敬天新聞11月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 平成30年11月号 4面)


現在の大相撲に神事という魂が入っているのかどうかは知らないが、白鵬の相撲をみていると、横綱相撲の受けて立つ潔さが全く見られない。稀勢の里が日馬富士にふっ飛ばされて、その後に精鋭がないのは、見ての通りである。

稀勢の里は相手を捕まえてしまえば強いのかもしれないが、最初の立ちあがりに迫力がない。ぼーっと立ちあがる癖がある。あれは横綱として受けて立っているのではなく、単に動きが遅いのと気迫が足りないのである。土俵に上がった時点で、試合は始まってるわけだから、仕切りに入ったら、相手がいつ突っ込んで来るかわからないんだから、受けて立つ覚悟は常に持っておく必要がある。

況してや相手は、体は小さくとも同じ横綱である。小さくて横綱ということは、技術的には寧ろ稀勢の里を上回るということである。あの時は、明らかに気迫で上回っていた。

受けて立つという姿勢は、貫禄として横綱には必要である。しかし、ぼーっとして立つとか、遅れて立つとか、気迫がない立ち方とかと、受けて立つは全く動作が違う。

受けて立つとは、いつ相手が仕掛けて来ても、それに対応する準備を心と体との両方で常に持ちながらも、そういう態度は微塵も見せないで、相手が出た瞬間、動きは後のように見えるが、対応可能な態勢を作ることである。

横綱の貫禄・強さは「後の先」の動きでなければならないのである。稀勢の里の動きは「後の後」に見える。しかも、立ち合いが遅く、気迫にに欠ける。だから土俵下までふっ飛ばされるのである。勝負が着くまで気を抜いては行けないのである。

本当は違反であるが、勝負があった後にとどめで押して来る者もいるし、勢いで土俵下まで落ちる者もいる。気合が入ったまま、土俵下に落ちてもケガはしないが、気を抜いていたら大怪我をするのである。

久々の日本人横綱だったから、世間も相撲界も大目に見守ってくれたが、二度目はないだろうから、立ち合いに気合を入れて立つことさえ忘れなければ、大横綱になれる素質はあるのだから頑張ってほしい。

これと対照的に見苦しい立ち合いをするのが、白鵬である。朝青龍が横綱の時、乱暴な横綱としてイメージが強かったので、大鵬にイメージの似た白鵬は、正攻法の横綱として人気が高かった。日本人好みの言葉を多用することも人気の秘密だった。ところが、優勝記録を更新する頃から、勝ちに拘り過ぎるようになったのか、立ち合いに横綱らしからぬ卑怯さがでてきた。

張り手、ひじ打ち、変わり身、苦肉の策なら理解もされようが、いずれも横綱として、あまりに品格がない。おまけに行事が負けと決定を出してるのに、納得がいかないと、土俵に上がらないとか、審判にアピールするとか。おそらく、今の相撲界で、親方衆も含めて、全ての実績で自分が一番上だから、誰も自分には意見を言えない、また、間違いに対しては自分には言う資格がある、という驕りがあるのだろう。

日馬富士の暴行問題も、白鵬にも十分責任はあった。おそらく運もいいし、世渡り上手でもあるんだろう。伝統を受け継ぎ守って行くということは、矛盾や不条理もその中には入っており、それはあからさまにできないもの、してはいけないものも含まれているのだろう。神事でさえ同じことがいえるのかもしれない。



▼我々が子供の頃、田舎に水道はまだ無くて、殆どのうちでは井戸からバケツで汲み上げていた。金持ちの家ではポンプで汲み上げるところもあれば、滑車を使ったバケツもあったが、大抵はヒモ(ロープ)の付いたバケツを井戸に投げ込み、そのバケツに水を入れて引き上げるのである。

たまに手が滑ってヒモを落としてしまって、親に怒られたこともある。こういう力仕事は男の仕事で、台所の片付けや掃除などが女性の仕事だった。貧しかったから当たり前のように、家の仕事を手伝っていたのか、時代の必要性がそのような教育をしたのかわからないが、今は便利過ぎて、親の手伝いをしようにもやることがないのである。

水道をひねれば必要な水は幾らでも出る。必要に応じて、熱いお湯も冷たい水も飲める。洗濯も掃除もロボット(自動化)がやってくれる。但し、水道にも電気にも金はかかる。教育や道徳や義理や人情よりも、金が優先する世の中になってしまったのである。

子供の頃は水と平和は只だと思っていた。まさか金を払って水を飲むとは思わなかった。水道にお金を払うのは当然である。バケツで井戸から水を汲む労働力に比べて、いつでも使える便利さ安全さを考えれば、一番安い尊い恵である。

しかし、今では殆どの家で、掃除、洗い物、風呂の水に使われるのが水道水で、飲み水はミネラルウォーターである。こうして考えれば、水道代や電気代というのは、労働対価、便利さ対価、有り難さ対価である。それに感謝代金や喜び代金まで加えていいのではないか、と思う。

