敬天新聞9月号 社主の独り言(甘辛)

(敬天新聞 平成 30年9月号 4面)


▼肉食動物の最大の武器と言ったら、牙(歯)と爪であろう。稀に蛇のように、絞め殺して飲み込むというのもいるが、蛇とて最初は一噛みして毒で相手にダメージを与えるわけだから、やはり同じである。

もしライオンや虎でさえ、歯がなくて爪がなかったら、そんなに怖くないのではないか?だいたい歯がなかったら、肉を噛み切れなくなるわけだから、肉食獣と言うのが森の中に存在しなくなる可能性さえあるのではないか。もし馬とか牛とかが、ライオンに襲われて噛まれても、モグモグしてるだけでは、「マッサージを有難う」ぐらいにしか感じないのではないか。

人間は知恵があって、どんどん寿命が延びている。しかも寿命に合わせるように、体の色んな部所の改革も整えられている。歯が無くなっても入れ歯があるから、柔らかいものなら食べられる。

しかし、自然に生きるライオンや虎はそういうわけにはいかない。長生きしたライオンで歯が全部抜け、爪が折れてしまったら、どうやってエサを取るんだろう。仮に家族でエサを取ってきてあげても、噛み切れないだろうから、ただ飲み込むしかないだろう。

それなら胃もたれが起きるだろう。それでも生きて、今度は老化からくる腰痛や痺れが待ってるだろう。やがて認知症になって、家族にも迷惑をかけるようになる。また、歯が無くて、認知症で、腰痛や痺れを持ってる虎に出会っても、草原の動物たちも恐れまい。

やはりあまりに自然を超えて生きることに執着するのも善し悪しのようである。今は遺伝子が自由に作られる時代である。野菜では、良いとこ取りで自由に遺伝子が組み換えられ、出荷されている。食肉などでも、作られている。医学の世界では人間にも使用されているらしいから、遠からず自然体ではない「良いとこ取り人間」が出来て来るだろう。

そうなれば、百メートルを五秒で走る人間や三メートルもジャンプする人間、砲丸を百メートルも投げる者も現れるかもしれない。これでは、遠からずオリンピックは意味がなくなるということになる。やはり、全てにほどほどが一番いいのである。

西方浄土からお迎えが来たら、迷わずお出かけする。何年生きても、全てをやり遂げたようでも、その時がくれば、誰でも必ず未練は残る。未練の元は欲である。最期は全てが無になる。空になる。欲に塗れて財宝を残しても、争いの火種を残すだけで、誰のためにもならない。

老兵は去るのみ。男は雄。牙や爪があるうちが花である。今日勝つ自信がなくなったら、黙って去ればいい。黙ってペンを置けばいい。 だが、世間にはまだまだ言わなきゃならない不条理が山ほどある。

今騒がれてる日大アメフト問題も然りである。やっとみんなが声を出せるようになった。暴力団との癒着は知っているが、怖くて言えない。勇気を出して言うと左遷される。その不条理を守る弁護士軍団が居る。それらには大学から金が払われる。警察沙汰になる事件も国税の査察ももみ消してしまう実力もある。文科省も指導できない。

そんな闇に戦いを挑み続けてきた。決着をつけるために、歌舞伎者が巨象に礫を投げてみたのである。「立ち上がれ日大マン!」。



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▼漫画で「かりあげクン」という漫画がある。植田まさしさんの漫画である。かりあげクンは優しくてほのぼのとした漫画である。もう何十年も続いている漫画であるが、あんな頭は誰もしないと言うような頭であったが、今一部で大流行のようであるから、植田まさしさんは、先見の明があったということだろう。

我々が子供の頃は、子供は殆ど坊主だった。金が無いから、親がバリカンで刈っていたからである。床屋さんのように上手じゃないから、デコボコしてて、そういうのを「虎刈り」と言って、子供心に恥ずかしかった。

女性でさえも、母親が適当に髪を切ってオカッパにしていた。しかし今は、わざわざ虎刈りにしたり、横と後ろの下の方をバリカンで刈って、上の方にだけ髪を残した、かりあげクンカットが一部で流行っているようである。全くカッコいいようには見えないが、本人たちにはカッコいいみたいである。それも少し不良っぽい者たちがそういう格好を好んでいるようである。

若い子が流行に敏感で真似をするのは構わないが、良い大人が流行に敏感なのも如何なものかである。都会だけでなく、田舎でも、結構かりあげクンヘアーを見るようになった。

女子高校生のスカートの丈が時代によって、短くなったり、長くなったりするのは何となく理解はできるが、男が流行に左右されるのは、あまり良い傾向ではない。女は美の争いが人生の勝ち負けに直結するところはあるが、男は最終的には力の表現である。

芸能人のように、パフォーマンスをビジネスにしている者ならいざ知らず、サラリーマンや公務員まで芸能人化しているのである。正邪が時代によって変わったり、正義が敵国とは真逆であったりとか、時代が変わったり、移ったりすることで、人の心も変わるのである。

