敬天新聞2月号 社主の独り言

(敬天新聞2月号)


▼桐一葉を感じる今日この頃である。 日大フェニックスのコーチだった滝沢さんが、よく私に「人間は五十歳までは鍛えれば伸びるらしいから」と言っていた。三十年も前の話しである。

その当時は話を聞きながら、五十歳という年齢が遥か未来のように聞こえていたが、もう遥か昔に通り過ぎた年齢である。何故いまこの言葉を思い出したかと言うと、五十歳どころか六十歳でも鍛えれば体は進化すると思ったからである。

若い時代に鍛える体の進化とは意味が違うが、それでも努力すれば間違いなく健康にはなるのである。私は四十歳ぐらいの時、百メートルを全力疾走して、ゴールした後、酸欠状態になって暫く動けなかった。

また四十五歳ぐらいの時、目の前で腹筋する若者を見て、このくらいなら昔取った杵柄でと、寝台に寝そべり、へそより上ぐらいまで宙に浮かした足あげ腹筋を十回やったのである。取り敢えず無事に成功した。

シャワーを浴びて、マッサージを受けて帰ろうとしたら、寝た状態から突然動けなくなった。ぎっくり腰になったのである。それから腰痛に悩まされるようになった。

酷い時は5分ぐらいしか歩けなかった。そこで二年前から一念発起して、公園散歩を始めたのである。最初は一周しか歩けなかったが、今では十周も歩けるようになった。試しに百メートルを全力疾走で走ってみた。何と息切れはしないし、酸欠にもならなかった。

もう一本続けて走れたのである。速さはわからない。今できる全力疾走だから、速さは問題ではないのだ。坂道二百メートルも走れた。八十キロあった体重も七十五キロになった。医者は七十キロまでがんばれと言うが、田舎に帰ったら、これ以上痩せないでと言われた。貧弱になるから、だそうだ。確かに七十三キロまでなったことがあるが、首の辺りの皮がダブついて、妙に老けて見えた。見てくれも仕事のうちと考えれば、確かに説得力はある。

もう一つ昔話を思い出した。小学校の低学年だったと思うが、先生が唐突に「おしっこと、うんこは一緒に出ると思いますか?」と言う質問をされて、真剣に考えたがその時は答えが出なかった。

小をしに行くときは小だけしに男子トイレに行くし、大をするときは女子トイレに行くから、一緒に出ることはありえないなー、と言うのが、その時思いついた答えだった。正解は「一緒に出る、もしくは一緒に出ることもある」、だろうが、経験の少ない子供たちには判断がつかないのである。

またこんなこともあった。六歳年上のユーちゃんとヒロッちゃんが、やはり小学校低学年だった私に、マネキン人形を指さして、「このマネキンは男だと思う?女だと思う?」と訊ねた。女の服のようなものを着ていたが、頭が坊主だったので、どちらかわからなかった。
顔は男のようでもあるし、女のようでもある。答えは女だった。何で女だとわかるの?って聞いた記憶がある。そしたら、「胸が膨らんでるから」という答えだった。私はまだ九歳か十歳だから、母親にオッパイがあることは知っていたが、女性の胸が膨らむことは知らなかった。

マネキンは坊主ではなく、かつらを着けていなかった。大人になれば、色んな角度から観察ができるようになるが、人生経験の少ない子供は、このような判断しかできないのである。

このような子供達こそが、三十年後四十年後には日本を支える中心的な役割の担い手になるのである。だからこそ教育は大事なのだ。家庭で、家族で、学校で、地域で温かく育てて、見守る。そして少しづつ現実と向き合って行けばいいのである。




▼東京オリンピックは大丈夫だろうか?(国も国民も同じ方向を向いていた)五十年前のオリンピックより盛り上がらないのはわかるが、二年前の「開催決定」をピークに、だんだん盛り下がっているようだ。

一番の原因は、関係者と言われる者たちのドサクサに紛れた、やりたい放題が明るみになったことである。業者選定にしても、経費の使い放題も、国民に内緒で誤魔化そうとしたが、自慢したがり屋口滑り老人のサービス精神で、世間にばれてしまったのである。尻拭いに総理大臣まで出てきてやり直し命令を出したが、どうやら越えなきゃならない山がまだ二つも三つもありそうである。

当初ザハ女史デザインで決定しており、その時の建設請負は大成建設だった。新しいデザインが決まったA案は建設が大成である。

そうであれば、外見のデザインは変わっても、中身の骨格肉付けは前のまま、ということは十分にあり得ること。現にザハ側からそのようなクレームが付き、裏で折衝がなされているようである。了解を得るためには、また無駄な金を払うということである。

発表前に「僕はB案がいいよ」という意味が何だったのか、今もってわからないが、国民はこのまま森喜朗氏をオリンピック委員会の会長に据えておくのだろうか。反省していますという意味なのか、癌治療してますよという意味なのか知らないが、突然の丸坊主は、「お涙頂戴」の茶番劇に見えてしようがない。

