敬天新聞3月号 社主の独り言(甘口

(敬天新聞3月号)


▼分相応と言う言葉がある。誰が決めるのかは知らないが、その地位とか雰囲気とかを世間が決めるのだろう。不思議なもので、風格とか貫禄と言うのも、いつの間にか誰かが決めるのである。この場合の「誰か」とは、やはり世間というものだろう。

本人がどんなに「俺が、俺が」と言っても、その雰囲気を醸し出せるものではない。やはり周囲の協力、演出がなければ、頂点までは到達できまい。どこが頂点であるかは、人それぞれである。

伏魔殿のドンとか、組織のトップであるとか言われる人達のことがわかり易いのであるが、あまりに力が付きすぎると、うるさい意見を言う人を周りから排除して、周囲にイエスマンばかりを置こうとする。そして知らないうちに裸の王様になっていくのである。

そして、一枚岩と言われた団結力にひび割れが生じて来る。割れてしまえば割れた分の力ではない。今まで見えなかった割れた面の内側が世間に晒されるわけだから、その構成物質まで明らかになることで、脆い組織になってしまうのである。

割れる状況であるが、トップが自身の力を勘違いして、部下に無理強いをし過ぎて愛想を尽かされる時もあれば、世間に対してやり過ぎれば、国策として潰される時もあろう。やはり何でも程々である。栄養をとりすぎれば栄養過多で早死にするし、栄養が足りなけれ栄養失調で早死にする。

最近わかった健康学は、若い頃にはたっぷり栄養を取って、中年を過ぎた頃からはカロリーを三割カットすることが、健康で長生きの秘訣だそうである。人は世間から持て囃されてる時が、その人の絶頂であろう。

だが、飽き性の国民である日本では、名声は長く続かない。マスコミは常に新しいスターを創りだそうとするし、世間もまた常に新しいスターを求めている。時に、長嶋茂雄、石原裕次郎、美空ひばりというような永遠のスターのような人も現れるが、それは仮に作られた部分があったとしても、本人の才能が先ずあって、世間に飽きられない嫌われない努力に加え、最後までスターを演じきったからに他ならない。

それこそ、持って生まれた運勢が違うのである。一般の人はそう言うわけにはいかない。どこまでを一般と言うかの線引きは別にして、「分相応」という言葉を常に理解していれば、そう大きな間違いは起こらないのである。ところが人は、周囲や世間の煽てに乗りやすい。「豚も煽てりゃ木に登る」という奴である。

その格は別にして、勘違いする者は多い。ある意味、国策として潰される者は、大物には違いなかろう。善し悪しは別にして、「国の基準として、許せない範囲に到達した」というわけだろうから。

だけど政権を執ってるからと言って、自分たちの意見に反対だからという考えで、国策にしたり潰したりというのは、間違いである。対立する政党が政権を執ったら、真逆の決定を下すことになるではないか。国策はあくまでも、国や国民に甚大な被害を与える恐れのある法律違反行為が基準でなければ、世の理解は得られまい。

権力に任せての国策の乱用なら、それでは北朝鮮の恐怖政治と同じになってしまうではないか?ただ国民一人一人が、分相応という立場を理解すれば、無駄な争いも、際限のない欲望も少しは減って、穏やかな毎日が過ごせるのではないか、と考えた次第である。

▼反社の概念が今一で、その時その時の判断で下されたり、取り扱う担当者で違ったりと言うのが現実のようである。また地位のある人や、金のある人は、その地位や金で、有力な弁護団を形成できれば、過去のダーティーな部分を隠すことも削除することもできるのが、現実である。

権力者は直接もみ消すことさえできる。甘利大臣秘書一味の恐喝も、事件として成立しなかった。当事者間で決まった金額が、秘書が何度も口を利いた結果、何倍にも跳ね上がったし、その秘書たちが謝礼を貰ってるわけだから、どう考えても、一般的には恐喝に映る。

だが、最初の契約そのものが余りに理不尽だから、相談された秘書が「不条理」に感じ、男気を出して何度も交渉してあげた結果、相手もその誠意に根負けし、最初の結論を見直してくれたと、事件にしなかった人には映ったのだろうか?世の中の見方も取り方も様々である。世の中の評価はどうでもいいが、その当事者は堪らないだろう。扱い方で天国と地獄である。

いつも感じることであるが、逮捕された時には「間違いなく犯人である」と言わんばかりに、逮捕された者が如何にも悪者らしくイメージの悪い放映をしたり、記事にしたりするのであるが、不起訴になったりした場合は、殆ど知らんふりである。

罪名によっては傷ついたり、その後の人生に影響の出る人もいよう。真面目な人ほど、取り返しがつかないのである。法治国家とは言え、法は全てに万能ではなく、また平等でも正義でもない場面は多々ある。時に、金と力に屈するのである。反社概念もそうである。

共謀罪ももう少し具体的に線引きが必要であろう。凶悪、悪質、国家破壊、国家裏切りに繋がるような、重罪な犯罪に限り、それも組織的に行う犯罪とかに指定すれば、国民の誰もが反対はしないと思う。一握りの者は、どんな条件を付けても反対するが、そんなものは気にすることはない。

