敬天新聞7月号 社主の独り言 (ピリ辛)

(敬天新聞7月号4面)


▼憲法改正には賛成である。憲法九条を護ることが平和を維持することだから、憲法は触ってはいけない、改正してはいけない、というのは間違いである。それはそれで主張するのは構わない。

だが、憲法改正そのものが違法であるような、悪法であるかのような言い回しは、もう時代遅れではないのか?改正を主張しようとしているのは、何も九条ばかりではない。

今の時代に合わなくなったものや、国民の未来により必要と思われるものの改正も願っているのである。護憲の代表政党と言えば、社会党(現、社民党)であった。長く最大野党で、自由民主党の最大のライバルであった。それが今は見る影もない。二度、三度、政権与党になったこともある。

何故これほどまでに落ちぶれたのか?それは、国民の心と乖離しているからである。時代を読めてないからである。時代と共に、人の心も移り変わっていく。憲法改正、すなわち戦争肯定と解釈し、巧言しようとする。

社会党も時代を担って、一定の役割りを果たしたのは事実である。物言わぬ国民ではあるが、見るとこは見て、判断しているのである。人は金に転ぶ時もある。情緒に流される時もある。風に吹かれて飛ばされることもある。

選挙も水物である。誰が社会党のここまでの衰退を予測しただろうか?社会党の読み違いは、なんでも反対だからいけないのである。「憲法改正とは、どのように、何を、改正するのですか?」と問い、その中で良いものは認め、「しかし、九条だけは駄目ですよ」と訴えれば、もっと国民の理解を得ると思う。

戦後七十年で、憲法改正してないのは北朝鮮と日本ぐらいである。尤も北朝鮮は金一族の考えが憲法だから、毎日が憲法改正みたいなものである。日本に憲法を押し付けたアメリカが六回、イタリアは十五回、フランスは三十回弱、ドイツは六十回、憲法改正をしてるそうである。

また、日本の憲法改正論が出ると、内政干渉甚だしい中国や韓国でさえ、十回近く憲法改正しているそうである。憲法改正は他国に干渉されることではない。憲法改正反対を叫ぶ者たちが、国会に一万人集まった、二万人集まったと騒ぐ。

賛成者は千人しか集まらない。見た目は、いかにも改正反対者が多いように見える。しかし、物言わぬ国民は、改正を訴えてる自民党を支持している現実がある。ここを野党は理解して、戦略を立てるべきなのである。

改正に賛成して「中味、内容」を争うべきなのである。ただ、共謀罪での強硬は「憲法改正」に不安を覗かせた。国民の理解を得ないまま、強行突破したように映り、今後の「共謀罪の使い方次第」では、国民の心が離れ、「憲法改正」が実現化されると、共謀罪の法律制定どころではない、という不安を持つのではないか。当然野党はそのように触れ回る。

加計学園の国会問答にしても、共謀罪の問答にしても、担当大臣、官邸の答え方がひどかった。籠池氏の国会喚問は、本人が都合の悪いことに対して、答えなかったり、補助金詐欺をしていたりして助かったが、前川氏は文科省トップの前事務次官だから、信用が違う。しかも本人が堂々と国会喚問に呼ばれたら応じると言っている。

如何にも、自民党が逃げ回ってる印象である。受けて立てない事情があるのだろう(都合が悪い)、と国民には映る。おまけに、今まで冷静に見えていた菅官房長官までが、違反しているわけでもない個人的性癖まで持ち出して、個人攻撃するのは異常だった。

その上に、総理番記者が女性ジャーナリストを準強姦した事実を、もみ消したという話まで出てきた。今の安倍総理を支えているのは、中国と韓国の反日姿勢と北朝鮮の横暴である。安倍総理の外交姿勢を国民は支持している。

それにしても大臣の劣化はひどい。蟻の一穴山崩れ、にならなければいいが。都議会自民党は、大惨敗するだろう。

  

▼老舗(しにせ)と言う言葉がある。何代も同じ商売を続けてきた、格式と信用のある店のことをいう。転じて、長く続けてきた、仕事や組織にも使ったりする。いずれにしても敬意を含めた褒め言葉として使われる。

中には千年も続く店や会社があったりする。初代や二代目は、勢いがあるから何となくわかる。本人の勢いもあれば、時の勢いもあるだろう。時流に乗るという奴である。

だが、そういうものは、長くは続かない。例えば芸能界を見てればそうであるが、デビューから引退までスターを続け、そしてまたその後を継いだ息子が、スターダムに乗って、というのは、滅多にいない。

上に行けばいくほど、またいつかは落ちる日が来るから、ある程度の高さまで行ったら、そこら辺を「よし」として保ち続けることが、長く続くコツかもしれない。いぶし銀の輝きというやつである。

トップに立てば、見える景色は良かろうが、風当たりも強かろう。代を継いだ人の中には、その才能が優れてない人もいたろうに、それでも使命感を背負うように、ひたすら「代」を守っていく。途中、「代」の長い人もいれば、短い人もいるだろう。それらの全てを通して、老舗に繋がっていくのである。

