敬天新聞6月号 社主の独り言(甘辛)

(敬天新聞6月号)



▼人は生まれながらにして平等であるとか、生きる権利は平等である、とか言う言葉を耳にする。ずーっと、そうだよなーと、信じてきた。

しかし最近、本当に生まれてきた時は平等で、生きる権利は平等だろうかと疑うようになってきた。先ず生まれて来る時に子供は親を選べない。優しい親の下に生まれてくればいいが、親としての愛情を持たない親の下に生まれることもあろう。父親に愛のない子もいるかもしれない。その両方もあろう。

国によっても違おうし、時代によっても違うはずである。生きる権利にしたって、自分で生きていけない赤ちゃん時代は、誰かに育てて貰わなければ生きていけない。その責任の大半は親に帰属するであろうが、親が貧しければ満足に施すこともできないであろう。

権利という意味は、ある利益を自分のために主張し、それを享受することが出来る法律上の資格、ということらしいが、あくまでも、国や社会があって、法律が守られた上で多くの理解・協力があって実行可能なもので、それらを主張できない者たちも世の中にはいる。

例えば無法地帯では、力(暴力)以外は正義ではないし、法も権利も愛も存在しない。極論のように聞こえるかも知れないが現実に今の地球上に、幾らでもこのような場所はある。侵略されるということも、こういう結果を招くことでもある。

いま熊本大地震が起こって被災者の方が大変困っている。そういう中で多くの日本人が、悲しみ心配して、何か役に立ちたいと、努力している。その一方で、そんな被災地に出向いて泥棒する者もいる。どういう神経を持てば、そんな気持ちが起こるのかわからない。

しかし、現実にこういう生き方をする者もいるのだ。こういう犯罪者も含めて人間社会は存在するのである。どういう環境で育って来た人種かわからないが、彼らにも両親が居たから存在しているのである。こんな泥棒たちでも、いずれ子供を産むかも知れない。もういるかもしれない。

そう考えると、人は生まれた時から平等ではないし、生きる権利も平等ではないのである。しかし、その後の努力で、どうにでも切り開くことが出来るのである。百姓から天下を取った豊臣秀吉であったり、中学しか卒業しなかった田中角栄が総理大臣になったりと、こういう人たちは自分が生まれながらに持った立場を、自分の努力で運命さえも変えてしまった実例であろう。

努力すれば自分で気付かなかった才能さえも開花し、運も縁もついてくる。あるいは運や縁が先にくるかもしれない。運や縁や才能に恵まれない人もいよう。寧ろそういう人達が大多数である。 しかし、そんなところにこそ幸せがあったりするので、その普通の生活も捨てたものではないのだ。結論は、無い物ねだりである。皆それぞれに、分相応に生きればいいのだ。身の丈に合った生き方をして身の丈に合った人と一緒になって、身の丈に合った人生を送る。この世は短い。

大自然の年齢から見ると、人の人生なんて刹那である。もしこの世で、悔いが残ったことがあれば、あの世で頑張ればいいだけではないか。金満物欲の満足が幸せのバロメーターと勘違いするようになって久しい日本国民は、ブータンに学ぶ幸せもあるし、世界一貧しい大統領に学ぶ幸せがあることも学ぶべきである。




▼今年に入って色んなニュースが話題になったが、順番さえもう忘れかけている。ベッキーのゲス不倫、宮崎議員のゲス不倫、甘利大臣の恐喝ほう助、スマップ独立劇、清原覚せい剤逮捕、幼稚園落ちた日本死ねメール、校長先生の二人産んで下さい発言、そして乙武5人不満足不倫と続いている。

そして今は、舛添都知事のちんけな政治資金問題、オリンピックの不正問題が話題である。それにしても東京オリンピックはケチが付く事業だなー。本来なら今頃は、アベノミクスの三本の矢が威力を発揮して、景気が上向き、消費税増税で世の中の意見が一致している筈ではなかったか。

熊本大震災が起こったから増税は見送りと言うのは、あくまでも奇禍としているだけで、正論とは言えまい。政策が失敗したのなら、嘘を隠し通すより、早めに発表し転換した方がいい。逆転の可能性があるなら、それを国民に説明すればいい。国民も我慢するときには我慢も必要である。

ただ、最近の自民党は政権に返り咲いてからたった四年しか経ってないのに、驕り高ぶりが酷すぎる。下っ端議員までのぼせ上がっているのがわかる。政治家全体の質が落ちてるから「敵失」で持ってるようなものである。

今景気がいいのは、政治家とテレビに出ている芸人と特殊詐欺犯罪者と日本大学ぐらいじゃないの?。地震の復興でゼネコンもいいのかな?しかし、ヨーロッパや中央アジアあたりの、長引く内戦や近隣諸国との軋轢などを考えると、やはり日本は平和な国である。

だからこそ、このような話題で、国民が大騒ぎするのであろう。他の国々の話題の中心は、政治的なものが多いようだが、日本では政治的なものはあまり話題にならない。せいぜいが個人的スキャンダルなのである。

日本では安保法案で久しぶりに大騒ぎをしたが、日本文化独特の七十五日ルールで、もう落ち着いた。尤も、外国では国を維持するための当たり前の法案であって、質疑の対象にもならない事案であろう。

