敬天新聞2月号 社主の独り言(甘辛)

(敬天新聞 平成31年2月号 4面)



▼例えば弊紙が詐欺不正疑惑記事を書く時、一つの目標は、如何にその不正業者に対して、監督官庁の指導を受けさせることができるかである。

行政が動くには時間がかかる。疑惑を受けた側も必死に抵抗する。事実無根の名誉棄損から始まり、要するに、報道は全て嘘というしかない。

だいたいが疑惑発覚する頃は、報酬約束したことを守らない自転車操業に陥った時だから、早かれ遅かれ、潰れてしまうのである。しかし、こういうのを主宰するような奴は、元々が口の上手さが基本だから、ちょっと目を離すと、新しい商材を創り上げ直ぐに回復する可能性もあるから、定期的に報道する必要性があるのである。

厄介なのは、同じ不正疑惑でも、金を持ってる奴らである。金で強力な弁護団を雇い、行政の指導さえ跳ね返してしまうのである。中にはマスコミさえ、買収してしまう者もいる。被害者も、欲に駆られて投資したこともあり、家族にも相談できないという人が、殆どである。そこを逆手に取られてずるずると二次被害、三次被害という人も少なくない。

弊紙は何十回、何百回と詐欺会社を糾弾してきたが、一向になくなる気配はない。詐欺をやる人間は決まっているんだから、再犯者には倍々の罰則を科せば、確実に犯罪は減るはずである。なんで、こんな簡単な理屈がわからないんだろうか?庶民を虐めて、騙して、困らして、満足感を得るような奴らがいるのは、事実である。被害者より加害者の人権を尊ぶ国がどこにあろうか。国民は犯罪者に対する厳罰を確実に望んでいるのである。本気で犯罪撲滅を望んでいるなら、厳罰以外にないのである。

テロ等準備罪(いつの間にか共謀罪になった)という、およそ日本の現実とかけ離れたような法律を作ら無くても、重要犯罪に限っては、阻止も含めて準備段階での逮捕も十分に理解される筈である。それより、権力者に対する忖度逮捕やその逆。或いは人によっての法律の恣意的解釈。このような法の下の不平等は、断じて行うべきではない。いつの頃から、日本はこんなに犯罪国家になったのか、何が原因でこんなに犯罪が増えるようになったのだろうか?

個人主義、人権主義に対する過大配慮、一方で道徳心の欠如、先祖供養への軽視、大人の責任感からの逃避、誇りより金の重視、犯罪への嫌悪感の無さ、男に無くなった家族や国を守る責任感と逞しさと強さ、などが思い浮かぶ。

人によって、思いはまちまちであろう。しかし、女より男に責任があるのは間違いない。昔から、子育ては女性の仕事ではあったが、政治や国を動かしてきたのは男衆なのである。もちろん、その男を陰で操るような女傑もいるには居たが、基本的には世の中を動かして来たのは、男たちの仕事である。

発展途上国に行けば行くほど、男社会である。そういう意味では、女性の政治家が増えた方が、一事が万事、うまく行きそうであるが、女が政治を司っても、男社会を女が席巻しても、結局は女に髭が生え、丸みがかった体が筋肉質に変わり、権力を目指していく姿勢が男女入れ替わるに過ぎないだろう。

そうなれば、男はぽちゃっとなって、家庭を守り、ふにゃっとなるだけであろう。と考えれば、今の社会で、最善を考えるしかないのである。やはり全体的には政は男が司った方が上手くいくのである。それにしても政治家の質も落ちたなー。



▼安倍総理の一強が今年も続くのだろうか? 前回の総理の時は、政権を投げ捨てて逃亡したような病弱でひ弱なイメージだったが、今回は図々しいくらいに逞しく見える。反安倍総理メディアは、持病の腹痛が必ず出ると宣うが、今のところそのような気配はない。国内でミスをしても、海外に行けば貫禄の外交で、必ず巻き返して帰国するのである。

最近は韓国が徴用工問題で、日本としては受け入れられない司法判決を出したり、自衛隊機に対しても失礼極まる対応をして、それを指摘されると、謝罪するどころか開き直って、日本に抗議する醜態を見せている。北朝鮮に「瀬取り」している現場のビデオを見せられ、国際的違反を晒されてかっこつかなくなって、抗議するより手がなくなった証拠である。

そんな時、過去の総理なら、謝らなくてもいいのに、植民地時代の批判を持ち出されては大変とばかり、すぐに謝罪したり、貢物をプレゼントしたりと、筋違いな解決を行ってきたのである。

その悪しき慣習を打ち破っているのが安倍総理なのである。そこが安倍総理の人気であり、一強の原因である。ただ、国内の景気が崩れて来たときに、普段は穏やかで物言わぬ国民が、どう変貌するかであろう。そういう意味では平成の時代は、ネット時代になって、一人一人が物を言う時代になった。

ただ、まだまだ自分の名前を名乗ってものを言う者は少ない。あくまでも顔を出さない発言である。逆に言えば本音と言えなくもない。裁判では採用されない意見であるが、世間の声といえば声であろう。そのネットを悪用することもできる。いかにも世間の声のように、多くのネットを買収して、都合のいい意見を発言させることである。

