敬天新聞8月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 平成30年8月号 4面)


▼日本の最高の頭脳集団が集まると言われた中央官庁。中でもトップと言われて来た財務省から始まった、「嘘つき、改ざん、隠蔽」の常習化。国民の目から見て、「どう考えても黒」というイメージだったが、与党と一緒になった嘘(に見える)話を、押し通されてしまって、これらが本来の官僚の姿なのだろうかと、疑ってしまう。

文科省の幹部の中には、自身の息子の裏入学と引き換えに、管轄の大学に有利な認可を出したというバカ者もいる。これは稀なケースの裏入学犯罪だから、表に出たが、通常の裏入学などは殆ど出ないのが、暗黙の了解になっている。これらは日本人が大切にしてきた民族としての誇り、公衆道徳、社会に対する奉仕精神、羞恥心、敬老精神が、アメリカ物欲主義に犯されてきたからである。

今の日本は、金が無ければ負け犬と称されて、一蹴されてしまうのである。金で何でも買える世の中になってしまった。

あの和歌山のドンファンとかいう垂れ流し丸出しのような汚い親父が五十歳も離れた孫のような女性と一緒になって、四千人の女性と寝たことを自慢し、それが成功のステータスのように、持ちあげる風潮が今の日本の代表例である。

世の中には男と女と少しのオカマしかいないんだから、何処かで常に性交は行なわれているだろうが、やはり特殊な場所以外で、他人に見せるものではない。見せてはいけない物は、見せないからこそ、威厳が保たれたり、信頼に繋がったりするのである。それで秩序は守られているのである。

アメリカに憧れ、追いつき追い越せで、アメリカに習って学んできたが、所詮気質や人種が違うので、アメリカ人にはなれないのに、犯罪だけは、アメリカ並みになってしまった。なんでもっと悪質犯罪を厳罰に処さないんだろう。老後の生活のために、爪に火を点しながら蓄えた財産を奪う、老人に対する詐欺なんか五十年の刑に処すべきである。

それにしても野党はだらしがない。実力もないのに、政権を執ろうなんて、欲を出さず、徹底して野党になり切って、与党の不正を暴き続ければいい。そうすれば運転する時のブレーキペダルの役目を認められるではないか?ブレーキのない車には誰も乗らない。若者は暴走車を好むかも知れないが、年配者はゆったりした、しっかりブレーキの効いた安全な車に乗りたいのである。

これから益々高齢化が進む。その時、長くブレーキの役目を果たして来た野党こそに、この国の舵取りを任せてみたいという、ブームが起こるかもしれないではないか。ただ、あれはダメ、これはダメ、だけではいけない。国民の信頼を得ること、国民の負託に応えるだけの能力を蓄えること、が大事である。

それにしても、今の内閣の「嘘を押し通す姿勢」は良くない。巷では「嘘を認めたら死ぬ病」という言葉が流行っているそうである。我々が子供の頃は家でも学校でも「嘘つきは泥棒の始まり」と教わった。嘘吐きは犯罪の始まりであったはずであるが、国を管理、指導する者たちが公然と嘘を言って、頑として認めようとしない。

昔から、「嘘も方便」という言葉も確かにある。しかし、それは嘘を言わざるを得ないその先に、相手に対する思いやりとか惻隠の情とか、善意の何かがある場合にこそ、使われることが多い。しかし、今の官邸やその周辺者の嘘は、「嘘も方便」という誰かに対する善意の使い方ではなく、ただの自己弁護のための嘘にしか聞こえない。日本はいつからこんなに堕落した国になったのか?



▼運動部出身者は、就職する時、一般の人に比べて、就職が決まりやすい。理由は簡単で、即戦力になりやすいのである。その会社の気風に馴染みやすい。空気がすぐ読めるなどがあげられる。いわゆる、上司から見たら好青年に見えるのである。

日大のアメフト部は、究極の時代遅れ、異常な独裁、縛りつけることで監督の自己満足、という学生を奴隷的に扱っていたことが発覚し、問題外であるかのようなイメージに映ってしまったが、運動部出身者は、最低限の常識的な上下関係のあり方、目上の人への接し方等をスポーツを通じて学んできてるので、会社としては非常に使い安いのである。

ところが、学校でそういう教育を学んでいない、家でも甘やかされて育ってきた者に、いきなり会社の方針や教育を指導しようものなら、「何なの?、何で会社にそんなことが必要なの?俺はそんなの学ぶためにこの会社に勤めたんじゃない」とか騒ぎ出して、秩序を乱し、直ぐに辞めていくのである。

とにかく叱られたことがないので、注意されたことに異常反応してしまうのである。だから男には、子供の頃、ガキ大将がいて、多少の矛盾に有無を言わせぬ、「腕力の強さこそ上下関係の基本」というあの理不尽さを、知ることも大切なのである。過度の暴力はいけないが、男には一定の「徴兵制教育」か、「体育会系教育」か、「自衛隊学校教育」か、「警察学校教育」か、みたいな教育は、社会に出る前の二年間ぐらいは、必要なのである。

今回の日大アメフト問題は、学生教育というより、監督や理事長が自分の名誉のため、地位保全のため、金のために、学生が意見も言えないように作り上げたロボット集団であることが露呈した。しかも今持って、あの危険タックルを宮川選手個人が自身の判断でやったと言い逃れているのであるから、あきれて物が言えない。

