敬天新聞12月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 平成30年12月号 4面)



▼例えば弊紙が詐欺不正疑惑記事を書く時、一つの目標は、如何にその不正業者に対して、監督官庁の指導を受けさせることができるかである。

行政が動くには時間がかかる。疑惑を受けた側も必死に抵抗する。事実無根の名誉棄損から始まり、要するに、報道は全て嘘というしかない。

だいたいが疑惑発覚する頃は、報酬約束したことを守らない自転車操業に陥った時だから、早かれ遅かれ、潰れてしまうのである。しかし、こういうのを主宰するような奴は、元々が口の上手さが基本だから、ちょっと目を離すと、新しい商材を創り上げ直ぐに回復する可能性もあるから、定期的に報道する必要性があるのである。

厄介なのは、同じ不正疑惑でも、金を持ってる奴らである。金で強力な弁護団を雇い、行政の指導さえ跳ね返してしまうのである。中にはマスコミさえ、買収してしまう者もいる。被害者も、欲に駆られて投資したこともあり、家族にも相談できないという人が、殆どである。そこを逆手に取られてずるずると二次被害、三次被害という人も少なくない。

弊紙は何十回、何百回と詐欺会社を糾弾してきたが、一向になくなる気配はない。詐欺をやる人間は決まっているんだから、再犯者には倍々の罰則を科せば、確実に犯罪は減るはずである。なんで、こんな簡単な理屈がわからないんだろうか?庶民を虐めて、騙して、困らして、満足感を得るような奴らがいるのは、事実である。被害者より加害者の人権を尊ぶ国がどこにあろうか。国民は犯罪者に対する厳罰を確実に望んでいるのである。本気で犯罪撲滅を望んでいるなら、厳罰以外にないのである。

テロ等準備罪(いつの間にか共謀罪になった)という、およそ日本の現実とかけ離れたような法律を作ら無くても、重要犯罪に限っては、阻止も含めて準備段階での逮捕も十分に理解される筈である。それより、権力者に対する忖度逮捕やその逆。或いは人によっての法律の恣意的解釈。このような法の下の不平等は、断じて行うべきではない。いつの頃から、日本はこんなに犯罪国家になったのか、何が原因でこんなに犯罪が増えるようになったのだろうか?

個人主義、人権主義に対する過大配慮、一方で道徳心の欠如、先祖供養への軽視、大人の責任感からの逃避、誇りより金の重視、犯罪への嫌悪感の無さ、男に無くなった家族や国を守る責任感と逞しさと強さ、などが思い浮かぶ。

人によって、思いはまちまちであろう。しかし、女より男に責任があるのは間違いない。昔から、子育ては女性の仕事ではあったが、政治や国を動かしてきたのは男衆なのである。もちろん、その男を陰で操るような女傑もいるには居たが、基本的には世の中を動かして来たのは、男たちの仕事である。

発展途上国に行けば行くほど、男社会である。そういう意味では、女性の政治家が増えた方が、一事が万事、うまく行きそうであるが、女が政治を司っても、男社会を女が席巻しても、結局は女に髭が生え、丸みがかった体が筋肉質に変わり、権力を目指していく姿勢が男女入れ替わるに過ぎないだろう。

そうなれば、男はぽちゃっとなって、家庭を守り、ふにゃっとなるだけであろう。と考えれば、今の社会で、最善を考えるしかないのである。やはり全体的には政は男が司った方が上手くいくのである。それにしても政治家の質も落ちたなー。



▼オカマのバナナちゃんから演歌歌手がゲストで来るから顔を出してくれとメールがきた。平均七十五歳の爺婆が元気なこと。我先にと歌いまくり、旅役者の万札首飾りとまでは行かないが、それなりに御ひねりが飛び交うのである。

我々はテレビに出て歌ってる人を歌手と思ってるが、地方を回ってる歌手は沢山いるのである。テレビに出ることは、知名度を上げる小道具みたいなもので、テレビに出ることで金になってる人は一握りで、実際は地方回りで金は稼いでいるのである。

テレビで名前が売れれば、地方からお呼びがかかるし、出演料もアップするし、チップも増えるし、カラオケテープも売れるのである。今の芸能界は、結婚しました、妊娠しました、子供ができました、を売りにするような時代ですが、爺婆相手の地方では、まだまだ「独身」というのが受けるようである。

爺婆たちは、苦労して今日があるから、やはり演歌に自分の人生を重ね合わせるところがあって、苦労して頑張ってる歌手に、応援したくなるのである。たまに品のない酔っ払いがいても、軽くかわせる話術を身に着けていて、なかなか逞しい。

その日のゲストは北見恭子さんだった。山形県出身で、和服の似合う妙齢の女性である。「紅舟唄」というヒット曲を持つ女性である。今は「石に咲く花」という新曲に力を入れているそうである。作曲が岡千秋氏である。岡先生とは、六、七年前に徳之島で一献交わした思い出がある。タイトルが如何にも高齢の爺婆に受けそうなタイトルである。