あと二か月経ったら新しい時代の名前が発表される。そしてその一か月後には、新しい時代が始まる。新しい時代になったら、是非とも名前を名乗れる国民を育てるべきである。

平成の三十年は、国民が金に振り回され、金に踊らされた時代ではなかったか? 昭和の時代にはまだ残っていた、大人としての誇り、責任感、けじめ等、そういったものが、確実になくなってきている。

特にこの十年、十五年は劣化がひどくなってきた。誰も責任を取らない世の中になってしまった。嘘もまかり通るようになった。難しい国家免許を持っていて、国民に尊敬されるような職業に就いているような先生方まで、テレビのバラエティーと言われる番組に出て、芸人と言われる者たちに、馬鹿にされて笑いを取ることが、人気があると勘違いしている世の中になってしまった。そのほうが本来の自分の職業より楽で、金も稼げるのであろう。

とにかく今は、テレビのバラエティー番組に出て、芸人にいじられることが、稼げる早道のようである。昔は芸能界の中でも一番下に見られていた芸もない芸人が、芸のある歌手や俳優より何十倍も稼ぐ存在なのだそうである。変われば変わるものである。そして政治に社会に物を言う芸能人が増えた。

昔は政治的な発言はNGだった。今は積極的に発言する。私生活も切り売りする。こういう現状についていくのも老兵の役目かもしれないし、時代に流されないで是は是、非は非と叫び続けるのも老兵の役目かもしれない。ついていけるかなー。



▼横綱稀勢の里が引退した。強い横綱になると思ったが残念である。日馬富士に土俵下まで吹っ飛ばされた怪我がすべての元である。ぼーっと受けるから、吹っ飛ばされたのである。相手は横綱であるわけだから、最高の技量を持っている。しかも貴ノ岩に対する暴行事件を見てもわかるように、気性も激しそうである。

一方稀勢の里は外見こそぶっきらぼうに見えるが、心が優しそうである。引退会見を見てて、心の優しさが溢れていた。一片の悔いもないと言っては見せたが、おそらく悔いだらけであったろう。

日馬富士との相撲は油断以外の何物でもない。やはりスポーツは、特に格闘技は、その勝負中は一瞬の油断もならないのである。気を抜いたから、あの結果になったのである。引退会見の翌日には、重圧から解放されたのか、晴れ晴れとしていたし、人のいい稀勢の里が丸見えだった。勝負師は気が強からないと勝てない。優しさは命取りになるのである。

日馬富士の暴行事件はやりすぎだった。武道の世界では仕方がない、上下関係を維持するにはある程度の体罰も仕方がない、という声もある。しかしそのある程度が問題であって、あの場合は度を越えてるのは明らかであった。関係者に聞くと、日馬富士は「酒乱」らしい。この癖は病気と同じで、酒を止めない限り治らない。

酒癖にも、泣く者、笑う者、怒る者、寝る者、とか色々あるが、突然意味もなく怒りだして、周りを不愉快にする癖を持つ者がいるのである。特に暴力性のある者はどうにもならない。日本では大スターであった力道山の酒癖の悪さが有名である。

同じ世代に、下駄履きスタイルで活躍した芳の里さんがいて、晩年私の会社の役員になって貰ったことがある。それで、力道山の話を聞いていたのだが、とにかく酒を飲んだら人物が変わり、酒を飲みほした後に、そのグラスをかみ砕いて食べてしまうのだそうだ。

それをいとも簡単にやり遂げ、それを部下に強要したらしい。みんな血だらけになって、コップをかじったという。それをできなかったら、容赦なくぶん殴っていたそうである。だから、力道山と酒を飲むのが嫌で嫌で仕方なかったそうである。

その力道山も東声会の町井会長の前でだけは、そういう態度を見せなかったという。酒乱と伝統と風習とは全く別物ではあるが、相撲界には、「江戸時代から受け継いだ上下関係の厳しい掟の伝統と風習を守る最後の担い手」、というような矜持が、根幹にあるのだろう。

相撲取りと言うのは、遠くから見ると、肥満児っぽく見えるが、とんでもない。あの一見贅肉に見える腹を金づちで叩いてみればいい。全く手ごたえがない感覚がわかるほど、跳ね返されるのである。太ももとか、尻とか筋肉の塊である。だから相撲取りは、世の女性に持てるのである。

練習中のしごきならともかく、ビール瓶での殴打、マイク、灰皿、三十発以上の平手打ちは、やはり酒乱がもたらした所作であるのは間違いない。こういうものも、マスコミがどこまで報道するかによって、世間の取り方が違ってくる。これが一般の会社であった出来事だったら、どうなるだろうか? 即逮捕である。

一方が日本人だったら、差別だ、ヘイトだという声も出て来たかもしれない。スポーツの世界も大様変わりが始まった。ともあれ、二人が手打ちをして一件落着したということは、しこりを残さずよかった。


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