敬天新聞9月号 社主の独り言

(敬天新聞9月号)


▼国民の人権意識が高くなると、犯罪の検挙率が極端に落ちて来た。また大掛かりな捜査した挙句の逮捕であっても、起訴できないまま釈放と言うケースが多くなってきた。逆を返せば、今までの捜査に冤罪が多く含まれていたということだろうか。

昔から四課には出来レース捜査がよくあった。情報を入れるために情報を流すとか、飲食を共にしている間に、のっぴきならない関係に陥ってしまうとか。詐欺は二課だが、暴力団が絡めば四課に変わったりする。

暴力団はやはり四課でないと、捌けないところがあるが、詐欺を四課が扱ったら、理解不能になってしまい、全て無罪になってしまう。持ち分野が違えば、当たり前の話である。最近は反社と言われる連中に、毒饅頭を食わされる行政マンの話をよく聞く。

警察でも同じである。警察で捜査対象者から、毒饅頭を食わされない課と言えば、間違いなく一課だろう。通常は、事前に犯人と接触する可能性0だからである。いくら何でも、これから殺人を犯すような奴と交遊関係の警察官はいまい。

その点四課は日頃から情報収集と言って、切れない関係に陥りやすいのである。拳銃捜査や覚せい剤という一般人には縁遠い特殊な社会だから、通常の捜査では情報が入りにくいのであろう。蛇の道は蛇ということである。

それはいいのだが、犯罪者に利用される警察官、犯罪者に利用される弁護士、司法書士、犯罪者に利用される政治家、そいう事実を知っても書かないマスコミ。そういう事実が多くなって来てはいないか。昔から存在したのかもしれないが、 表に出て来なかっただけかもしれない。

昔の美徳であった「墓場まで持って行く」という習慣がなくなって来たということだろうか。それだけ尽くしても価値のある人が居なくなったということだろうか。日本全体がこじんまりとしてきた。日本全体が軽薄になってきた。日本全体が平均的になってきた。そういう現れなのだろうか。

資本主義が行き詰まっているようにも見える。資本主義の限界なのだろうか。政治にでも政策にでも、理想はある。だが、個人にとっての理想も、集団になれば、それが理想かどうかは変わった見解になるだろう。なぜなら一人一人の理想の解釈が違うからである。いずれ資本主義にも終焉の時期は来るだろう。そして、やがてまた社会主義や共産主義称賛の声が出てくるのである。だから歴史は同じことを何度も何度も繰り返すのである。自分たちの国の憲法は自分たちの手で、というのは、どの国もが夢見る現実である。日本だけの特異な現象ではない。その結果がどうであれ、いずれは一度は必要なことである。それが、即戦争に結び付くというのは、稚拙な判断である。

その国が戦争を判断するのは、軍事力、経済力があるか、国内が安定しているかどうか、独裁者が出現したとき、外に敵を作らなければ内政が持たない、侵略者を追い払わなければならない、とか等であって、憲法だけで抑制できるものではない。アメリカの副大統領(ジョー・バイデン)が、日本の憲法は核武装させないために我々が作ったと、はっきりと言った。アメリカが作ったということは、アメリカの利益を念頭に置いて作ったということである。況してや日本は敗戦国である。憎っくき敵でもある。配慮は少なかったろう。それを後生大事に金科玉条のごとく、大切にするのは如何なものか。

日本国と日本国民のための憲法を日本人の手で作ろうという考えを主張するのに、なぜ反対するのだろうか。反対ではなく、対案や補足案を出してみればいい。日本人の手で作るというところに意義があるのである。




▼政治は振り子運動である。右に振れすぎたと思えば、その時点での頂点と思われる時を境に静かに降りて行き、左側へ向かうのである。その頂点と時期というものは、一般にはわからない。政治家自身にもわからない。

ある程度過ぎてから、「あの時がそうだったんだなー」と人々はわかるのである。この事象はすべてに言えることかも知れない。人生の中で自身の頂点がわからない。いつ自分に頂点があって、いつから自分は下り坂に向かっているのか、過ぎて暫くしないとわからない。

だから人は時に、晩節を汚したりするのである。ただこの頂点というのは、人によって全く違う。三十代でピークを終える人がいる一方で、六十代で花が咲く人がいるかもしれない。いや八十代で発展途上という人だっているだろう。

どんな事象も永遠ではないと言うことである。諸行無常である。残念ながら、そういうことを理解できるようになるのは、人生が有期であるとわかるようになってからだから、始末が悪い。若いときは、荒ぶる魂を抑えきれないし、煩悩と二人連れの旅だから、理解できる暇もないのである。

いや、荒ぶる魂こそ減退するものの、煩悩なんていう欲の塊は、死ぬまでついて回るから厄介である。宗教では、自己解釈ではあろうが、諸々の欲を抑え戒める道を説いている。そして尊さも愛も思いやりも優しさも、十分にあふれている。しかし、各自の自己主張の強さで、争いは絶えない。なんの為の教え、導きなのだろうか?それでも、安らぎを始めとした人生の糧にはなっている。

右に振れ上がった振り子は、いずれ下がり始め、左に振れ上がって行く。そしてまた、頂点と思われるところまで到達したら、ゆっくりと降り始める。この頂点とかかる時間も、誰にもわからない。ただ規則正しくではないが、潮目のようなものがあるのか、流行と言うのが伝染することはよくあることである。