大学側も学生を守るのではなく、理事長を護るのに必死で、ちゃらんぽらんな謝罪会見しかしていない。遣ること為すこと後手後手である。理事長一人を守る為に、学生も教職員もどうでもいいのである。出来立ての三流、四流大学なら、それもよかろう。いや、よくはないが、たまにある。 しかし日本大学は来年創立百三十年を迎える私立大学の雄である。国から貰う助成金でも私学最大である。余りに能天気な対応に社会は怒っているのであるが、肝心の執行部に反省が見られない。ただ救われるのは、この問題を切っ掛けに、教職員や学生が呪縛から解き放たれて、目が覚めたことはよかった。

 

それでも、まだ半分以上は呪縛から解き放たれたとは言えまい。執行部もそっくり入れ替えなければ、執行部そのものが呪縛にかかっているのである。今の日大は部外者も含めて、たった数人の男たち(女もいる)に操られているのである。

あまりに利権を独り占めしたので、もう田中理事長夫婦を支持する者は少数派であろう。社会が見守ってくれてる今、ここで立ちあがら無ければ、この闇がブラックホールにさえなり得る危険性もある。支える人がいて、従う人がいて、初めて理事長の資格はあろう。

学校法人であるにもかかわらず、暴力団との交遊を教職員に見せつけ、学内に発生する事業の数々を独占して知人に発注し、その見返りで財を隠匿し、その矛盾に疑問を持つ教職員に対しては、ある時は暴力、ある時は左遷で畏怖させ、その情報を嗅ぎつけたマスコミに対しては、恫喝訴訟で黙らせたり、金銭的解決で黙らせたり、してきたのである。今回はその手法が通じなかったのである。



▼僭越ながら、この度本を出すことになりました。私自身が直接筆を執り、記事を書いてきた敬天ブログを纏めたものですが、元々筆力のない私が書いたものですから、どれだけ読者の皆様の心を打つかは自信がありません。ただ今回は余りに驕り高ぶった日大執行部の態度が、余りに社会と乖離していて、このままこれを放置すれば、二度と戦いを挑むチャンスは現れないので、ぜひ真実を世間に訴えてほしいと、日大関係者に強く懇願されたのが、切っ掛けでした。

背後にいる大組織暴力集団、周囲にいる一流弁護士軍団、これらが怖くて声を挙げられなかった教職員やOB。そんな怪物のような田中理事長向かって、礫(つぶて)を投げるのである。

さて、タイトルを何とするか?、なかなかいい案が浮かばない。本の場合、表紙だけでは、中に何が書いてあるかわからない。タイトルで中身を想像させる。そういう意味では、興味を引くタイトルは重要である。そこで語彙力のあるA氏に尋ねてみた。A氏の返事は「私の好みは、短くてパンチ力のある言葉ですね」ということだった。 なるほど。確かに説得力がある。そこで私が考えた、短くてパンチ力のある言葉は、「止(とど)め」、「相打ち」、「礫(つぶて)」、「歌舞伎者(かぶきもん)」だった。「止め」を考えたのは、この本を出すことで、相手にとどめを刺すという意味だった。

「相打ち」は、相打ちに持ち込めば、相手を今の立場から引き摺り下ろせるという覚悟だった。「礫」は、相手に小石を投げるという意味である。「かぶきもん」は、世間から見たら、所詮変わり者ぐらいにしか見えないんだろうなー、と思ったからである。

だがそれでは、中身が見えない。意味もなく闇雲に巨象に向かっていく、野良犬の姿にしか見えない。それでは、共感を得ることはできまい。しかも、私が本を出そうと決意した真実とも程遠い。

私が訴えたかったのは、教職員の皆さんが怪物と恐れている見えない正体を暴くこと。実態が見えれば、同じ人間であり、恐るるに足りないことがわかるはずである。 幽霊の正体見たり枯れ尾花、です。田中理事長も経営者として優秀な部分も、勿論あります。特にスポーツ分野では、日大に相当な貢献もしてきたでしょう。だが、今の一強体制は酷過ぎます。 大学に関係ない夫人の意見が理事会の発言より強かったり、夫人が推薦する者は大学に正職員で採用されたり、そのことに異議を申せば、左遷されたり首になったり、大学の私物化がひどすぎます。今回のアメフト対応で分かったことであるが、大学の顔である学長でさえ傀儡のように見えてしまっている。それに、社会との常識のかい離が酷過ぎるのである。 あれだけ社会から批判を受けているにも拘わらず、一向に謝罪しようとしないし、会見さえもしない。ただ通り過ごして、ひたすら風化を待つ作戦が、今回も通用すると思っているようである。時代や環境が全く読めていないのである。そのために、今まで見えなかった矛盾が露見してしまった。

しかし、その状況を理事長だけが未だに理解できてないのである。周りはそれを知っているのだが、誰も進言しようとしない。その為に、裸の王様になってしまっているのである。

それなら誰もできない助言・進言を私がするしかあるまいと、本の出版を思い立った次第である。これから立ち上がろうとする人たちの勇気の一助になれば幸いである。

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