敬天新聞8月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞8月号)


▼女優の松居一代が亭主に向かって暴走して話題になっている。最近では気持ち悪い分野にまで突入している。妄想のような域である。

初めはみんなどう解釈していいのか、意見を控えていたが、最近は皆が物言いだした。男は巻き込まれるのを恐れ、当たらず触らずの意見であるが、女の意見は辛辣で厳しい。

この夫婦喧嘩が表に出て、初めはびくつく男性も多かったようだが、次第に喜んでる男性が増えて行ってるようである。年配者の夫婦関係では男が威張って、女が従う的な夫婦関係が未だに多いのは事実だろう。

だが、五十歳ぐらいを境に、女が強い家というのは意外と多いのだそうである。外で働いて帰って来て、家でまたこき使われ、一言でも文句を言おうものなら、十言返ってくるし、暴力まで振るってくる妻がいるそうである。

傍からみれば、「別れれば済む話」と見えそうであるが、長年の付き合いで情が絡んでる部分もあるし、今更別れるほどでもないか、とついつい我慢している男性は意外と多いそうである。

しかし、今回の松居一代騒動で、「こんな女じゃ、とても一緒に住める状況じゃないなー」という声が上がっているのである。女側のDVに悩まされてる男が声を上げやすくなっているのである。松居一代効果である。

松居一代の場合、性格的なものが強烈で、一概に一般の女性と比較は出来ないが、最近の女性の強さは、教育もさることながら、共稼ぎが根底にあるのではないか?昔は専業主婦が多く、外で稼いでくる男に対する畏敬の念が少なからずあった。それが今は全て平等という観念も育って来てるため、家庭の中でも夫婦が平等で、友達感覚である。

女性側に全く臆する感覚はない。その代表が安倍総理であろう。古い人達からみれば、男が頼りなく見えるだろうし、若い人から見れば当然と映るようである。これも時代の流れである。

松居一代現象が、突然変異的な現象なのか、時代が作った自然の流れ的な現象なのかは、まだわからない。悲喜こもごもであるようだ。

しかし、他人事だから、面白おかしく見ている人も多いようだが、当人たちは至って真剣で、いつ自身の身に降りかかるかわからない現象でもある。クワバラ・クワバラ。




▼権力者は、後日幾らでも言葉を整えることができる。あれだけ質問に対し、真面に答えなかった安倍総理であったが、支持率急落を受けて、「これからは真摯に、わかり易く丁寧に答えたい」と説明した。

安倍総理が憲法改正に向けて前向きで、防衛力の増強に力を入れてること、外交での強気の姿勢は、近年にない強い総理で、拍手を送りたい。ただ、森友学園、加計学園、共謀罪の質問に対する答え方が、余りに酷かった。

森友学園は組んだ相手が二万円を百万円(一番上と一番下だけ一万円で中味は白い紙)というような漫画チックな人だったから難を逃れたが、そんな人に肩入れした夫人が軽すぎる。教育方針は別に間違っていない。

それに感動し賛同しても、別に悪いことではない。個人的に寄付をしててもいいではないか。普通、悪い政治家は許認可や助成金を出す見返りに、キックバックを業者側から貰う、と言うのがパターンである。総理も夫人も見返りを貰っていない。

「いい教育方針」と思ったから、できるだけ応援したいと思っただけである。それを誰かが忖度して、土地が安くなったのだろう。 何かが始まろうとする時、政治家が口を挟んで、物事が決まることはよくあること。日本中で腐るほどあるよ。

しかも殆どが、仲介した政治家は金を貰っている。長崎の国会議員である谷川弥一や元県知事で今参議院議員の金子源次郎なんか、息子と娘を結婚させて、農業なんかやったこともないのに、ぬけぬけと諫早干拓の一番良い所を、一番大きく借りているのである。

本来農業関係者しか入拓資格はないのにである。そういうのとは違うのだから、安倍総理もムキになって、「私や私の妻が関係してたら、議員も総理も辞めますよ」と言うべきではなかった。総理はともかく、悪い意味ではないが、夫人が関係してたのは間違いない、と国民は思っている。ただ、教育方針が気に入らない朝日新聞、民進党がスクープしたのに、籠池氏がそれらと組んだことで違和感がでた。

それにせっかく喚問に出たんだから、自分に不利になることも全て答えれば、潔く見えたのであるが、出たがり屋の本性が、二万円で馬脚を現した。これで「安倍総理の勝ち」のように見えたが、八億円安くなった明確な理由が説明されていない。

