敬天新聞10月号 社主の独り言(甘辛)

(敬天新聞 平成30年10月号 4面)


其の壱

▼私は敬天新聞社を創設以来、多くの不正な会社の実態を暴き、潰してきた。当然相手方は必死の抵抗を試み、裏からは暴力団に頼み、表からは警察・弁護士対応をしてくる。我々も記事にする時点では、それなりの感触を持って攻めるのであって、闇雲に記事にしてるのではない。

大体、何も悪いことをしてない一般の人を責めるわけがない。大小は別にして、何がしかの不正・不条理・疑惑があるから書けることであって、何もしてない人を虐めるほど暇はない。私の手法は、裏に大きな犯罪的不正行為が潜んでいるなら、敢えて名誉棄損も受けて立つしかない、という考えであるから、相手方からはよく訴えられるのである。

先日も不正記事を書いてる相手の不倫記事を書いたら、名誉棄損で訴えられた。不倫は周囲が認めている事実である。事実であっても、プライバシーの話だから、プライバシー保護が優先されるのである。そう考えれば、週刊誌の不倫記事は、名誉棄損で訴えられたら全て週刊誌側が負けるのである。

では何故有名人は不倫記事を書かれて、訴えないかというと、訴えればより注目を浴びることになるし、火に油を注ぐ結果になりかねないからである。それに不倫は社会にバッシングされやすい。不倫というぐらいだから、どちらかに或いは両者に婚姻関係者がいる場合だから、言い訳がしにくい。だから、お互いの相手に謝ることにも拘わらず、なぜか社会に向けて謝罪するのである。

不正を行う者が、男女だった場合、仕事先の関係であろうが、上司部下の関係であろうが、だいたい肉体的関係はある。理由は簡単である。まず利害関係が一致する、目的が一緒、一緒に居る時間が長い、等が考えられる。

しかし、そのことを書けば、待ってましたとばかり訴えてくるのである。名誉棄損で煙幕を張るのである。私は名誉棄損と裏に隠れている大きな不正とをセットで考え、隠れている不正のほうが名誉棄損よりも大きければ、それを暴くために敢えて実名報道する手法を採っている。そのスタイルで多くの不正を暴いてきた。一部上場会社を潰したこともある。しかし、裁判では名誉棄損で判決がでる。

弊紙の暴露で相手の不正がわかり、相手に刑事罰が下ったり、脱税の事実がわかったりしても、それはそれ、これはこれで、名誉棄損罪は別物として成立するのである。日本の法律だから従うより他はないが、悪党と対峙するには、このくらいの覚悟がなくては戦っていけないのである。

自分は隠れて、相手だけを責めるのは卑怯である。相手を叩く以上、自分も名を名乗り、正面から戦うのが正しい戦い方である。肉を切らして骨を断つ戦法である。

弊紙は、詐欺師に騙された人達から見れば頼りになる存在かもしれないが、詐欺をする側から見たら憎たらしい存在になるわけで、私を「反社」と評価して訴えた方が、世間の目を欺けるのであろう。殊更に「反社」と強調して、裁判に臨む弁護士もいる。そんな手法を取られても、別に驚きはしない。不正の事実を暴けて、世間という裁判の中での評価で勝てれば、個人の裁判で負けても、元より覚悟の上である。

だから誰かが話をした時、「誰が話した」からではなく、「何を話しているか」という内容に耳を傾ける習慣を身に着けて欲しいのである。得てして権力者や不正を暴かれたような者は、内容を否定するためや隠すために、発言した者を否定の対象に選ぶ場合が多いのである。



其の弐

▼宗教に名を借りた詐欺も多発している。しかし、入会した人は騙されたという感覚はないみたいである。宗教は一種の洗脳だから、仕方がない面もある。たとえば、各国によって誕生の歴史も違えば、地球の誕生、生物の誕生、人の誕生というのも、捉え方が違う。

それを世界基準の統一にするために、西暦と言うのがあるがこれはキリストの誕生日を元年としてある。当時、世界をリードしていた国がキリスト系であったのだろう。それは良いとして、矛盾もある。地球誕生については、アダムとイブ説からスタートしている。

一般的には、微生物からの進化論が信じられている。キリスト教の人は、本当にアダムとイブ説を信じているのだろうか? 「進化論など愚の骨頂」と思っているのだろうか? 我々だって、子供の時に学校でそう習ったから、そう信じてるだけで、ああ習えばああと信じたかもしれない。科学的に証明されることが、一番信じやすくはあるが、科学で証明されないことも、この世には幾らでもある。

人は長く生きても百年なのに、それにボケて来るから、記憶も定かでない。誰かの日記が見つかったからと言っても、その人の感性で物を書いてるから、事実とか真実とは限ら無い。真反対の考えを持つ人もいるではないか。役所が書いた公文書と言われるものでさえ、書いた人によっては、その時の都合で、改ざん、隠蔽、削除など、時の権力者に忖度したり、自分の偏見で書いたことも十分考えられる。

それらを資料だとして、信じているのかもしれない。また科学的と言っても、光の速さ(一光年は光が一年間で進む距離で、約九兆四千六百億キロメートルだそうである。全くわからない。)で行っても百億光年もかかる様な遠い所にある星のことの真実がわかるわけがない。赤ちゃんの時飛行機に乗って、一度も降りずに爺さんなって死ぬまで乗り続けても、まだ届かないのである。こういうわからないことにも、無理やり理屈をつけていくことが宗教にはある。