「我慢して我慢して頑張って来たから、今の私がある。そして貴方が傍に居る」と言うような。 キミマロ風に言えば、「愛し愛され契りも固く、ずっと同じ方向を向いて手を取り合って来た貴方と私。あれから四十年。何をするにも意見が逆。『ああ、とそわしか。朝から晩まで隣でゴロゴロして、何処にでん遊びに行けばよかとに。今度生まれて来る時は、絶対一緒にゃならんよ』(妻)。『青森までわざわざ見に行かなくても見れる寝豚かな』(夫)」と、こうなる。

読者の皆さんの家では、どちらが現実か知らぬが、この店に来ている爺婆さんは、歌の上手い人が多い。感心するのは、一度練習すると、直ぐに歌えるところが凄い。この日も、北見さんが「石に咲く花」を一回見本に歌うと、直ぐに歌える人達がいるのである。

爺婆がまことに元気である。この健康で元気な爺婆を活用すると、日本も活性化するかもしれないと思った次第であるが、欠点もある。爺婆は先がない。それにどんなに恋愛をしても子供が生まれない。爺婆の恋には生産性がないのである。冥途の土産でしかないのである。

爺婆ついでに、もう一つ。私が住んでるさいたま市では、高齢者に対する福祉が進んでいて、爺婆専用健康ランドが幾つもある。わかりやすく言うと、体の悪い老人が通うデイケア(日帰り預かり所)のような所の健康版である。健康な爺婆が、一日中遊ぶような所である。

運動する器具、遊び器具、カラオケ、プール、お風呂、があり、六十歳以上の人は百円で一日中遊べる。色んな同好会(フラダンス・ヨガ・囲碁・将棋等)もあるようである。私はこういう輪の中に入っていけないので、気が向いた時に行っては、健康な爺婆の生態を観察して、いずれ迎える今後の人生の参考にしているのである。



▼今年も、あと一か月で終わりである。毎年恒例の「何も収穫の無かった一年」の終わりである。話だけは毎年色んな話が舞い込んで来るのだが、私が出不精故、ついついそのチャンスを見逃してしまうのである。世の中には、宝くじに当たった人とか、テニスの大阪なおみさんのような、とてつもない夢を実現した人もいるのに、あ〜なんと儚い人生なことか?

人生は割り切れないものである。矛盾だらけである。しかし、時には「割り切れた」と思う時もあるし、納得することもある。一万円を三人で分ける時、正確に分けようとすると、一円が残る。三人が心を許しあえるような関係なら、笑ってその一円を誰が受け取っても許しあえる。しかし世の中には、どうしてもあいつにだけは一円もやりたくないほど憎いやつとか、嫌いな奴とかがいるものである。それもそういう者が身近にいるから厄介なのである。

冷静に考えれば、そうでもないのに、なぜか馬が合わないという者がいる。割り切れないのである。こちらがそう思えば、当然向こうもそう思っている。今の日本と韓国の関係もそれに近い心境であろう。中国やロシアに対しても感覚は似ている。

人生は割り切れるもの、割り切れないもの、が混在している。生きていくために食しているのか、食するために生きているのか、さえもわからなくなる。

普段は世の中に対して、生きていられることに関して、あまり感謝をする人は少ない。水も平和も国からのサービスも、み〜んな只だと思っている。下手すれば親からの愛情さえ忘れていることも多い。

ところが突然の大病が見つかったり、大天災に遭遇すれば、そのような普段何とも思わなかった只と思っていたことが、実は全ての必然から成り立ち、誰かのお陰様で成り立ってることに気付くのである。何より親の深い愛情に気付くのである。

あと幾つ寝るとお正月? と楽しく迎えていた正月も、あと何回迎えられるのお正月? となってくると、益々寒さが身に沁みてくるのである。時代は百歳時代だそうである。

健康で迎えられるなら有り難い時代であるが、寝たきりや助けを借りなければ生きていけないなら、周囲に申し訳ない。PPK(ピンピンコロリ)を目指しましょう。因みに、寝たきりとか、看病生活の老後のことをNNK(ネンネンコロリ)と言うのだそうだ。

ところで健康寿命を保つ秘訣について先日お十夜でのお説教を聞かせて頂いたが、一、本をよく読む人(スマホをいじる人ではない)。二、色んな所へ出掛けて行って、会話を良くする人。三、独り暮らしの人。がベストスリーだそうである。

一と二は何となく理解できるが、三に関してはおやっと思う人が多いのではないだろうか? 夫婦だとか家族の中での生活に疲れている人が意外と多いのかもしれませんねー。

旦那が亡くなった後の奥さんって、そういえば結構長生きですなー。その逆は惨めだけど。イメージ的には、運動をよくして、サプリメントを沢山飲んで、用もないのに病院によく行くような人がベストスリーのような感じがあったけど、わからないもんですねー。

 人は人として生まれてきたことが、何よりも代えがたく有り難いことである。生産性があるとか無いとかは関係ない。生きてることが全て生産性なのである。

歩のはやさはそれぞれ、天上天下唯我独尊。


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