次に加計学園であるが、これは完全に前川喜平元事務次官の勝ち。「貧困調査のために出会い系バーに行った」という部分だけが、嘘っぽいが、後は総じて信じるに足りる感じを受けた。中央官庁の職員(エリート国家公務員)がわざわざ嘘の資料を作る意味がない。

もし本当に、そういうことをしていれば、逮捕される事案であろう。話が二転三転しながら、最後は嘘八百転して、山本幸三大臣が「私が指示した」と言ったが、そのことをずっと追及してたわけだから、それなら最初から「私です」と言えば、何でもなかったこと。

国民は誰も信じていない(と思う)。冷静な菅官房長官の「怪文書」に拘ったり、人格攻撃も異常さを感じさせた。これは完全に官邸の負け。今は「加計学園に限らず、申し出があれば幾つでも受け付ける。岩盤に穴を開けるのが目的だった」と言うような主旨に話をすり替えているようであるが、それなら最初から、そう説明すれば、いいだけの話であったはずである。

共謀罪は大臣がバカ過ぎた。時代的には必要ではあるが、テロ等準備罪という割には、テロに関係ない微罪も入れすぎである。共謀罪の強行採決は、憲法改正に非常にイメージを悪くしたのではないか?憲法改正には、最近国民は、そんなに悪い感情を持たなくなってきた。

近隣諸国に、余りに遜る姿が醜く見えてるのではないだろうか。それに北朝鮮の横暴も影響しているだろう。




▼権力者が恣意的に物事を判断するというのは、古今東西あることで、何も今に始まったことではない。

北朝鮮のように下々が物を言えない国に比べれば、我が国のように、少なくとも、物の言える分だけ、素晴らしい国である。それに度が過ぎると感じれば、選挙でその体制を変えることもできるのであるから、素晴らしい国であるのは間違いない。

恣意的な判断も忖度も、程々であれば、国民は納得する。問題はそれらを隠して行うことである。隠すという行為こそ、自分たちで「悪徳行為である」ことを自覚している証拠であろう。

それは政治家に限らず、官僚とて同じである。それらを監視する目的こそがマスコミの使命であろうが、日本のマスコミの場合、商業主義が優先してるのか、元来御上に仕えるという習性が遺伝的にあるのか、独立性やオリジナル性に欠けているのである。

確かに寄らば大樹の陰が楽ではあろうし、衣食住にも楽ではあろう。しかし、国民に真実を伝える意義もあるはずである。大手であれば義務と言ってもよかろう。

それが、ただの国が決めたことの放送部でしかないなら、国営として、その専門放送局を作ればいい。恣意的な判断の一つで、今でもおかしいと思うことがある。

何代か前の警察庁長官が、企業と総会屋の決別を促すために「過去は問わない」という、企業を救う英断を下した。今では、その「過去は問わない」が拡大解釈され、その時々で恣意的に都合よく解釈されているのである。

あれは総会屋とそれまで総会屋に資金提供してきた企業側とを切り離すために、「過去は問わない」という宣言をして、総会屋側には犯罪を問うが、資金を提供してきた企業側の犯罪は不問に伏す、という宣言だった。

今の暴排条例の流れを見ると、先見の明があった判断ではあると思うが、中には積極的に暴力団を利用し、相手を痛めつけたり、精神的に狂わせたり、殺人まで実行させたような過去を持つ、資金提供者側までいる。

そんなものまでひっくるめて、「過去は問わない」というのは、余りに司法を無視した公平に欠けた行き過ぎた判断と思うのだが、如何だろうか?

暴力団と一般人とが共謀して物事に当たり(大抵の場合、金を出して頼む側が一般人で、金を貰って暴力を働く側が暴力団。中には、実行行為をさせていながら、約束の金を払わない汚い者もいる)、商売相手を倒して、自分が名誉や地位や金を作った者も、現実にはいる。

暴力団を孤立化させるための手段であることはわかるが、内容にもよると思う。多くは、切るに切れない関係から、警察に助けを求めている場合を表現した「過去は問わない」採用であろうとは思うが、過去を正視すれば、「汚れに汚れて今がある」という者もいるのである。

わかり易く言えば、「オレオレ詐欺で稼いだ金を、普通の仕事に投資して上場までしたような成功者」であるとか、「暴力団の暴力を使って敵対する者を潰して会社を大きくしながら、今では社会的に名士となった者」とか、である。

金さえあれば、警察が手を出せないほどの政治家を抱えたり、優秀な弁護団を雇ったりすることも可能である。こんな奴等も「過去は問わない」と、一緒くたにしていいのだろうかと、ふと思った次第である。




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