オリンピックは、国家の威信を賭けたプロジェクトなわけだから、下手を打った者は勿論、その責任者が責任を取らずして、どうやって鉾を収めるというのか。森氏は呆けているのか「何で僕に責任があるのか?何で僕が責任を取らなきゃならんのか?」という認識なのである。

代表や責任者にはなりたいが、代表や責任者の責任の任務は負いたくないようである。その辺のプロジェクトであるなら、放っておいてもいいが、国家の威信がかかった大プロジェクトである。誰かが引導を渡すべきである。

と思っていたら、「政界の牛若丸」とか「珍念」の愛称で親しまれた山口敏夫氏が舌鋒鋭く「オリンピックの原則順守ゼロの日本一アンフェアな人物『ミスターエンブレム・森喜朗』会長を、即刻引責辞任させよ」という大ラッパを吹き鳴らした。

森氏は自らの履歴書の中で、早稲田大学への入学も裏入学で入ったし、産経新聞への就職もコネ入社だったことを認めている。この人の脳では、これらのことも時効という考えなのであろう。法治国家より人治国家と言われた時代だったから、それもお愛嬌だよとの思いなのか、親父の顔自慢なのかはわからないが、元総理という肩書も、森氏にかかれば妙に軽くなってしまうのである。

オリンピックの準備期間としては、もう時間は足りないが、森氏の舌禍時間としては、長過ぎる時間が残っている。必ずまた舌禍の勇み足は起ころう。日本人の中では愛嬌として済ませられるような問題でも、外国人に通用するかどうかわからない。

それよりなにより、新国立競技場白紙問題やエンブレム選定問題に関して誰も責任を取っていない。トヨタの社長が「立場が違うようだ」と警鐘を鳴らす意味で辞任したが、名誉欲だけ(?)深い人達には馬耳東風のようである。

国会で質問されたJOC副会長の暴力団との癒着問題でも、当時の文科省大臣であった下村博文議員は「私が直接調査します」と国会答弁しながら、もう関係ないとばかり知らんぷりである。そのことを追及する議員もいないし、その後を追うマスコミもいない。

外国の雑誌から「ヤクザオリンピック」と揶揄されても、その真偽を解明しようとする議員もいないのだから情けない。快刀乱麻を断てる者はいないのか?




▼行政というのは順法精神があって真面目な人でなくては困るが、政治の場合トップに立つ人はエンターティナー性のある人が、閉塞状況が続くような時代には受けるようである。田中角栄さんが代表的である。

今思えば石原慎太郎さんもそうである。橋下徹前大阪市長もそうだった。父親と似て、若いけど小泉進次郎議員にも似た素養はある。よく成功したら、周りに恵まれたとか、いい秘書がいたからというが、それも勿論だろうが、やはり本人が持った明るい才能が一番である。

日本の場合総理といえども、外国のように権限が集中していないから、誰がやってもそんなに変わらないと言われている。それに政治を実際に運営しているのは「官僚」であるのは間違いない。

確かに官僚は優秀な大学を出て、高度な国家試験に合格してから、入社するので、頭だけは優秀である。それに比べて政治家は、地方から上がって来るのは地方利権で成功した土建屋出身とか、親のコネで票を獲れる者とかで、地方の利権の獲得要請を願いに行く者、地方の苦情を言いに行く者の代表という感覚で、「この国の未来について」考えるようになるのは、各党の執行部に入って、やっと考えるようになるのであ

それが政治家の実態である。国民がそのように作り上げているのだから仕方がない。だったら、官僚制度を壊せと言っても、官僚より優秀な者たちが日本にいないのだから、官僚を追放するのではなく、制度を変えるとか、無駄な金の使用や違法的な行為が見つかった時は、より厳しい罰則規定を設けるだけでいいのである。それだけで十分変わるのである。

政治家に対しても同じである。当選さえすれば歳費という莫大な生活費(ではないのだが、本人たちもそのつもりである)を貰うため、政治家の一番の仕事は「選挙」と考える政治家が多いのである。

代表例が小沢一郎である。確かに当選しなければ政治家になれないのだから、その考えは一里ある。しかし、選挙に通ることばかり夢中になって、自分の後援会への観劇会招待や温泉旅行招待に夢中になってしまって、本来の「政治とは何ぞや」を考える政治家は皆無なのである。

これもやはり政治家に対する罰則規定が軽すぎるから起こる弊害と言っていいだろう。許される範囲の清濁は併せ飲んでもいいが、その度量の器にもよる。

総じて世の中が世知辛くなってきているので、大物が出にくくなってるのも事実である。やはり、オリンピックは開催論功行賞の石原さんに任せた方が良かったかもしれない。そうすればボロが出ずに済んだだろう。 リーダーシップもエンタティナー性もあったし、何よりも情熱があった。自信がなくなったら、スパッと身を引く責任感も持っていたじゃないか。

比べて森さんは、舌禍、ドジ、を繰り返しても恥じることを知らないし、能力も才能もない、名誉と権力と利益は欲しがるが、自分の責任も部下の責任も取らない。おまけにエンターティナー性も全くない。

オリンピックは国の、世界の祭りである。そこの神輿となる人は、やはり誰よりも「華」がなければ、様にならないのである。

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