必死に足をばたつかせている。それを見せない美しさもあるが、知ってあげた方が本当はハクチョウは楽かもしれない。」と反論になってるか、なってないかわからないようなことを考えながら、公園を歩くのが好きなのである。

秋もすっかり終わりかけた公園散歩である。枯れ葉が落ちてくるばかりで、流石に蝶々が恋い焦がれてふらふらと私にぶつかるようなシーンは見られなくなった。歳に見合った季節とでもいうのだろうか、ただ寂しいばかりである。子供たちが夢中でボールを蹴っている。一人の女性がグランドに降りる階段の隅に腰かけて、子供たちの練習を見守っている。

この中にいる少年の母親なのだろう。後姿しか見えないが、きっと優しいお母さんであろう。我々が小さい頃は両親に優しくされたという思い出を持ってる人は少ないのではないか。戦後まだ間もない頃だから、国が貧しかった。親は子供を構う時間もお金もなかった。だから誕生日祝いなどして貰える子供は一握りの家族ではなかったろうか。兄弟が沢山いたせいか、それでもいじけずに、逞しく育ったのである。とにかく昔の親はよく働いた。そして子供は親の背中を見て育った。だから高度成長期を支えられたのである。

その働き手が、これからは老後生活に入る。健康ならいいが、働きすぎたしわ寄せで、色んな病気も出て来よう。一生懸命積み立てて来たのに、年金が足りないと言う。これは国の政策の誤り。払わなかった人にとやかく言う権利はないが、年金を預かった担当の厚労省が何度も、自分たちの都合のいい箱物や飲み食いに使った事実が発覚したが、責任も取らずに見過ごされてきた。日本人の優しさが仇となっている。また、働き者だったこれから老後も迎える人たちは、無駄をせずコツコツと老後のために金を貯めてきた。自分たち親に優しくしてもらった記憶がないから、せめて自分の子供には優しい親でありたい、自分の子供には負担をかけたくない、との理由である。そんな老人たちから金をだまし取る破廉恥馬鹿者が増えている。オレオレ詐欺である。時代が違えども同じ日本人である。

どこで間違ったのだろうか。五十年前にはこんな犯罪は存在しなかった。歪んだ教育が生んだ犯罪と断罪していいだろう。学校だけの教育を言っているのではない。親の教育も間違っている。甘やかし過ぎ、気遣い過ぎである。同時に社会の在り方も変わり過ぎ。日本の伝統・文化・歴史に自信を持つべきである。近隣諸国と持論が対立するのは当然ではないか。外交は戦いである。自国の交渉を有利に進めるためには、相手を非難するのは常套手段である。そんな一言一句に翻弄されたり、怒ったり、反応したりというのは、愚の骨頂である。言うべきは言う。無視すべきは無視。そんなことで、戦争は起こらない。北朝鮮の文言などは毎日が戦争開始宣言ではないか。図に乗せたら駄目なのである。

昨日は老人会の運動会だった。一生懸命走ってる姿は感動ものだね。ほとんどの葉が落ちた公園に姿がマッチして、涙で選手の姿が見えなくなった。今年もこうして暮れて行くんだねー。あと何回来年を迎えれるんだろう。


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