敬天新聞6月号 社主の独り言(甘辛)

(敬天新聞 令和元年6月号 4面)



▼世の中は、全ての人が儲けるということにはならない。誰かが儲ければ、誰かが損をする理屈である。

何故そうなるのかわからない。資本主義理論で考えるのと、共産主義理論で考えるのとでも、答えは違って来ようが、とどのつまり、全ては人間の欲から来てるのではないだろうか? 無限に豊かな資源があって、それを永遠に平等に分け与えられたら、一見争いは無くなるように思えるが、恐らくそれでも、しばらくは不満は解消されようが、その満足に慣れてくると、今度は「能力が違うのに同じ分け前ではおかしい」とか、「同じ待遇ではおかしい」とかの、意見をいう者が出てくるのではないか。

おそらくどんなに人間が成長しても、本質的には動物の弱肉強食からくる食物連鎖という理論は不変なのではないか? それが自然の摂理なのであろう。

「泥棒にも三分の理」と言うぐらいだから、十人十色の考えがあって、そしてそれぞれに理もあると言うことである。それらが知恵を出し合って生きて行くのが社会であろうが、それを司るのは真に難しかろう。それを整理する方法として法律と言うのがあるが、実際には法律も金で買える部分もあるし、忖度もあるから、「法の下に平等」というのも、疑わしいと言わざるを得ない。

人間から欲が消えれば、もう少し世の中もうまく回ろうが、「健康な時ほど欲が強い」のが現実だから、やはり道徳的なもので欲望を抑えるしかないのである。それでも本能の中に煩悩が組み込まれているようだから、体が弱り、他人の手を借りなければ生きていけないような状態になって初めて煩悩も消えていくんだろうなー。要するに死ぬまで動物理論は消えないということだね。

いや、人間の欲は動物理論どころではない。動物は今必要な分だけを食料とするが、人間は食糧だけでなく、世の中のすべての物を欲しがり、それも独占したがる。そして無駄な産廃物を莫大に排出し、自分たちの首を絞めているのである。

そしてそういうものが無駄であるとか、結局は虚飾であるとか見栄でしかないことを知るようになるのは、死を悟るような状況になってからではないか。千年も万年も前から同じことを繰り返し、前例の確かな証拠である歴史にも学ばないのが人間であるから、「こっちの水が甘〜いぞ〜」と言われればこっちに群がり、「あっちの水が甘〜いぞ〜」と言われれば、あっちに群がるのである。

こういう平和な時代になれば、すべての人の意見が正しいということになる。しかし、それでは国としての統制は取れない。秩序も維持できなくなるだろう。どこも侵略して来ないという保証があればいいが、世界中のあちこちで、自分たちの思い通りにならないと、強国は相手国に無理難題を吹きかけてくる。言うことを聞かないと、戦争を仕掛けてくるのである。

いつ何時、日本にそのような国が現れるかもわからない。その時も黙って言われるままに、右の頬を殴られたら左の頬も差し出すのわけ? キリスト国家でもないのに。

いくら戦争放棄を謳っていても、我慢の限界を超えたら立ち上がるしかないだろう。その覚悟だけは持つ教育は必要だろう、特に男はね。そうでないと国や家族は誰が守るの」と言いながら、「できない我慢するのが我慢。恨みつらみの百万言は腹に収めてにっこり笑う。我慢男の我慢の前に壁は崩れる氷も解ける」と歌っています。サブちゃんです。



▼毎年行われている関東島原半島会に出席してきた。今年は七十一回目だそうである。最初の集まりは、長崎の平和記念像製作者として有名な北村西望先生や国会議員だった本多一郎先生たち数名の有志の集まりからのスタートだったらしい。

それにしても、七十年もよくも続いたものである。島原半島と言っても十八市町村からの集まりであるし、現実には島原市、南島原市、雲仙市の三市で成り立っているが、殆ど知らない人ばかりである。出席者の人も殆どが十八歳で上京してきた人だから、もう田舎に実家もないという人も多い。

何の集まりでもそうだが、年齢に差のある集まりというのは、運営が難しいものである。話題が合わないし、趣味、趣向が違うから、運営の仕方が難しい。それに初めての出席は物珍しく、心も弾むものであるが、内容がワンパターンであると同時に出席者も同じ顔触れになってしまうので、初顔の人は馴染み辛いのである。

それだけに幹事さんたちは大変である。回数を重ねるごとに集まりが減って行くのが常で、最終的には「老人会」になりかねないのである。それでも来れる人は元気だから来れるのであって、日々体調の変わる年齢になれば、明日は我が身の心境なのである。

この会の名誉顧問的立場の久間章生元初代防衛大臣とは、昨年の高校の同窓会以来だったが、昨年に比べて極端に足腰が弱っておられた。しかし、流石に出席される人は健康である。歳を聞いてびっくりする。

本多さんという方は、歌もうまいがその声量がすごい。歩き方も我々と全く変わらないし、その日も半蔵門から銀座まで歩いて二次会に行くとか言って外に出られた。なんと歳を聞いたら、九十一歳という。シャンソンが趣味だそうで、年に一度発表会にも参加されてるというから、何とも素晴らしい。

