俺を殺しにきたのは駒井裕!?
中口寛継氏が語る未解決事件

(敬天新聞 令和元年7月号 3面)


(2面から続く)

 

しかし、その後の川村会長へのアクションから、犯人の正体が明らかになる。二度目の襲撃後も、犯人らは川村氏に金を要求してきたからだ。

一度目の襲撃事件では川村会長は目撃しているが、二度目の襲撃現場は見ていない。一度目の犯人である中山と駒井らは既に自首したものと思っていた為、二度目の襲撃には一切関与していないと思っていた。ところが中山が携帯に電話してきて駒井と交互に話してきたという。

「川村会長、中口には神さん憑いてますわ。死にまへんわ! そやけど、やることやったんで、カネ頼みますわ!」と、中山も駒井もペラペラと常人には理解不能なアピールをしてきたそうだ。襲撃は二度としない様に止めた事は勿論、自首を約束したにも関わらず、中山や駒井は得意気に「もう一度やりましたで!」とお金欲しさに報告してきたのである。


裁判の背景

二人が裁判に至った経緯は、崇仁・協議会(旧崇仁協議会)の預金一五六億円が無くなったことに遡る。 当時「その責任は三菱銀行(現三菱UFJ銀行)にもある」と、崇仁・協議会の会員である地元住民五十〜一五〇人がバス数台で京都から抗議活動を行った。東京丸の内の東京三菱銀行(当時)本店を始め、一五六億円が預金されていた京都の東京三菱銀行出町柳支店(当時)などへ百回以上の抗議が繰り返された。

同銀行の株主総会でも、会員が多数出席し、崇仁協議会(当時)名義や、同会員名義の預金が無くなった件の質疑応答で、総会は二時間に及び紛糾。翌年の株主総会では、中口寛継氏と他三名の崇仁・協議会(旧崇仁協議会)幹部は、出入り禁止の仮処分を受け株主総会に入れなかった。

中口氏は、幹部で唯一仮処分を受けなかった川村会長に「後の事は宜しくお願いします」と伝えると、自身は強引に東京三菱銀行本店内に入ろうとして「建造物侵入」で逮捕された。

その後、中口氏は東京地裁で被告席へ、川村会長は情状証人に立った。中口氏と、妻である姫子氏は、法廷にて「崇仁・協議会脱会届」を提出した。中口氏は「二度と崇仁・協議会に参加しません」と法廷で証言し減刑を求めたが、求刑通り十ヶ月の実刑で小菅刑務所に服役した。中口氏の出所後に、川村会長に不満のあるメンバーが、中口氏を担いで反旗を翻し、新たな「崇仁協議会」を立ち上げ、事態は再び紛糾した。ここで川村会長と中口氏が訴訟に至る土壌が出来た。

川村会長は京都地裁に「類似名称使用禁止、インターネット削除、損害賠償」を訴え、京都地裁で全面勝訴し、中口側は控訴したが、大阪高裁、最高裁も川村側が全面勝訴して法的には終結した。しかしながら、その後も中口氏らを担ぐ者が崇仁協議会の名を使い続けたので、川村会長は弁護士を通じて抗議。対立は長年続いたが、現在両者は和解して、中口氏は「京都駅東地区市街地再開発準備組合」代表理事に就任し、「崇仁・協議会」の川村会長も、組合を応援する間柄となった。いわゆる「棲み分け」が成立したのである。あくまで法廷で争いは決着し、暴力団など入り込む余地は無かったのである。

十五年以上の年月が過ぎて、ふと川村会長が襲撃事件を思い出し、駒井の話を確認する為、当時の事を中口氏に訊ねたことで中山と駒井の嘘が判明した。中口氏の手元には川村会長に無断で作成した「中山常雄が会長第一秘書、駒井裕が会長第二秘書」という名刺もあった。

「崇仁・協議会」の看板を使い、悪巧みをしていたようだ。「人を殺めて金をせびる」鬼畜の名刺を見て、川村会長は改めて強い憤りを感じたという。


事件の主犯

中口氏襲撃の主犯である中山常雄は、当時、広域指定暴力団・会津小鉄会の組員だった。暴行傷害、覚せい剤所持・使用で複数回の逮捕歴がある。子分の駒井ともども在日韓国人であり、また同和地区の抗争であるせいなのか京都府警の動きに不可解な点もあったと中口氏は振り返る。あれ程の事件にも関わらず、京都府警は任意での事情聴取も行わなかったという。