日本では、国民が政治に関心がないのは、政治家の質が低すぎるというのもある。政治家は日頃が暇なのか、常識のない勘違い男が多くて、汚れた金を手にする手合いが多すぎる。だから、「お前が言うなよ」と批判されるのである。国会議員となったら、国の代表として、「身も心も国の代表」になれんもんかね。国民に選ばれるという最高の名誉を手に入れたんだから、それ以上の物はいらないだろう。

認可の口利き、就職の世話、裏入学の紹介、事件・事故のもみ消し、こんなことが政治家の仕事と思ってる議員もまだまだいるのである。頼む方も頼む方であるが、聞いてしまえば何とかしてあげたいというのは人情である。

またこういうことを頼む人というのは、それなりに票を持っているから、尚更何とかしたいのである。これらを無くし、政治家を政治に真剣に立ち向かわせるには、やはり厳しい罰則規定を設けることである。そうすれば政治家も楽になろう。後援者からつまらない相談の依頼がなくなって、本来の仕事に専念できるのである。罰則を厳しくすると言っても、違反した人だけに厳しくなるだけで、違反しない人には関係ないんだから、問題はないはずだ。

それにしても「スマップ独立」の終息の収拾は見事だったなー。他の話題がいつまでもグズグズになって尾を引いているのに、あれだけ世間の注目度の高い問題を、アッと言う間に終わらせたのは、見事の一言である。

その後何事もなかったように、タレントの商売繁盛が続いている。しかも表面上、敗者がいないようにさえ見える。海千山千のマスコミが、全くその後を追えない。これは問題が起こってしまってからの対処の仕方で参考にすべき教科書であった。




▼日本人の上流意識は精精がグリーンクラスまでである。日本は経済的には豊かになって、世界的には先進国と言われている。世界の貧困国から見れば、確かに物質的には豊かになった感はある。果たしてそうかな?という場面に遭遇した。東北新幹線にはグリーン車のもう一つ格上ランクにグランクラスと言うのがある。グリーン車が横四列に対して、グランクラスは横三列である。縦も六列しかない。特別の空間というわけである。

距離にもよって違うのだろうが、例えば、大宮から青森まで普通車に乗れば一万五千円、グリーン車に乗れば二万円、グランクラスだと二万五千円である。普通車と一万円の差、グリーンクラスと五千円の差ということになる。一般の人は迷わず普通車であろう。

私も普段は普通車なのだが、たまたま混んでてグリーン車に乗った。そしたら、女性乗務員が紙おしぼりを持って来て、ドリンクサービスまで付いて、紙スリッパまで用意してくれるのである。座席もゆったりしている。乗ったものしかわからない優越感がある。

最初はこの五千円の差を考え、「五千円あったら、たった三時間の間だし、その間、酒飲んでツマミも買って、弁当も買える。それでも釣りがくるなー。それなら迷わず普通車だよ」という感じだった。

ところが不思議なもので、グリーン車の優越感を覚えると、無理してでもグリーン車に乗ろうとするのである。そして普通車に乗ってるところを誰かに見られたらどうしようとか、妄想まで起こってくるのである。グリーン車に乗って優越感に浸る一方、みんな無理して乗ってるんだろうなーと、自分のレベルで思いを持って見ていたのである。

ところが何年か前、突然グランクラスと言うのができたのである。テレビ等で宣伝してたので知ってはいたが、特別な人が乗るもので、縁はないと思っていた。ところがたまたま出かける日に、グリーン車がいっぱいで切符がとれなかった。普通車の自由席なら多分並べば座れたろう。

だが、上流意識に目覚めると、世間の目があると勝手に思い込み、ここは意を決してグランクラスの切符を買ったのである。その前に断っておかねばならないが、グランクラスができてから、掌を返したように、グリーン車のおしぼり、ドリンク、スリッパのサービスがなくなって、女性乗務員までいなくなったのである。これでは詐欺ではないか。グランクラスの悠然たるや格別である。一列車に十八人しか乗れないのである。先ず高級なおしぼりが出てきて、洋食か和食を選んで、ドリンクもソフトドリンク、アルコール両方ある。ツマミも茶菓子も出る。女性乗務員も飛行機の乗務員並みに動き回る。私は一通りのサービスを受けて、静かに本を読んでたら、老婆の姉妹が品の無いでかい声で、「ねーねーすごいよね。弁当も出るんだって。これ記念にもって帰ろう。」とか、騒いでいるのである。

また通路を挟んだ隣の男は赤ワインの小瓶を何本もお代わりしているし、別のところでも、頻繁にビールのお代わりをしている者がいる。五千円の元を取ろうとしているのであろう。旅の恥はかき捨て、という心理も働くのであろうが、これがおそらく、日本人の上流意識ではないだろうか。

成り金経済の上流意識に、心が追い付いていないのであろう。また老婆姉妹が大きな声で喋りだした。「ねー、弁当もう一つ貰えない?」。最高クラスに乗っている乗客の姿である。あな恥ずかしや。


敬天ブログ敬天新聞トップページ敬天千里眼社主の独り言