敬天新聞10月号 社主の独り言

(敬天新聞10月号)


▼寄らば大樹の陰、と言う言葉がある。大きな木の下は安全、大きな組織の中に居ると安全という意味である。しかし、その組織の中も一人一人の集りだから、意見や考え思想はバラバラである。それを世間に見せない為に、組織のブランド力で包み込んでしまうのである。

一方独立独歩を好む人もいる。自分のスタイルで自分の道を行く、という人である。大きな組織からの圧力や勧誘が入ったりして、茨の道が続く。それを跳ね除けながら生きていくには、並大抵の努力だけでは無理である。

仕事を取られたり、販路を壊されたりと、苦難の道は続く。それでも、ひたすら我が道を行く人もいる。一人だけならともかく、家族は常に居るわけだから、それに打ち勝つには根性や気力だけでは成り立たない。きらりと光る技術がなければ、取り引きも続かないだろう。

大手は、そんな技術さえ盗もうとする。そして傘下へと吸収してしまおうとする。吸収されるメリットもある。それこそ、寄らば大樹の陰の報恩である。自由さは幾分か減っても、確実に仕事があり、確実に捌けるというブランド力があり、今までと世間の見る目が違う。周りも羨望の目で見るようになるのだ。正直、プラス面が多かろう。

一方で、頑なに独立独歩を守ろうとする人もいる。下請けの仕事は貰っても、傘下にはならない。小さくても自身のブランドに誇りを持つ人達である。生活面から考えると容易ではない。途中で潰れる危険性も大いにある。世間の注目は圧倒的に大組織に向けられ、公平さもバランスは圧倒的に大組織に有利に作られている。

家内手工業的に小さくやってる企業に陽が当たることは、生涯に一度か二度しかない。それでもひたすら家族を支えに、頑張っている人達がいるのである。二代目、三代目と続けて行く人もいる。

一方大組織の中でも、中は派閥だらけで、決して一枚岩ではない。大手組織になればなるほど、人材が豊富になるのは常識である。

頭の良い人、金儲けの上手い人、計画を立てるのが上手い人、相手を陥れるのが得意な人、人たらしなひと、情報収集に長けた人、喧嘩が得意な人、なだめるのが得意な人、使いパシリしかできない人、謝るのが得意な人、ごますりが得意な人、先を読める人、外交的な人、外国語が話せる人、組織にはこれらの全てが必要なのである。

例えばヤクザ組織には、全てが喧嘩の強い人ばかりで、先に述べたような人は一人もいないのではないか、と思うかも知れないが、そうではない。喧嘩の強い人ばかりの組織は直ぐに崩壊する。組織には色んな人材が必要なのである。そして、トップに立つ人が必ずしも実力者とは限らない。

トップが只の神輿である時もある。

会長よりも幹事長が実力が上という場合も多々ある。名より実を取っているのである。本当の実力者が、4、5番手にいることさえある。詐欺会社などに見られる傾向である。

創立者とか初代とかいう人達には眼力とか胆力とか備わってる人が多い。それらが所謂カリスマ性へと変貌していくのである。その能力が高ければ高いほど、組織は大きくなっていく。カリスマ性のある人は、人を惹きつける魅力を持っている。

しかし、実物は永久的ではない。時代に翻弄されることもあるし、自身が躓くこともある。風に乗ることもあるが、風に煽られることもある。要は人にも、賞味期限や消費期限と言うのがあるのもまた事実である。多くの英雄伝や伝記ものもあるが、書き手によって大いに異なるのがその証左である。ただ、人は強い者に魅かれ集まる習性を持っているのも事実で、これからも色んな形の離合集散が繰り返されることであろう。




▼伏魔殿とか闇勢力と言う言葉が、今年の流行語大賞にノミネートされるだろう。大抵の場合、その時の力のある者たちが作る空気をいうのであって、実際に光を当てて見ると、そこに集まっていた者たちは、蜘蛛の子を散らすように姿を隠すので、姿を見せた素性と言うのは、意外と気の抜けた炭酸状態だったりするのである。

伏魔殿にしても闇勢力にしても、放っておけば増大する。元を質せば一人のカリスマ的な者が居て、その者の才能なり力なり技なりの何か才長けたものに、人が群がり集団が形成されていく。集団が出来上がると、その中にまた先を見るのに優れて要る者、目鼻の効く者、談合の上手な者等が現れる。そうして、利権が作られていく。

規模はともかく、伏魔殿や闇勢力と言われる個人や集団は、日本中の隅々まで、存在する。東京は日本の首都であるから、人が集まる。人が集まれば色んなビジネスが存在する。

国も都も県も市も税金で運営されている。国民は働いて税金を納める義務を負っている。公務員の給与は税金から出ているが、同じように税金を納めているから、貰う給与に関しては問題はない。問題は使うお金が全て国民や企業から集めた税金であるということだ。その自覚が無さすぎるから、色んな諸問題が起きるのである。

しかも一般会社と違うのは、多くの許認可を決める権利を有していたり、選択権を有したりする。公務員が「自分たちに任せられて使っているお金は、日本国民のお金である」という自覚をしっかり持っていれば、無駄なお金や贅沢にお金は使えないはずである。