中には世界的特許を取得している人もいる。会長を務めている福田さんの印刷技術がすごい。見た目には点にしか見えないのだが、拡大鏡で見ると、しっかり字が見える。偽造防止印刷だそうである。それが特許だそうである。こういう集まりは、どちらかと言うと一線を退いた人の集まりに近いから、和気藹々が目的である。一方で政治家が主催する、或は参加する会は仕事に旺盛な人たちの集まりだから生臭い。世の中は人の集まりで形成されているから、時の流れによって権力者や人気者が変わり、それによって離合集散していくのである。またそれによって、運、不運を左右される人もいる。

「社主の独り言のファンです。切り抜いて、困ったり迷ったりした時に指針にしています」という方にも出会った。考え方、物の捉え方、感じ方は人それぞれに違うので、賛否両論は世の常である。有名になればなるほど、批判も強くなろう。

ただ「社主の独り言」は、人間の持つ本能の罪深さ、愚かさ、浅はかさ、そして究極は動物と同レベルの本質を、私なりの解釈で書いています。当たり〜、外れ〜、と思いながら、気楽に読んで下さい。

そういえば先日生活力のある強い高齢者に会った。「病院が高齢者で溢れるのは、本人負担が一割だから。特別な人は別にして、全員三割にすべきだ。そうすればもう少し病院も有効に使われる。毎日サロンに行く感覚で遊びに行ってる高齢者も多い」と憤慨されていた。

「田舎では誰も乗ってない空バスが山の中を運行している。補助金の無駄遣いである。それなら必要な時に使えるタクシー補助券を出した方が山の中の人も喜ぶ。タクシー会社は潰れる寸前」だそうである。どちらも、一つの意見である。



▼爺婆健康ランドで、爺婆の生態を研究していると、婆の方が長生きするのがわかる。爺は長い間、外で働いて来たから神経をすり減らしている。やっとの定年退職に我が家で第二の人生を送ろうと思っても、歓待されるのは退職金を貰って帰ってきた来たその日だけで、一週間もしないうちに、家でぶらぶらしていると粗大ごみ扱いされて、嫌な顔されるのが現実である。

思い描いていた第二の人生なんて、夢の又夢と知らされるのである。退職したら、妻と生まれ故郷に帰ってのんびりと田舎暮らしでもしようと考え、「一緒に帰ろう」なんて言った日にゃ、「あんたが一人で帰れば? 誰も知り合いが居ない所に今更行って、あんたの世話をするだけの生活なんてまっぴらよ。ここには友達も話し相手も沢山いるし、私はここに残るわよ」という現実の話が山ほどある。

男は鮭と同じで、故郷回帰願望が強いらしいが、女は順応性が強いので、行き先々に住み着いてその場所を征服する能力がある。

だいたい男は食事も作れないし、掃除も洗濯も片づけも整理整頓も下手である。妻が居た時には、当たり前のようにやって貰っていた日常生活の有難さが、一人になってから気付くのであるが、それではもう遅いのである。妻がいるうちに感謝をしていると、子供が育った後の第二の人生にも妻はついてきてくれるだろう。

子供の声は男の子も女の子も、甲高い。動物も同じである。そしてやがて男だけが声変りが始まって声が低くなってくるのである。その頃から、男女に能力差が出てくる。最近はこの能力差を無視して人権の平等に力を入れ過ぎているように思えてならない。

人権の平等は大事である。その上で能力の違いも認めないと、人が滅んでしまうのではないか。と考えているうちに、一番能力差が出る青年期が終わり、中年期に入る。中年期になると女性は子供も産めなくなる。この頃から女も声に変化が出てくる。声が低くなってくるのである。

やがて女性も高齢者になってくると、徐々に中性化する。高齢者になると男は力が弱くなり女化し、女は羞恥心が薄れ、男化するのである。そして毛が抜けだし、体型は引力の法則で全てが垂れ下がり、男か女かわからなくなるのである。

たとえば若い時に間違って女風呂に男が入って来たら、若い女の子は迷わず甲高い声で「きゃー」と悲鳴をあげ、大騒ぎになるだろう。ところが婆さんたちだったら、「せっかく来たなら、入って行けばいいよ。ついでにワシの背中でも流してけろや」とケロッとしてるだろう。人生経験の貫録である。

人間を含めた生物には、オスとメスの役割がある。人権は平等であって当然かもしれないが、役目は完全に違う。そこを忘れてはいけない。

人間も含めて動物社会はどうしてもオス中心で形成されている。それは権力者から庶民まで、生きて行くための「富の奪い合い」が生活の基本だからだ。そして更に力の強い者が権力を握り、国を支配し、歴史を作っていく。強い者だけが歴史を作って行く権利が許されているのである。

しかし、男は昔や故郷を思うとき、「おふくろの味」を思い出す。母さんはいつまでも心の中に生きているのである。

ついこないだまで若者だった我々も、もう老兵の域である。あと何年わがままに生きれるのかはわからない。

千里を飛んだと思った孫悟空が気が付いたらお釈迦様の掌だったのと同じで、男は所詮女の掌で泳がされてるのかもしれないね。世に逞しき、汝の名は女なり。


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