そして必ず、「中興の祖」という人望や才能ある人もいる。それらが続くことによって、老舗と言われる存在になっていくのである。今のような時代の流れが早くなり、流行り廃りが早くなれば、一つの仕事の継続だって難しい。しかも日本人は飽き性で、忘れ癖がある。新しいものに飛びつく癖もある。伝統を守ることが苦手である。

年配者が辛うじて守っている。本来、地味で真面目な大根足の日本人が、西洋かぶれで、細く華奢な姿に憧れているのである。若いときに、伝統を守れと言っても、無理な話である。歳を重ねて初めて見えてくるものもある。見なければ、知らずに育つということもあろうが、日本では今、世界中の出来事がその日、その時間に見える。

そんな中で、旧態依然とした、教育や躾を押し付けるのも、難しいだろう。世界は年を重ねるごとに、身近になり、一つになっていくだろう。だが、それらを望まない国や人々がいるのも事実である。老舗と呼ばれる存在は、辛抱すること、浮かれないこと、はしゃぎ過ぎないこと、地道な努力を続けること、等をみんなが自覚し守り続けてこその存在である。

そのどれが欠けても成り立たないのである。本来日本人が持ってる性質や文化、習慣、風習、みたいなものには、老舗に繋がって行く風土はあるのだが、何せ今は環境の変化が大きい。みな故郷を捨てて、都会に集まっている。

家族、家庭の絆が壊れ始め、先祖との繋がりも壊れ始めた。家長制度がなくなり、個の自由が尊重されるようになった弊害ともいえるだろう。個人の自由は最大限尊重されるべきではあるが、世の中は独りでは生きられない。

直接的には感じにくいが、人は助け合って生きているものである。保険制度や生活保護制度等がいい例である。町であり、市であり、県であり、究極の括りの単位は国であるが、少々窮屈になる時があるのも仕方がないのである。それが日本人として生まれた義務でもあり誇りでもある。



▼嫌いな表現を使う時、「虫唾が走る」と使うことがある。私の場合、その中の一つに、老女になっても「花子はさ〜、」と自分の名前を、自分で言う婆さんがいる。意識過剰というのか、聞いてて反吐が出る。

だいたいこういう女は、子供の頃、中学生や高校生になっても、自分を表現するとき「私は」とは言わずに、自分で自分の名前を呼び顰蹙を買った女で、同性から嫌われる、異性に媚び売る女が多い。そういう女に限って、何十年ぶりのクラス会などで会うと、「〜く〜ん(君)」と鼻から抜けるような声を出し、男に声をかけ、「あの子はさ〜、」と、老人男性に向かって、無理やり若い時代を思い出させようとするのである。

最近は男女平等が謳われる時代である。権利の男女平等は理解できるし大いに結構である。しかし、間違っていけないのは、本来持ってる能力の違いである。雄は力を武器にして世界を制覇しようとするし、雌は美を持って雄を制覇しようとする。子供を産み育てるのも雌にしかできない役目であろう。

その代り雄は、その食料と住まいを確保し、外敵から守るのが役目である。こういう話をすると、「時代遅れ」と言われそうだが、本来持ってる本能というのは、これが基本である筈である。

その上で、男女の平等や権利を主張するのは構わない。ところが今は、生きる形の多様化の選択が自由にあり過ぎて、親も本人も、どうしていいかわからない。個々を尊重するあまり、家族や家庭という形が崩壊しているのである。社会は男中心で成り立っている。政治も行政も司法も男が中心に成り立っている。

そんな中、女性の視点で見る感性は、非常に役に立つのである。ただ国内の地方政治では、女性視点も役に立つが、国政となるとそう容易くはない。国政にも、何人かは男に負けない迫力で、渡り合ってる女性もいるにはいるが、結局社会が「男社会」だから、まだまだ色物的に扱われてるのが大半である。

もっとも議員の場合、地方も国政も一部の者が、伏魔殿を作り、そこを中心に物事が運ばれ、賛成多数で物事が決まる為に、個人で優秀な人がいても、何の役にも立たず、その他一同の活躍しかできないのである。最初、政治の世界に足を踏み入れる時は、「俺が政治を変えてやる」と意気込んで挑戦して行くのであろうが、先ずは国民に選ばれるという難関を突破しなければならない。

二世は、そこの基本が出来上がってるから、先ずバカでも通る。仮に当選したとして、自分が長い間温めてきた構想を発表する機会が来たとして、そこで発表しても、「何を寝ぼけているんだ、この青二才は?」と言う目で見られ、誰も賛同してくれない、と言うのが現実であろう。

そのうち、「自分は一年生で物を言うのは十年早いのか」と気付き、政治家としての本分より歳費を貰う有り難さに気付き、「政治を職業」と思うようになり、「当選することこそ政治家の使命」と考えるようになって、男は票田回り、後援会作りに命を賭けるようになって、女は色物と言われようが、力のある政治家にくっつき引き立てられる方が、長生きの秘訣かも、と考えが変わっていくのである。

これは政治家に限ったことではなく、社会全般の仕事にも言えることである。ところで歳のせいか、最近「虫唾が走る」ような経験や感情も少なくなった。歳と共に人は鈍感になるのである。


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