ただ、取り扱うものの都合で解釈できるとか、さじ加減でどうにでもなるとか言うのでは、国民の理解は得られまい。テロ準備罪は作ってもよい。共謀罪も犯罪を限定して作ってもよい。それより、今ある犯罪法律の悪質性の高いものを厳罰化することが、より理解を得られるのではないか。

例えば人一人殺したら、原則死刑。そこから、どれだけ情状が酌める理由があるか、だけでいい。二人殺しなら情状を酌む必要はない。喫緊の課題は、「詐欺」の厳罰化である。先ず、電話勧誘の禁止を法律で決めれば、特殊詐欺の七割はなくなろう。特に七十歳以上の人への電話での契約は無効という法律を作れば、お年寄りも安心して電話に出れるのである。

日本は犯罪に対してあまりに罰則が軽すぎる。フィリピンのドゥテルテ大統領は、凶悪犯罪者に対して、射殺と言う究極の道を選んだが、それでも国民は九十五%が支持していると言われている。国民はそのくらい犯罪に対しては、嫌悪感を持っているのである。

日本は法治国家であり先進国であるから、フィリピンほどの極端な政策は取れないだろうが、それでも犯罪に対しては、七割ぐらいの人は重罪に対する厳罰化を望んでいるのではなかろうか?例えば死刑廃止制度に対しても、人前で話すには、死刑反対意見の方が、耳障りはいい。

如何にも優しい心根の持ち主で、思いやりのある人に感じる。一方死刑制度賛成派の人がそのことを口に出すと、薄情で人非人のように思われそうである。だけど、物言わぬ国民の七割が死刑制度に賛成を示している。それは死刑になるような者は、死刑を選択しなければならないほど、極悪非道な行いをしているからである。犯罪を減らすには厳罰は必要である。

▼北朝鮮の正恩トップの実兄が殺害された。それも自国ではない。海外の空港で堂々と毒殺された。映画の中の出来事のようである。

しかし、現実の話である。人治国家の典型的な出来事である。北朝鮮も正恩体制になってからは、世界の情勢を見ながら恐る恐るミサイル発射訓練をやっていた感があったが、周囲からの制裁が一致団結ではないのが見えて、だんだん自信に繋がったのか、周囲の国々に遠慮することも無く発射するようになった。

暗殺実行部隊は、幼少の頃から家族から離され洗脳され、死を恐れない特殊人間に訓練された者たちであろうから、我々が学んだ世間の常識などで判断することは、全くの参考にならないだろう。

しかし世界には、北朝鮮を脅威に感じる国、北朝鮮の横暴を喜ぶ国、様々なのである。取りあえずはわが国は、北朝鮮に脅威を感じる国側の立場であろうから、それらの国々と歩調を合わせていくしかない。あれもするな、これもするな、という意見を言う人もあるが、先ずはそれを言うなら対案を出して、それの賛否を国民に尋ねてみればいい。

ただ反対反対の呪文を唱えて、勝ったら自分の言う通りだった、負けたらお前の言う通りだった、では、あまりに卑怯である。どちらの立場に立っても、リスクはある。安倍総理が世界で一番早くトランプ大統領の懐に飛び込んだ。これが吉と出るか、凶と出るかはわからない。しかし、アメリカという国を否定する程の力は日本にはない。誰が大統領であっても、アメリカ国民が選んだ大統領である。

少々性格が破天荒であっても、アメリカの大統領には変わりない。それなら敵対するより、懐に飛び込むしか方法があるまい。世界の国々がトランプ大統領を批判しているから、日本もトランプ大統領を批判せよ、と言うのは間違っている。

みなそれぞれに御国の事情があるのである。相手に対等に物が言えるということは、軍事力で拮抗する力を持つ以外にない。経済力だけ持っていても、ただ色んな国から食われるだけである。 経済力だけをどんなに持っていても、相手からは「太った豚」にしか見えないのである。人間の世界も究極は、弱肉強食の食物連鎖が基本になるのである。その証拠に権力者の暗殺を誰も防げないし裁けないではないか。

治安がしっかりしている所では法で暴力も裁けるが、暴力が法を上回る世界が数限りなくあるのも現実である。それに比べたら、日本の自衛隊は優しい。人道的である。

災害があれば、いの一番に駆けつけ、黙々と重労働をこなす。実際に災害に遭われて自衛隊の有り難さを感じられた方は多いと思う。一部に自衛隊の悪口を言う者がいるが、国の防衛の為に働いている自衛隊に感謝こそすれ、批判なんてとんでもない話である。

本来国民一人一人が持たなければならない愛国・防衛の気持ちを代表して持っていてくれてるのが、自衛隊である。

二月十八日に「軍歌祭」というのがあったので出席してみた。沢山のファンの方が居て感動した。日本も捨てたもんじゃない。軍歌を歌って再認識したのだが、歌詞の素晴らしさである。

親を思う、恩師を思う、家族を思う、国を思う。慈愛に溢れた言葉の羅列に涙涙の会場だった。

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