敬天新聞12月号 社主の独り言

(敬天新聞12月号)


▼宗教というものには特別な力があるようである。人の心を捉えたり、改心させたりする力を持っている。究極には人を陶酔させ、殺させる力さえ持っているのである。日本では無宗教を自慢する者もいたりして、宗教に対しての感性が世界の感覚とは違うようである。

それでも新興宗教は雨後の竹の子のように乱立している。外国の宗教の成り立ちは知らないが、日本の場合、必ず教祖と言う者が言うセリフとして、「こういう夢を見た」とか「枕元に誰々が立って、こう言われた」とか、自身を誰かの生まれ変わりと称して、物事の始まりを創るのである。

中には本当の預言者らしき者もいるのであろうが、その殆どが胡散臭い作り話が多く、嘘っぽいのである。時々、集団生活をしながら犯罪を起こして逮捕される者たちがいるが、あれが途中で失敗した事例であろう。不思議なのは初めは嫌々ながらでも、次から次に新しい入会者が入ってくると、それなりに居心地も良くなり、集団も大きくなると、その地域での発言力が増したりして権利や利権も発生したりするのである。

人は困ってる時、神に頼ろうとする。そんな時、指示を仰いだ人の助言が当たろうものなら、イチコロである。偶然であろうが、関係ない。幾つか案を出した中の一つが当たったとしても、当たれば「自分が予言した」と言うであろうし、相談した者も感謝するであろう。

どの道を選べばいいか迷っている時、困っている人は、どの道も選べない。本当は、どの道を歩いても結論は同じなのである。それが運命であると受け入れればいいだけの話である。

これが大統領であっても同じである。どの道を選んでも支持者はおり、賛成者も反対者もいる。自分で決められないから、相談するに過ぎない。こういう時、部下にも優秀な人は沢山いるのであろうが、最後は決断として自分が決めなければいけないという自負がある。部下には相談できないこともあるのだ。

そんな時、信頼できる親友や妻(夫)の意見を聞くということは、普通にあると思う。韓国の大統領の場合、相談する相手が新興宗教の親子だったのだろう。不思議なのは、いま世間に出てる話は、周囲はみんな知ってた話だった筈なのに、大統領に力があるときには出ないで、力が落ちてくると、吹き出てくることである。

告発しようとする人がいても、どこのマスコミも取り上げようとしないのに、大統領が落ち目になってくると、競ってマイナスイメージ記事を掲載するのである。どこにでもあるマスコミの姿であろう。

今回のきっかけも元部下の嫉妬から出たようである。この部下は二年前からマスコミを回って告発を続けていたようだが、何処からも相手にされなかったようだ。それが何かの拍子に火が点く。それを力でもみ消せる時もあるし、もう力ではどうにもならない時もある。後で色んな検証はされるが、どれも不正解と言っていいだろう。

なぜなら、その時のムードというのは、二度と演出できないからである。同じことを繰り返しても時が違う。醸し出すムードと言うのは、「その時」しか演出出来ない何かがあるのである。

こればかりは何故なのか、誰も答えは出せないのである。強いて言えば、「時は常に流れている」ということだろうか?

▼国のリーダーが強くなれば、国も強くなるという見本が、今のフィリピンであろう。ついこないだまで、アジアの最貧国の一つに数えられ、犯罪者の巣窟のようなイメージでしかなかったが、今の大統領が出てきて自国の犯罪撲滅に立ちあがった瞬間から、世界の見る目が変わってきた。

アメリカが弱くなって、昔ほど世界に対して強権を振るえなくなって来たのも事実であるが、実際に相手国を皆殺しに出来る時代ではなくなったので、小国と言えども一丸となってノーと言われたら、コツコツと経済制裁ぐらいしか、虐める方法がないのである。

それでもアメリカが世界の全てを支配しているわけではないから、アメリカの政策に反対する国は、裏から支援するし、究極のダメージには成り得ないのである。勿論国民に我慢を強いなければいけないので、国内は国内で引き締めに大変ではあろうが。

フィリピンの場合、返す刀で中国にも強い態度で臨んでいるので、尚更国民の支持を仰いでいる。特に長い間、放置状態だった国内の犯罪者撲滅に立ちあがったことが、殊の外評価されている。犯罪に対しては国民は、政府が考えているより遥かに嫌悪感を持っているのである。

罰則を重くするだけで、犯罪の数は極端に減るのはわかっているのに、何故そのような意見が政治家から出ないのか不思議である。いつの時代になっても完璧な政治と言うのはあり得ない。それは人の考えがそれぞれだからである。どんなに良い政治であっても飽きがくるし、長くなれば淀み驕りが生じて来る。

所詮は一過性でしかなく、それの繰り返しが政治であり、歴史なのである。日本人の本質は穏やかで勤勉で優秀な頭脳を持っている民である。ノーベル賞の数を見ても、その優秀さはわかる。ただ最近、詐欺犯罪が増えているのに驚く。