我々は宗教といえば、熱心にお参りすること、教祖様の教えを守ること、先祖との交流を持つ場所、生活を豊かにしてくれるところ、心の安寧を持たせてくれる場所、等思っている。新興宗教はそれに、仲間との繁栄、仲間との交流、仲間との助け合い、が強調されてるものが目立つ。要は経済的支援のための宗教である。「歌ったり、踊ったり、楽しんだりする宗教」があってもいいじゃないかという意見である。本人が納得すればそれもいいのかもしれない。

しかし、新興宗教の中には家族を誹謗中傷することによって、孤独感を煽り、入会を勧める団体も少なくない。また宗教に名を借りた詐欺、宗教擬きも多い。宗教も認可制だが、一度認可すると、実際の活動が、宗教とほど遠くても、取り消すことをしないのが、現実である。経済活動をするために、宗教法人を売買する者もいるし、隠れ蓑にする者もいる。歌って、踊って、食事会をしながら会員を集め、経済行為が主たる目的でいながら、宗教法人を名乗るのである。

表向きはボランティアや人助けを誇張する。有力政治家に多額の寄付をしながら、行政の指導を捻じ曲げていく。こういった不正を暴けないのが実態である。宗教というのは、人の心の奥深くに入り込んでいくものだから、一度入信したら、おいそれとは崩れない。

政治で戦争になっても一時的であるが、宗教戦争というものは何千年と続く。怨念が永遠に消えないのである。日本人の穏やかな宗教観が世界を救う時がくるのではないか。



其の参

▼この号が読者の皆さんに配られる頃は、秋本番で稲穂やススキが至るところに目に入る風景になっていることでしょう。しかし、今年は四十度前後の酷暑が日本中のあちこちで見られ、台風、大雨、地震と近年にない災害に見舞われた。

十年前だか二十年前だか、将来は温暖化になる、南極の氷が解ける、とか言われていたが、確実にそういう傾向が出て来ている。しかし我々凡人は、たとえ見通しを説明されても、その現実を経験しないと、理解できないのである。そこで凡人の一句「爺婆の恋をするにも金が要る。ミエをハッタリ、シップを張ったり」。今宵はこの辺から始めたいと思います。

先月号の続きであるが、今年も田舎に墓参りに帰省した。先祖供養は自分を振り返る機会にもなるので、無くしてはならない大切な文化の一つであるが、今は「自分が一番」の時代だから、先祖を供養するという「墓参り」をする人も減っている。子供の頃、人の活気で溢れていた町も、空き家ばかりで、人と出会うのも稀である。

何とか故郷には伝統を守って、存続してもらいたいものである。田舎に帰るといつも会いに来てくれる人達がいる。高校時代の一つ下の女性陣である。リーダーは千賀ちゃんである。千賀ちゃんはいつも男下駄を履いてるが、最近は転ぶらしく運動靴になっていた。

相棒が飯田君と安藤君である。三人とも殆ど中性だが、安藤君が辛うじて女としての雰囲気を醸し出している。飯田君は私の胴回りぐらいある太ももが魅力的である。妹さんには常に「姉ちゃん、もちょこっと、落ち着かんね」と言われ、何を歌ってもワンパターンの踊りも魅力的で、斜め左に、左手を上げ、握ったマイクの右手も少し左斜めに上げて、顔も左手指先を見つめる感じで歌う、「あんこ椿は恋の花」は、何回見ても笑える、飯田君の十八番である。若い頃は、ポチャッとして可愛い人だった。

今はどてっとして、「大きく鼻から息を吸って〜、はい、静かに尻から息を吐いて〜」と、場を賑わすのが得意の人である。因みに今は八十キロを超えたそうである。コンビの安藤君は腰回りが相当増えた感はあったが、相変わらず「芋煮える夫人」としての所作は名取り級で、田舎のエンターテイメンターの二人である。

今回初めて知ったが、モモちゃんという女性(アムールのよく笑う歌手)が凄い特技を持ってることを知った。何と飛んでる蝿を、両手でいとも簡単に捕まえたのだ。

いつも座る席が決まっていて、私の左側に千賀ちゃん、右側に安藤君、向かい側に飯田君、その横でモモちゃんが酒を作ってくれる。美千代ママは、決して傍には来ない。想い人がいるのか、とにかく隙を見せない。身持ちの固い人である。

十八歳から勤め今三十九歳という女性もいる。ママの面倒見がいいのだろう。五十年も続いた理由が何となくわかる気がする。

固い記事ばかりでは、面白くなかろうと、敢えて数少ない女性記事を書いたりするのであるが、「俺の教え子なんだから古典の話ば書け。日本の伝統文化の話ば書け」と叱られるのである。ところが、たまには甘い記事が楽しいという人も意外と多いのである。そこで敬天ブログのように、生々しい現実の話は避けて、社主の独り言は、一服の清涼剤を意識しているのである。

ところで、安倍総理の続投が決まった。ぜひ憲法改正には着手してもらいたい。理想の改正には恐らく五回、十回の改正を経なければ、到達しないだろう。先ずは一行でもいいから、日本人の手で、日本人の為になる改正の第一歩が必要である。最初の扉が一度開けば、変化を嫌う国民も、「水は只じゃない、平和は只じゃない」という現実社会を認識し、必要性を理解するようになるのではないだろうか? 池田先生、今宵はこの辺でよろしいでしょうか?


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