敬天新聞4月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞4月号)


▼地方新聞協会という社団法人があって、十五年ぐらい前までは毎年パーティーをやったりして、それなりに存在感を示していた。しかし、時世に押されて紙媒体が衰退していく中、新聞屋もいなくなった。

昔は新聞屋もそれなりに矜持を持っていたし、地方に行けば一定の圧力を持っていた。権力者と組む者もいれば、権力と対抗する者もいた。それでもそれなりの存在感がって、「取り屋+α」みたいなものを持っていた。ところが今は、マスコミ全体が、取り屋、貰い屋、提灯持ち屋に成り下がり、権力の監視に為り得ていないのである。

何故もっと疑惑や不条理に対して物申さないのだ。微かに「文春」だけが存在感を示している。週刊誌も毎週全ページを注目される記事に整えるのは無理な話であるから、せめて一話二話ぐらい、「なるほど」という記事を書いていけば、経営は成り立つのではないか。週刊誌は「話の中味は九十%嘘」とか「週刊誌は信用できない」とかのイメージが先行している。直接記者を知ってる者としては、とても其の者達が、九十%の嘘を書いてるとは思えない。

どこで話がすり替わっていくのだろう?記事にされた者が、自身の潔白を強調するために、そういうイメージを国民に擦り込ませたのだろうか?確かにポジショントークの立場から書く記事もあったりするので、一概に真実・事実と思い込むのも危険ではある。その記者・上司・雑誌社の姿勢によって内容が変わることは確かにあるのだ。

それにしても、だらしがない。提灯記事ありき、の記事が余りに多すぎるのである。確かに権力に阿って記事を書いてる方が無難だし、営業的にも成り立つのである。広告も貰いやすい。それも時にはいいが、メディアの本質は権力の監視、不正・疑惑の追及であろう。

ところがマスコミと言えども、大手になれば、地位も名誉も金も手に入る立場になるので、そのまま権力者そのものになってしまうのである。権力者になれば、物事を権力者の目で見てしまうことになる。だから、読売新聞は巨人軍選手の賭博行為の過ちに対しても、違法性の認識はないし、他誌に書かれると、恫喝訴訟を起こすのである。それに日本社会全体が軽くなっているので、記事の中味が軽いのが多い。殆ど芸能ニュースの延長である。

それだけ国が平和ということだろうけど、ただこの平和は、アメリカとの安保条約のおかげで、保たれてるということを忘れてはならない。アメリカとの安保にしても永遠ではないことだけは確かである。その時の覚悟の自覚は常に持たねばならないのだ。そのことを国民は忘れ過ぎている。

平和は只ではない。当たり前のように無事に過ごせてる日常も、必ずしも当たり前ではないことを東北大震災で学んだはずなのに、もう忘れかけている。かけがえのない家族が今一緒にいることでも、決して永遠ではないことを知って、今生きてることにもっと感謝すべきなのである。その源は、自国が平和で安全であることである。

しかし、隙を見せれば、泥棒や詐欺師が溢れだす。それを誰が捕まえ、退治してくれるのか?もう来ないで下さいと頼んでも、弱い婦女子しかいなければ、また襲われ屈辱を受け続けるだろう。それが歴史の教えである。


▼選抜高校野球が始まった。夏の甲子園ほど盛り上がらないが、二十一世紀枠という粋な計らいに夢がある。今年は震災で被害を受けた岩手県の釜石高校と今年で廃校になる瀬戸内海の香川県小豆島高校である。

いきなり甲子園に選ばれても、勝ち抜いてきた高校に比べれば実力的に相当開きはあろうが、それでも選ばれたことは、当人たちには相当嬉しいらしい。当人たちだけではない。その学校、地域の全ての人が喜ぶのだから、高校野球というのは、日本の文化として、しっかりと根付いているということである。選抜は今年で八十八回目だそうである。因みに今年の夏の甲子園は九十八回目に当たるそうである。ここまで信用を得るようになるまでに、関係者の方々の苦労と努力と歴史があるのである。一朝一夕のの努力ではない。

何十種類のスポーツがある中で、野球が一番伸びたのは、学校スポーツの関係者の努力・指導は勿論であるが、いち早くプロ野球リーグを取り入れたからであろう。今でこそ、サッカーとかラグビーも注目されるようになったが、ついこないだまでスポーツの花は野球だったのである。

その盟主は勿論読売巨人である。驕り故の油断からかその巨人軍が、今危機に晒されている。元より驕り高ぶりは一部に批判されていた。しかし、メディアらしからぬ権威主義で、批判を封じ込めてきたのである。他球団にいい選手がいれば、迷わず金で買収する手法は、スポーツマンシップにほど遠い精神だった。それが一人の権力者の衰退と共に、流れが変わったようだ。