ここまで便利になった時代に、自分たちが育った時代の価値観を押し付けるというのは、無理というもの。だから、昭和時代には当たり前のように行われていた言動が、今ではすべてパワハラに当たるのである。心配なのは今後である。便利さは、これから益々発達するだろう。

人は全てをボタン一つで操作し、何でも手に入る。しかしその分金もかかる。金儲けに長けてる人が楽をして、金儲けが下手な人は取り残されるだろう。金儲け以外の教育はお座なりになるだろう。日本が世界に認められている公衆道徳も軽視されていくのではないか?スポーツもプロのあるスポーツだけが残り、アマチュアスポーツは同好会のように下火になろう。

しかし、多種多様な考え、生き方が尊重され過ぎて、義務と権利のバランスが崩れた時、嫌われ仕事や汚れた仕事は誰がやるのだろう? 只と思って来た井戸の水も、本当は自然界からの贈り物であって、そのことを忘れてしまっている傲慢になった人間に対する罰則が災害なのかもしれない。

水は水道から出るよりも、井戸を掘って、バケツで汲み、目的地まで運んで、労力を惜しまないで使用する方が、有り難く感謝の気持ちを忘れないのかもしれない。動物は命を賭けて水飲み場に現れる。何千年も前から、少しも変わらず繰り返している。人間だけが、自然に逆らい生きている。いずれ自然さえ克服すると宣うている。そんな大それた時代がくるのだろうか?

いや、それよりも前に、驕り高ぶった傲慢な人間社会には、いずれ取り返しのつかない天罰が下るのではないか? 最近つくづくとそう考えるのである。そういう時代は見ないまま、生涯を終わりたいものである。



▼テレビを見ていると、毎日どのチャンネルでも殺人事件解決ドラマがある。解決する人は、警察であったり、検事であったり、弁護士であったり、様々であるが、これだけ殺人事件解決ドラマがあるということは、人は推理し解決することが好きなのだろうか? しかし、ドラマの中では、いとも簡単に人が殺されていく。

本当は殺す犯人の姿を見て、自分に出来ない欲望を満足させてるのではないだろうか? と思うことがある。現実にはそんなに簡単には人を殺せない。人を殺せば、その後の人生は真っ暗闇になってしまうからである。

しかし、本来の人の欲望の中に、人を殺す(征服する)本能みたいなものがあるのかもしれない。その証拠に自分の好きな動物に対しては、「動物保護」と言って愛情を持つが、嫌いな生物は平気で殺してしまう残忍さも持ち合わせている。

蚊や蝿やゴキブリ、ねずみ等。彼らにだって生存権はあるだろう。牛や豚や羊などは、人の食物として飼われている。魚も食物連鎖の最たるものである。しかし、イルカやクジラになると、捕獲を反対する国も多い。

真剣に人生とは何かと考えだしたら、誰も答えられなくなるだろう。それで人は、宗教や哲学と言う、常識では考えられない、答えられないような世界に人を導くのではないか? そして、神様、仏様、キリスト様、阿弥陀様と言うような方の言葉に変えて、納得や説得を試みるのではないのか? 自分たちに都合がいいように。

戦争は嫌いだ、世の中で最もよくないこと、とは世界中の誰もがいう言葉。特に政治を司る者たちは誰もが好んで使う言葉である。にも拘らず、いろんな場所で戦争は現実に起こっており、外交で自国の思う通りの結果が出なければ、武力を誇示し、その強さを競い合うのである。

そしてすべての悪を負けた方に押し付け、その責任も賠償も追及し人格さえも否定してしまうのである。勝者はすべてを総取りするのである。食物連鎖の中の弱肉強食と同じである。動物たちの中で食物連鎖として、弱者を襲う動物が、襲う瞬間に「申し訳ない」と思って襲い、殺し、食するだろうか? 最初から餌として襲っているのである。もちろん間違って返り討ちに遭うこともある。人間は先や後に屁理屈や言い訳をくっ付けはするが、本音は動物の本心と一緒ではないだろうか? 時代劇ドラマで主役が悪者連中をバッタバッタと切り倒していく姿は爽快で胸がすく。思わず声まで出てしまう。何回見ても飽きないのである。

しかも見てる側は、主役とその周辺者の生活ばかりに目を奪われ、その他一同の殺される人たちの人生は振り返らない。ドラマの飾りで出てくる町人や通りすがりの人にもライトスポットは当たらない。あのバッタバッタと斬られる人たちにも、町人にも、通りすがりの人にも家族はいるし、ドラマがある。

しかも世の中では、その他一同と言われる人たちが圧倒的に多い。本当は、その、その他一同と言われる人たちが幸せだと思う社会が一番理想の社会だろうけど、あちらが立てばこちらが立たず、というのが現実だから、皆が平等に幸せという世の中の実現は非常に難しいのである。子供には教育上、本音では語れないが、世の中は矛盾だらけなのである。そしてその矛盾に対して、如何に整合性を持たせるかというのが、大人の世界なのである。唱えれば傍におられるお釈迦さま。


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