今回はたまたま東京都がやり玉に挙がったが、政治家のレベルが低いから、起こる問題である。伏魔殿とか闇勢力には必ず政治家が絡んでいる。伏魔殿の核が政治家そのものであったり、そうでなかったとしても、政治家が橋渡しをしたりしていて守っているような状況を作っているから、地元警察とかが手を出せず、勢力が増大するのである。

中には、出世に目が眩み、或いは毒饅頭を食って、伏魔殿の使いパシリや情報提供までするような警察官まで現れるのである。国会議員から村議までレベルは違おうが、政治資金の使い道やら政務活動費の改ざんとかに神経を注いでいたら、真面な質問など出来るわけがない。

政治家は当選したら、就職が決まったのと同じ感覚で、歳費(給与)の他に出る、政務活動等に使われた分に対して支給される金額を、「貰わなきゃ損」と、実際仕事してなくとも、嘘の請求書を出す習慣が出来上がっているのである。先ずは「政務活動費を支給する前提」を廃止し、本当に活動した人にだけ支給する(領収書が存在する)制度に変えればいいのである。税金も浮くだろうし、政治家の質も少しは良くなろう。

昔はこういう不正には共産党が先陣切って国民の溜飲を下げていたものだが、今は共産党も昔ほどの先鋭さが無くなってきた。ネットの方が早いから陰に薄れてきたのだろうか?同じ議員の話だから天に唾する行為として遠慮しているのだろうか。やはり生の迫力というのもあるから、共産党には頑張ってもらいたい。

結局、現在の伏魔殿や闇勢力はマスコミが作り上げる虚像であって、光を当てれば脆く崩れる存在でしかないのである。 しかし、それがわかっていながら、光を当てたり当てなかったり、我が国のマスコミもいい加減なものである。

森喜郎元総理の「たった二五〇〇億も出せなかったのかね」。これが庶民の心を忘れた驕り高ぶった勘違い政治家の成れの果ての言葉である。




▼私のメール相手は六十歳代である。時々は七十歳代もいる。ついこないだまで四十歳代が中心だったが、最近メールが来なくなった。会って話せば初老から熟老になるので話題に花が咲かない。ところがメールだと、自身のワールドに入って、メルヘンの世界に入っていけるのだ。

私は絵文字が好きで多様するが、仕事のメールでは使えないので、息抜きメールで多様する。ところが、若い人に絵文字を多用すると、返信では社交辞令で「可愛い」と送ってくるが、メールの向こう側では、「キモイ」と言われるているのだそうだ。気持ちいいの略ではない、気持ち悪いの略だそうである。ご同輩は注意されたし。

ところが同年代の「老婆の休日」だと、同じような心理だから、絵文字を多用しても、そんなに嫌がられない。色がカラフルで楽しい。私は文章の一節の句点として、その内容にあった絵文字を使用する。ところが、テレビでバラエティー番組を見ていると、付き合ってる男の携帯を盗み見ているバカ女がいて、そして怒るのだそうである。

しかもそれを当たり前のように話するのである。私の妻は一切そういうことをしない女性だった。私も一切そういうことはしない。他人の携帯は操作方法も知らないが、見ようとも思わない。亡くなってから電話帳を見たことがあったが、家族と数人の友人の番号しか載っていなかった。やはり信頼できる女性だった。

携帯を覗き見する者は基本的に相手を信頼してないということである。まー確かに男という動物の下半身が信用できないのは事実である。よく歳を取ると服装が派手になるとかいうが、肉体が衰えて行くのがわかるから、せめて気持ちだけでも青春を取り戻そうと、派手になるのだろう。老人の青春があってもいいではないか。

歳を取って初めて感じることだが、男女間の気持ちは、若い時と全く同じである。体が衰える、或いは病気になるから、デートする機会は減るし、チャンスも無くなるが、思いは全く同じである。ただ若者と違って年寄りの恋は金がないと成立しないところがあるから、一部の金持ちの専売特許になってしまって、凡人には難しいのである。

それに子や孫がいる年齢になれば、世間体もある。子供に笑われてはいけないという遠慮もでてくる。それで素直な気持ちを出せないのである。これも日本の文化であろう。外国では死ぬまで堂々と恋愛をする国もあるのだそうだ。

日本ではメールで遊んでるのを盗み見て、夫婦げんかになるぐらいだそうだから、とても死ぬまで恋をするという習慣が受け入れられる国にはほど遠いであろう。と考えながら、タコ釣り魚を経験した。

よくテレビでタコを引っ掛けるというが、どうやって引っ掛けるのかいまいちわからなかった。釣り針の大きなものを錨のような形状にして縛り、その真ん中にタコの好物の魚の肉を括り付け、鉛の重りを付けて、海底に着くまで垂らし、糸を長く伸ばして船で流していくのである。海底を流れていく罠の餌にタコが飛びつき、それを引き上げるのである。

海岸からそう遠くないところで、釣るのだが、慣れてくると海の深さがわかったり、潮目が見えてくるようになる。引き潮と満ち潮の境目では波がぶつかりあっている。そしてあっいう間に、流れが変わるのである。漁師さんは、潮目を間違わない。間違いは命取りになるからである。

人間がどんなに偉大でも、自然の摂理には敵わない。晩年を間違って生きてるような人には、自然を相手に仕事している漁師さんの生き方を学んで欲しいものである。

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