やはり切っ掛けは清原だろう。清原も三十年前は、甲子園に憧れた純粋なスポーツ少年であった。その才能は甲子園で開花し、一躍スターとなり、そのまま頂点を歩き続けることになる。昨日まで、小遣い一万円だった純粋な野球少年が、突然一億円の年棒を貰い、周囲が傅(かしず)く。

監督や親までも、チヤホヤするようになれば、誰でも世の中は自分を中心に回っていると勘違いするのは、当たり前である。人気者には、隙あらばビジネスにしようという輩が付きまとうから注意が必要だけど、本人も天狗になるから、こればかりは、後の祭りなのである。高校野球の人気は、若者らしい一生懸命さから生まれる感動にある。勝っても負けても胸を打つ。争いを好まない日本人が唯一、郷土自慢争いを発露するスポーツの代表だった。

高校野球はルールに厳しく、球児の私生活、学校の規律にも言及する。そんなにしてまで守ってきた伝統をプロが壊し始めた。金に溺れたのである。あまり調子に乗ってると、ファンが去って行くだろう。サッカーの努力に比べれば、殿さま商法である。これから、ラグビーを始め、他のプロスポーツが盛んになれば、いつまでも安閑としてはいられまい。

保釈された清原も、五万円の特別室に鎮座して、追っかけ取材記者らに高級弁当を配るなど、ちょっと世間とずれてるような気がする。もう商材に対する、大人の事情が優先しているのであろう。国民に誤解を受けなければいいが。先が思いやられる。


▼「子供を二人生んで下さい」と言った校長先生のことが話題になっている。そこだけ切り取っても、前後を聞いても全然おかしくない。少子高齢化が問題と言われて久しいが、日本の未来を考えれば当然の意見である。

 校長先生が言ったから問題になったわけ?理解できない子供に言ったから問題になったわけ?産みたくても産めない人もいるのだから、配慮すべきだ、という意見もあるようだ。産む産まないは個人の自由だから強制すべきでない、と言う意見もあるようだ。

それはいいじゃない?校長先生はお願いも込めて、未来の日本を案じ、自分の意見を言ったに過ぎない。 子供を産むというのは、女性にしかできないこと。その特徴を強調することは、男女同権を否定するものでも、差別するものでもない。

今は思ってることを言わないこと、指導しないこと、口を挟まないことが、子供に対する教育と思われてるようだ。学校でも言わない、家庭でも言わない、地域でも言わない、これが子供に対する思いやりであり、愛情だと思われているようだ。何か言えば人権差別になるようだ。

産む産まないは個々の問題であったとしても、「子供を産むことは女性にしかできないこと。大人になったら、沢山子供を産んで楽しい家庭を作って下さい」と話をするぐらいの、何処がいけないのか?そんな話を聞いて、理解できる子もいれば、できない子もいるだろう。

校長先生の話なんて、大人になるまで覚えてる子供が何人いるというのか。それでも教育者として、一生懸命講話をする姿勢が素晴らしいではないか。おそらく、長い話を理解できなかった子供が家に帰って、「今日校長先生が、大人になったら子供を二人産め、と言ったよ」と聞いたバカ親が、適当なコメント付けて投稿したら、暇なメディアが面白おかしく取り上げたのだろう。

今はネット時代だから、ちょっと取り上げたら、当人の言った真意とかけ離れて、勝手に解釈されて行く時代なのである。今はテレビのバラエティーで語られた言葉が、世の中の本流と受け取られる時代だから、猫も杓子もバラエティーに出たがり、政治家も弁護士も医者もスポーツマンも、芸人に媚びを売るのである。

親であろうが、教育者であろうが、子供には色んな話を沢山してあげるべきである。そして、取捨選択は子供にさせればいいのである。子供にも人権があるから、あれもダメこれもダメと言って、いろんな話をしてあげなかったら、それこそネットだけが情報源になって、偏った大人になってしまうだろう。

我々も、小学校、中学校で聞いた講話なんて何一つ覚えていない。その時は、帰ってから親に「今日はこんな話を聞いた」と話したかもしれない。しかし昔の親は先生を尊敬してたから、「へー、よかったね」で終わりだった。校長先生の講話は覚えてないが、漢字が読めるようになったり、九九が言えるようになったりしたのは、義務教育のおかげである。

子供には、いろんな話をしてあげた方がいい。自分で沢山本を読んで知識を身に付ける子もいるが、多くは周囲(特に大人)からの情報で、育って行くのである。メディアもつまらんことを取り上げ過ぎなのである。

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