東西ドイツの壁崩壊に象徴されるような現象や、成功したかどうか知らないがアラブの春もそうである。世界の潮流に、日本も飲み込まれていく時がある。それでも日本は島国故の独立性があった。しかし、隙あらば侵略しようというのが、外交である。高齢少子化や地方の過疎化に乗じて、発展途上国や近隣諸国からの移住者も増えよう。

一時は中国の富裕層が、山を買い占めたりして、水を支配されるのではないか、とか心配されたこともあったが、売っていいもの、売っていけないものを、法整備すべきである。世界に変化が見えだした。中国の経済力が落ちだした一方で、近海への支配に力を入れ出した。

トルコはクーデター失敗を口実に政敵を一掃する恐怖政治を敷き、ロシアと急接近し、フィリピンも犯罪者を裁判なしに殺してしまうような国になったようだ。アメリカも昔ほど、世界に影響を与える一強国でもなくなってきたし、イギリスもEUから独立を決めた。ISテロは断末魔の叫びの如く、無差別テロを始め出した。

日本でのテロも、対岸の火事ではなくなってきてるようだ。世界が目に見える形で、急速に変化し始めたのである。敵は無差別に攻撃を仕掛けてくる。昔のように単純に相手を絞れないところもある。守りに徹しても、人権だ、やり過ぎだ、差別だ、と騒ぐ。

憲法改正反対者も、ただ反対反対だけでなく、何が反対なのか、それではどうすればいいのか、とか意見を言わなければ前には進まないだろう。世の中は常に変わっているし、世界も常に変わっている。

永世中立国スイスも家庭に銃を持ち、いざとなれば、国民皆兵の覚悟を持った上で、平和宣言しているのである。男には国を守る、家族を守るという、戦う覚悟と責任がある。




▼何の世界にも勝ち組、負け組というのがある。大きく言えば、国と国との関係でもあろうし、小さな町の中にもあるだろう。業界の中にもある。また淘汰される人々、職業と言うのもある。時流に乗る職業もあれば、飲み込まれる職業もある。 業界として千年続く歴史もあれば、歴史の藻屑と消えゆくものもある。

今、日本の伝統とされてきたヤクザの運命が怪しくなって来た。ヤクザという言葉には、どこか男のノスタルジアがあって、男の本能を擽り続けるものがあった。

歴史を遡れば、時の行政の一部を担っていた部分もあったようだから、町の安定に一役買っていたのである。その名残は確かに何十年か前まではあった。それが、暴力団と呼ばれるようになってから、市民と一線を隔するようになったようだ。 政府の方針であろうが、ヤクザ側の変遷や時代の流れもあるのだろう。行政が抑えきれないほどの、資金力、経済力、組織力をはじめとして、あらゆる業界への影響力を恐れたのであろう。わかりやすく言えば、「御上の配下としての存在を越えた存在になった」ということである。

アメリカからの圧力・方針という人もいる。時代と共に、変わりゆく業種・業界と言うのはある。色んな考えを持つ者がいるから、犯罪そのものがこの世からなくなることはなかろうし、例えば自らの判断で行う売春が、果たして犯罪といえるかどうか、答えを出すのは難しかろう。犯罪なら、ソープ店は全て違法であるはずである。第三者の強制的なものがあったり、法外なものがあったりするから、一応法律を作っているのであろう。

利権と言う言葉がある。これは勝ち組と言われる者が、伝統的手法によって受け継ぐ利益である。この利権を手に入れる者は勝者である。

そして、それはその地位を引き継いだ者が受け継ぐ。しかし、その業界そのものを壊してしまうとか、その業界から関係者を追い出してしまえば、利権構造は壊れてしまうのである。ところが、人と言うのは欲の塊だから、一度作り上げた利権構造と言うのは、勿体なくて手放せない。

それは公務員とて同じである。業界そのものをなくしてしまった業種に「総会屋」という仕事があった。企業の用心棒から始まった仕事であったが、いつの間にか企業が手に負えない立場になって、警察行政に壊滅させられた業種である。

ところが、その利権はどこに行ったかと言うと、警察と一部の弁護士に行ったのである。警察は個人ではなく、警察全体の就職先、もしくは収入になっているからまだいいが、弁護士は完全に個人である。勝ち組と負け組の差が大きく開いている。

また業界から関係者を追放してしまった例は、パチンコ業界である。これは長くヤクザのしのぎだった。これを違法として追い出しながら、同じ手法で警察団体が利権を引き継いだ。ヤクザの時代よりもっと大きな利権になっている。球を金に換えるだけの利権ではなく、パチンコ機の認可、選定、までも握ってしまったからである。それでも批判がでないのは、パチンコ業界そのものに違法や不正が横行しているからである。

開催が危ぶまれたリオ・オリンピックも、いつの間にやら終わってしまった。思った以上の日本人選手の活躍で大いに盛り上がり国民は喜んだ。

東京オリンピックでは、選手育成強化に金を使うのはいいが、利権構造にはメスを入れ、不正は徹底して排除してもらいたい。その理由として、東京都民は勿論のこと、日本国民全ての人が勝ち組にならねばならないからである。


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