敬天新聞5月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞5月号)


▼殺人武道の先生として著名である田中光四郎先生の十三本目のDVD完成披露パーティーが三月二十五日中野サンプラザであった。七十七年の生涯の中で、五十五カ国の国の軍隊や警察で、相手を倒す武道を教えてこられたそうである。一言で言えば「殺される前に殺せ」ということである。

戦場では一瞬の躊躇が命取りになる。敵と遭遇したら、確実に殺しておかねば、自分がやられるのである。「素手で勝てない大男には、何でもいいから武器を持て」。先生の場合は、小太刀を武器にしている。

そして先の先で動き、「迷わず突き刺し、倒したら必ず足で、相手の頭を踏みつけろ」と、教えているのである。上から体重をかけて顔の側面を踏みつけたら、頭は原型を留めないだろう。

しかしそれこそが、自分の命を守る最大の武器なのである。今の時代に野蛮だ、という人もいよう。思想信条は自由だから、どう解釈されても結構である。しかし今の時代でも、この平和と言われる日本でも、弱い女性なら襲えるという、不埒な輩はいる。

しかも強姦した後、ばれたら不味いと、自分の浅はかな考えでその女性を殺してしまうバカもいる。そんな男に殺されてしまう無念さは如何ばかりであろうか?もしその女性が、この護身術を知ってて、相手を倒し、踏みつけて殺しても、無残に殺されるよりはいいだろう。

仮に過剰防衛として罪に問われても、私は拍手喝采して、その女性を支持する。娘を持つ親なら誰もがそう思うのではないか。日本は今、たまたま武力的には平和であるが、世界には強い者が弱い者を支配する社会は、幾らでもある。

いつそれが日本に押し寄せるかわからないのだから、男に、強くなることを基本として教えることは重要なことである。 私もパーティーとかに呼ばれて挨拶する時があるのだが、必ず「今日勝つ」の話をする。男は毎日が戦いである。今日負けてしまえば明日はない。男の負けは死を意味することはよくある。

家で待ってる家族の為にも生き延びて、食物を運んであげなければ、家族も死んでしまうのである。食物連鎖で小動物は大動物に喰われて死ぬ。弱い者は強い者の犠牲になって死ぬ。弱い者は動かない草木を食べて生き延びる。

その草木でさえも乱立すると、水を飲めないもの、陽が当たらないものから、倒れていく。人も基本はそのようなところがある。

だから「今日勝つ」ことは基本なのである。そのためには「恐喝」も辞さない、という話をするものだから、いつの間にか「敬天新聞は恐喝新聞」と言われるようになったのである。新聞やマスコミには多かれ少なかれ、そういう側面はある。

時代は違うが、元々国会タイムズ(五味武代表)のパーティーに出て、政財界、芸能界、文化人が三千人も集まるこの源泉は何なんだ?というところに憧れて始めた書き屋であったから、多少強い言葉の論調になったのである。

田中光四郎先生の武道は真剣である。常に生死がかかっている。動物の本能を忘れるな、と教えているのである。齢喜寿にして、動きは軽やかである。ついこないだまで、夜の歌舞伎町で毎日のように出会ったものである。

「社主、エミカちゃんで待ってます」が挨拶だった。因みに敬天新聞写真集コーナーの一番最初に取り上げてるのが田中先生の「アフガンの侍」である。是非DVDを買って頂き護身術の参考にして頂きたい。

▼権力者のダブルスタンダードは常識である。そこそこのダブルスタンダードであれば、国民も見て見ぬ振りをする。これがまた、権力者を付け上がらせることにもなるのであるが。

日本の場合、国民が真面目で行動的でないので、意思がわかりづらいところがある。外国では、直ぐにデモという形で抗議をするのでわかり易い。日本の場合、支持率とか視聴率とかで、発表し、それを聞いてなるほどと納得し、その前後に自身の位置を置こうとするのである。みんなとさして離れていない所にいる安心感である。その日本人独特の考えを利用して権力者は、その支持率とか、視聴率を操作することも可能である。

こんな時に、最も活躍しなければならないのがマスコミであるが、そのマスコミがビジネスであるため、真に恣意的で、余りにあてにならないのが現状である。プロパガンダというマスコミもある。いずれにしても、公であれ私であれ、人がやることに完全完璧は無く、自分の考えに沿っていたり、近かったりすれば、人はそれを言い考えだとか、いい意見だと言うのである。

しかし、これは仕方がないことで、一人一人の生まれ育った環境が違い、能力が違い、年齢が違い、時代が違う。これを一つにまとめる方が無理である。力を競うのが基準の雄と、美を競うのが基準の雌とでも、考えが異なることは当然である。人の上に立つのが好きな人。使われてるのが楽という人もいる。