いや人の心だけは変わらないのかもしれない。子供の頃身に着いた感情や性格や生き方など、ちっとも変っていない。成長するにつけ、知識や経験が少し増えただけである。

今でもたまに思うことだが、国語と算数は世の中を生きて行く上で、不可欠な要素であるが、理科や社会や化学や物理は、どこで必要なのだろう?とか、思うことがある。

義務教育時代は一ランク下に見られる体育や音楽は、むしろ実社会では、非常に大切な要素になってくる。体育などは、老人社会では生死に影響する、食の次に大切なことである。

健康がタダではないことは、大人になって、いや老人になってこそ感じる有難さなのである。しかし、理科や社会や化学や物理を学んだことで、知識が広がり生活が豊かになるのである。またそれらを深く追及してくれた人たちのおかげで、車や船や電気製品が作られていったわけで、その恩恵を受けて生活が便利で楽しくなっているのである。

しかし、そういう物を使いこなせるのも、体が健康なうち。歳と共に体が自由に思うように動かなくなる。足が足の役目を果たさない、手が手の役目を果たさない、目が目の役目を果たさない、耳が耳の役目を果たさない。キミマロさんが言っていた、何十年振りの同窓会で会えば、病気の話、薬の話、病院の話、お墓の話なのである。

夏は、夏休みで故郷に帰る機会もあるし、終戦記念日、お盆とかあって、歴史やご先祖様を振り返る月でもある。ひと時の過去を走馬灯のように思いだす季節でもあるのである。



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▼一年振りに田舎に帰ったら、我が故郷「何もない原城」が、世界遺産登録になったために、観光客が訪れ、小さなてんやわんやになっていた。

文化の違う外国人観光客が多く、受け入れ態勢も整っていないため、整備はこれかららしい。今のところは地元に金が落ちるという雰囲気ではなく、ゴミだけが落ちて行くという雰囲気のようである。

過疎化が進んだ老人の町に観光客が押し寄せて、どういう未来になって行くのか心配である。これから如何にして、観光客が金を落としてくれるようにするのかは、行政の腕の見せどころだろう。地元民が潤って、行政も潤えば、過疎化の老老男女が元気になり、恋が芽生え、ひょっとすると子供が生まれるかも。

我々が子供の時の小学校の歌詞には「南小我ら八百の・・」と歌詞にあるように、小学校に八百人(他に町内に三つ小学校があった)が通っていた時代もあった。今は一つの小学校に纏まって百五十人だそうである。何とか、故郷に頑張って欲しい。

私は田舎に帰った時は、原城の麓にある真砂温泉を定宿にしている。お湯が豊富で、大きな湯船からいつも溢れさせてるところがいい。目の前は有明海で、時々トビウオが飛んでいる。平成新山の雲仙岳もはっきりと見える。

だいたい常連客が多いが、サウナに入るマナーが良いのには驚いた。サウナから出た後、水風呂に入る前に、必ず汗を一度流してから入り、またサウナに入る時、ちゃんと体から水分をふき取ってからサウナに入るのである。常連さんがそういう姿勢を見せれば、初めて入る人も自然と見習うだろう。文化の違う外国人も参考にするようになるだろう。

そこでだ。私の「ケツの穴洗えシリーズ」であるが、湯船に入る前に、しっかりシャワーを浴びて、でれば一度体を洗ってから、風呂に入る習慣を身に付けるべきである。

私の友人の永野君は見事なまでに、頭から爪先まで洗ってから、湯船に入るのである。私の観察、「尻の穴をしっかり洗ってから、湯船に入りなさい」が、まだ行き届いてない。遠慮しないで、脱衣室や浴室にはっきりと、「他の人が不愉快になりますので、お尻を洗ってから浴槽に入って下さい」と、書くべきなのである。

「言うは一時の恥ずかしい、言わぬは一生の恥ずかしい」である。失礼なことでもないし、恥ずかしいことでもない。浴槽を清潔に保つ秘訣でもあるし、衛生上にも必要な行為であるから、皆さんの健康を支える意味でも浴場経営者としての責任でもあると思う。いい習慣は一日も早く実行に移すべきである。公衆浴場のエチケットとして、習慣化させるべきである。

便秘の薬や下痢止めの薬、女性の生理用品の広告なんか、やはり初めの頃は違和感があったし、家族では見にくい習慣があったが、今では慣れて、当然のように普通になった。

温泉文化は世界で日本が一番進んでいる。リーダーになるべく日本人が、外国人から「不潔である」と思われるのは好ましいことではない。

口から入れることと、尻から出すことは表裏一体。見せることは好ましいことではないが、生きて行く上で、大切なことではあるので、忌み嫌うような風潮は避けたいものである。


「広告・全国の書店で買えます。」


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