駒井は、当時、広域暴力団・山口組組員であった双子の弟に相談し、広域暴力団・会津小鉄会組員・中山常雄の盃を受け、正式に暴力団員になったという経緯がある。中口氏への殺人未遂事件とも言える犯行は、駒井が中山の子分として、現役の暴力団員の時に犯したものである。


注釈

以上が川村眞吾郎氏と中口寛継氏の証言に基づく内容である。一度のみならず二度の襲撃事件が起こっている。これは明らかに京都府警の失態ではないか。一度目の襲撃事件は京都駅近くの公衆の面前で起きている。しかも犯人を知っている目撃者もいる。 崇仁・協議会の川村会長も殺人押し売りの犯人たちに金を要求されていた。それを断り自首を勧め、埒が明かないので、警察に相談したと証言している。襲撃された中口氏も犯人の顔を見たと言ってる。それでも警察は動かなかったようである。

京都駅前の崇仁地区と言うのは、いわゆる被差別部落地区で通称同和地区と呼ばれている所である。その中でも七条、八条地区が日本人部落で、九条、十条地区が韓国・北朝鮮部落(通称・朝鮮部落)と区別されているそうである。ここを総称して崇仁地区というそうだ。十五年前、井筒和幸監督のパッチギという在日の若者の日常が描かれた映画が流行ったが、この崇仁地区がモデルである。

中山常雄は崇仁地区の朝鮮部落地区出身だそうで、それで後難を恐れて警察が動かなかったのか、世間の嫌われ者同士が内ゲバで争い、両者潰れてしまうのが一番いいと考えたかはわからない。しかし、もしそうなら矛盾していることがある。内ゲバで有名なのは、中核派や革マル派のような全学連派閥である。今でこそ殆ど名前は聞かなくなったが、未だに公安警察は壊滅に向けて追いかけている。彼らの犯罪に関しては、どんな小さな犯罪も見逃さないという姿勢で今でも追いかけている。「厄介者」と言う意味では、似た者同士という側面はあろうが、被差別部落民同士の内ゲバであったとしても、そこに明らかな犯罪があれば、当然厳しく対処すべきである。どういう理由だったにせよ、京都府警の怠慢な動きが、二度目の襲撃を誘発したのは間違いないと思う。汚名返上と言う意味においても今からでも徹底的に解明してほしいものである。

それから、京都の人権団体である崇仁協議会を一躍有名にしたのは、藤井鉄雄氏である。武富士から莫大な地上げ資金を引っ張り同和地区を整理するために大手暴力団が入り乱れて、抗争が起きた。確か七、八人が亡くなった。藤井氏はその後も長く服役生活を強いられた。藤井氏が社会復帰後、崇仁協議会は「崇仁・協議会」と名前を変えて、川村眞吾郎会長が引き継いだ。その披露宴には弊紙も出席した。中口寛継氏との間で、名称に関しての争いがあったのは知っていたが、弊紙はどちらも知り合いではあったが、深く介入はしなかった。

二人は長く敵対していた筈だが、駒井という人物をきっかけに、急接近する可能性が出てきた。川村会長が病気療養中に、身上のすべてを駒井夫婦に騙し取られてしまった話は縷々説明してきた。そこにもう一方の人権団体の会長である中口氏までが駒井に因縁があるとは、御釈迦様でも知らなかったろう。中山常雄とその部下であった駒井他二名が中口氏を見つけて襲いかかって、動けなくなった中口氏を執拗に金属バットで殴り続けていたのが駒井だったというのである。あくまでも主導的立場で動いたのは中山であったらしいが、その時の雰囲気は傷害や暴行という部類ではなく、間違いなく「殺人未遂」だったという。

そのことを、川村会長がふと思い出して中口氏に電話を入れたという。中口氏は被害届を出すらしいが、殺人未遂と評価されれば、事件になるかもしれないが、傷害ならもう時効である。川村会長によると駒井という男は強姦も数知れなくやっているというし、その強姦した女性をビデオに撮って脅し、金まで取っていたというから、本当に卑劣な男である。

次々と知られざる駒井の悪事が世の知るところと成り、和歌山県すさみ町の岩田町長や上田議員は今頃どう思っているだろうか?

 

町有地を買った者が、この殺人未遂のような暴行を働いた張本人だったと言うのである。しかも自分が最終事業者と町を偽り、その何十倍もの値段で、旭電業に転貸ししたのである。

これを不条理と言わずして何という? 天網恢恢疎にして漏らさず。旭電業の松岡社長と岩田町長に猛省を促す。

すさみ町長・岩田勉氏


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