束縛を嫌い自由に生きたいと思う人もいる。一生独身で過ごす人もいる。ただ、生まれてきた以上、いずれは死ぬ。早いか遅いかは誰にもわからない。だけど、必ず死ぬ。この「死ぬ」という現実を忘れて生きているのが、動物の中では人間だけなのではないか。動物は毎日死と隣り合わせに生きている。

殺されることが目的に生かされている動物もいる。歳を重ねると、色んな経験を経て死ぬことが現実的に理解できるようになるが、若いときはなかなか理解できない。国力があって初めて民の幸せがあるという考え方もあれば、民の自由があってこそ国は成り立つという考えもある。

いずれにしても、ある程度のルールがなければ、国も県も市も町も成立しないだろう。ルールがなければ、力の強い者が徒党を組み、力でねじ伏せ、弱者は奴隷として働かされるだけである。そういう時代もあった。国によっては今もある。

そう考えれば、今の日本は及第点ではないか。だから、近隣諸国からの違法就労者が後を絶たないのである。これらについても賛否両論はある。当然である。人が生きてる限り争いは絶えない。北朝鮮にいつかアメリカは爆弾を落とすだろう。中東では毎日のように戦争が起きている。どちらが正しいのかわから無い。どちらも正しい。

遠くで起きてることだから、日本では起こらないと錯覚しているのである。災難は突然やってくる。理由もなく「あの平和が憎たらしい」と思う者だっているのである。

韓国の慰安婦像問題も、北朝鮮の拉致問題も、中国の靖国参拝問題も、根は「あの繁栄の底力は何処から出て来るのだろう?(羨ましい)」ではないのか?日本の場合、島という天然の要塞になっている所が恵まれている。

▼長らく、今度生まれて来るときには「てんとう虫」になりたいと思っていたが、最近は「歌手」になりたいと思うようになった。その理由は後で述べるとして、忘れないうちに書いときたいことがもう一つある。

最近はアルツ君とハイマーちゃんが頻繁に遊びに来るので、思いついた順に書かないと直ぐに忘れてしまうのである。文章の構成であるとか、文法であるとか二の次である。先ずは書こうとすることを忘れないのが先である。お笑いめさるな、みなが通る道である。

ずーと悩んでいたことであるが、どちらが究極の選択だろうか?という話で、「夏の暑くて暑くてどうしようもない時に、冷たい風呂に入るのと、冬の寒くて寒くてどうしようもない時に、あったかい風呂に入るのでは、どちらが気持ちいいだろうか?」との悩みに最近ようやく答えが出るようになった。気持ちいいでは未だに答えは出てないが、「どちらが幸せだろうか?」という質問に替えれば、「あったかい風呂を選ぶだろう」と考えるようになった。

単に歳のせいかな?そこで、歌手になりたい理由であるが、歌手はたった三分間の中で、聴衆の心を捉え感動を与えることができる。しかも敵も味方も作らない。その場にいる聴衆のすべての人に感動を与え、心を一つにすることができる。

他の職業はすべて敵味方や反対意見や好き嫌いを作ってしまうが、歌は瞬間的であっても、聴衆の心を一つにして幸せにする力を持っている。どんな立派な政治家であっても、どんな崇高な宗教家であっても、すべての聴衆の心を捉えることはできない。著名な哲学者の意見にさえ、反論を唱えるものはいる。スポーツでも基本は戦いであり、勝者敗者を作る。

てんとう虫も似たような理由だった。若気の至りの最中は、やはりライオンや虎や竜に生まれ変わりたいという夢を持っていたが、強く生きることは孤独でもあり誰かを悲しませることでもあるので、てんとう虫なら、夏はそよ風に揺れながら木陰の葉っぱで昼寝して、冬は陽の当たる葉っぱの上で転寝して、偶然人に見つかっても、「幸せの七星てんとう虫」と優しく見つめられ、幸せを分けてあげられる。 天敵に見つかったら、パクッと食べられて終わり。生き恥を晒さなくてもよい、と考えていたのである。

現実に戻って、先日、四十代の人に「今幾つですか?」と尋ねたら、「もう人生の半分を超しました。折り返しの下り坂です」と返事があったので、「何を言ってるんですか。今が人生の一番良い時で、これからじゃないですか。」と答えた。

そしたら今度は、ある日八十代の人に、「貴方はお幾つになったの?」と尋ねられたので、「六十代半ばになりました。あっちこっちガタがきて、もうそろそろ人生の終活の準備です」と答えたら、「何を言ってるの、今が一番良いときじゃないの。いま人生を楽しまなきゃいつ楽しむのよ。」と言われた。

それを聞いていた九十代の人が、「そうねー、私も子供たちに迷惑かけないように暮らすには、何だかんだ言っても、あと十年ね。」という話を聞いて、ああ〜健康ならもう百年の時代なんだなー、と思ったが、とてもとても、そこまでの余力はないと、実感した次第。

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