昔の専門的詐欺師ではなく、若者の素人詐欺師が急増しているのが心配である。日本発オレオレ詐欺が、韓国や中国の若者にまで流行しているというから、その責任重大である。金の亡者の拝金主義者が余りに多い。

昔は上場会社に勤めることが夢で、その関係会社の役員になることだって、一族の誇りだった。ところが今は、上場会社を作ったら「売り飛ばして」金に換え、都心のヒルズに住み、高級外車に乗って、キャバクラ女を同伴で、海外でギャンブルに興じるのが流行りだそうである。

そのためには、オレオレ詐欺だろうが、投資詐欺だろうが、デート商法詐欺だろうが、金になれば、何でもいい、という風潮がある。昔の日本人の誇りは何処にいったのだろう。

ヤクザにしても、泥棒と詐欺だけはご法度だったはずだ。アメリカの三S戦略(セックス・スポーツ・スクリーン)が、七十年かけて日本の隅々まで花開いた結果であろう。資本主義、民主主義の負の部分である。

国は人の集りで構成されているわけだから、正の部分と負の部分があるのは仕方がない。その足りない部分を補うのが、宗教であったり、道徳であったり、法律であったり、するのである。

本当はこれらがバランスよく人の心に取り入れられれば、物事はスムーズにいくのであろうが、そこに欲まで絡んでくるから、始末に負えないのである。今の日本で金儲けできる者の基準は、人を騙せること、下品であること、厚顔無恥であること、のようだ。日本の危機である。

▼早いもので、今月の十六日は安藤昇先生の一周忌である。本当はその日、安藤先生が書かれた「今日勝つ一代記」(仮題)が出版される予定だった。もっと言えば、先生がお亡くなりになられる二年前ぐらいに作家で僧侶の向谷匡史氏から「安藤先生が、白倉さんのことを書きたいとおっしゃってるんだけど、いいですか?」という電話があった。

「俺の何を書くの?安藤先生が書かれるんだったら、好きなように感じられたように書かれていいよ」という話をした。先生が沢山お持ちであった週刊誌の連載の中の一節で、ちょこっと名前を使うのだろうと、解釈していたからである。

何回か先生と麻雀をしたことがあるが(私が余りに下手だから、先生の不自由な手を動かす速度に、丁度いい相手)、いつも私の街宣スタイルのことを、「ボロ車に鉢巻姿でナッパ服の白倉を見ると、戦後の渋谷を思い出すんだよ」と言ってらしたから、そういう昔話の中の、一節に使われるんだろうと思っていたのである。

ところが、よく話を聞くと、私の話を一冊の本にして出すという。慌てて、「私の薄っぺらな人生なんかとても一冊の本にはなりませんよ。誰も興味を持たないだろうし、本にするような中味はありません」と断ったのであるが、向谷さんから「先生が個人を取り上げて書くと言われるのは珍しいし、『安藤昇が取り上げた』というところが、記念になるから、先生に任せたらいいんじゃないの?」と進めるので、お任せすることにした。

そして先生のご自宅で何度か取材を受けたのである。本当は先生のご存命中に記事の殆どは出来ていたのであるが、どうしてもメインに据えたかった内容があって、それを待って貰っていたら、先生が突然不帰の人になられたのである。

それで、一周忌に合わせて、足りない部分を向谷さんが補作されて出版という形で、話が進んでいたようであるが、直前で立ち消えになったようである。

先生がご存命中であれば、先生の判断が全てであろうが、亡くなられると色んな思惑も出て来るのだろう。静かに余生を送りたい遺族からみれば、主人が亡くなった後で、また生臭い話が話題になったりするのは耐え難いものであろう。

出版がなかったことは、良い判断だったと思う。昭和という人生の大スターから、声を掛けられたというだけで、身に余る光栄である。

今はまだ人生半ば(もう殆ど終りかけてはいるが)であるし、自書を出すには早かろう。頼れる野党が演じられなくなれば、引退しかなかろうが、もうしばらくは安藤先生を喜ばせた鉢巻ナッパ服姿で、昭和を演じながら、社会の不条理に挑戦していきたいと思う次第である。

もう師走である。今年もこれと言って、成果は何もなかった。まーどこかに、一人や二人喜んでくれた人は居たかも知れない。何もない事が一番かもしれんなー、と感じる歳にもなった。中卒から五十年の節目の年でもあったので、クラス会や同窓会にも参加した。

自身の人生と暮れの忙しさ寂しさが重なって、虚しさだけが妙に込み上げてくるのである。もう何年、同じ思いを続けてきたことだろう。結局は人生なんて、春夏秋冬を何回か繰り返して行くうちに終わり、その中で喜怒哀楽を甘受する刹那でしかないのである。


敬天ブログ敬天新聞トップページ敬天千里眼社主の独り言