敬天新聞11号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和元年11月号 4面)



▼人生二転三転は当たり前である。で、結局は「無事是名馬」で、平々凡々と健康で長生きした人が幸せな人生なのかもしれない。

山の頂上に登れば、三百六十度見渡せる景色の良さを甘受できる一方で、四方八方から風が吹きつける。どちらを選ぶかは、人それぞれの好みであろう。死ぬまで強欲に生きて満足する人もいようし、最初からそういうレースを避けて平凡を選ぶ人もいよう。

人生の中では、喜びと悲しみが繰り返し押し寄せて来る。永遠にどちらも続くわけではない。ところが、煩悩に支配された人間は、一度栄光を掴むと、それが永久に続くと錯覚したり、より大きな栄光を掴もうと、無理を重ねる。自分を見失ってしまうのである。

関西電力で、「菓子包みの底に小判」を入れて贈ると言う江戸時代のような実話が出てきた。未だそのような風習が残っていたとは、是非とも文化遺産に指定して欲しいものである。

関西電力でたまたま表に出た話であるが、似たような行為は他の電力会社でも間違いなくあろう。電力会社に限らず、国や自治体が絡んでいる仕事には、少なからず地元の実力者と言われる人物が関与しているものである。

勿論その後ろには間違いなく、地元に顔の利く暴力団の親分がいたりする。それは地元警察でも一種の公認である。ああいう特殊な事業においては、綺麗ごとだけでは済まされない現実があるのだ。ソープランドがいい例である。ソープランドでは売春が行われているのは誰でも知っている。公認として売春が認められているのだ。

一方で売春は違法である。正式に取り締まったら、全店アウトである。しかし、それはしない。理由は、ソープランドを無くしてしまえば、若者(オス)の性処理ができなくなってしまう。強姦犯罪が異常に増えるだろう。オスとメスの性に対する機能が違い過ぎるのである。

それでは、売春禁止法を無くしてしまえばいいようなものだが、無くせばなくしたで、大っぴらに街娼があっちこっちで、客を求めて立っているのも品のいいものでもない。隠せるものは隠し、隠さなければいけないものは隠す、というのが社会の秩序を維持するためには、必要なのである。それが公衆道徳なのである。

最近は恥ずべきことも多いが、かつて日本は「公衆道徳が行き届いている国」と世界に称賛されていた時代もあった。ところが今は、見るも哀れな「自分ファースト」な国民に成り下がり、「日本のために貢献する」とか、「人のために尽くす」とか、「家族のために働く」とか、そういう気持ちが全く無くなり、自分だけが楽になればいいと、平気で詐欺までやる時代になってしまったのである。ご先祖様に申し訳ないと思わないのだろうか? 

個の権利、自由、多様性の尊重は分かるが、個の集まりだけでは、舵取りはできまい。権利を主張する以上、一対としてその裏にある義務を果たしてこそ、初めて権利主張に繋がるのである。

義務を果たさず、皆が権利だけを主張したら、国は成り立たない。国どころか集団だって成り立たないのである。国民にとって国は大事である。国があるから、国が安定してるから、我々は安心して日々が過ごせるのである。

だから国民も国に敬意を払い、国が決めたルールには従うべきなのである。勿論国民を苦しめるようなルールには反対する権利はあるのである。



▼十五年前だったか、二十年前だったか忘れたが、果物のキウイをオーストラリアから輸入した業者から相談があって、トラックに何杯分ものキウイを捨てるしかなくなったという。

輸出入のルールというのは良く知らないが、一定の数量だか重さだかの決まりを越えたら、一切受け付けられないそうである。それで廃棄するしかないので、一個一円でもいいから買ってくれないかと言う話だった。気の毒だから買ってあげることにした。

ところが、買ってから気が付いたことだが、十個、百個じゃないから、買ったところで食べきれないし、そんなにたくさんあげる所もない。それでそのキウイを某大学の運動部にプレゼントすることにした。

その時に意をくみ取って車を運転してくれたのが、モントリオールオリンピック・レスリング金メダリストの伊達治一郎君だった。そして、伊達君が運動部の部員たちに実技指導と講演をしてくれたのである。お土産付き講演であった。

なぜ唐突にこの話を書いたかというと、その当時のOB会長であった先生から突然電話があって、「私ももう八十を過ぎた。いつお迎えが来るかわからない。急にあなたと飲みたくなった」とキウイの話をされたのである。

この先生とも付き合いが長い。男気がある人である。伊達君は伊達君でこれまた男気があって、国士舘では知名度ナンバーワンの人であったが、残念ながら一昨年前に亡くなった。

ついこないだまで、命は無限と思っていたが、友人・知人・身内が亡くなることを目の前で体験して初めて、命が有限であることを知るのである。古希を前にして知るような事ではないが、大体がこれが現実である。

今年は異常に台風が多い年であった。それも、非常に大型で、被害も大きい。これから益々こういう傾向になるらしい。昔は三十度を超えると暑いと言っていた夏が、今は四十度超えも度々である。温暖化で南極の氷が溶けて、海面の水位が上がり、陸上の何パーセントかが水没するとか言ってるけど、地球は滅亡するのだろうか?

翻って、世の中の秩序というものが壊れ始めている。誰もが自分主義で、国や家族の絆は二の次である。夫婦の仲も壊れ始めている。好き勝手してきた男側に大半の責任はあるのだろうが、何も退職してから捨てなくてもいいのに。捨てる(離婚)なら、もっと早く捨てられた方が、まだ再生の可能性があったのに、いざとなったら、女の方が薄情で、冷たい。男は未練たらしく、いつまでも女を追いかけるが、女は嫌と思ったら、スパッと未練を断つ。その時に、「あ〜、もっと優しくしておけば良かった」と思っても、遅いのです。

世の殿方、日頃の小さな愛情の積み重ねが大事ですぞ。とは言っても、人生なんて後悔だらけ、間違いだらけであって、満足なんて一時の気休めでしかありません。それなのに人間というやつは、すぐに自惚れてしまうんですなー。

こんなに人生が短いことを若い時に悟れたら、もう少しいい人生を歩けるんだろうけど、経験して初めて世の中を知るわけだから、どんなに口を酸っぱくして説教しても「百聞は一見にしかず」なのである。

凡人というのは、健康で長生きが一番で、これ以上のものを求めると、「まさか」という大どんでん返しが待っているので、そこそこの煩悩と共に生きることが大事なのである。神様も仏様も阿弥陀様もほどほどの欲なら、見て見ぬふりをしてくれるのである。



▼爺婆健康ランドに通いながら、爺、婆の生態を観察していると、高齢者の夫婦と言うのは、愛とか恋とかで結ばれた関係というより、片方だけでは力が足りないために、それを補い助け合うために一緒に住むという「番(つがい)」の関係だね。

先日電化製品を買いに家電量販店に言ったら、高齢者のおじいさんが、使い古した何本もの蛍光灯を持って、店員と話していた。おそらく切れた蛍光灯の交換に、古いものを持ってきたのだろう。長い物は一メートル以上の物もあった。これらの数と長さじゃ、お婆さんでは、交換は難しかろう。男の出番である。 お婆さんから見たら、久々にお爺さんの逞しさを見た思いだったろう。お爺さんも店員さんとのやり取りが何故か自信に満ち溢れていた。オスの本懐である。

また別のところでは、お爺さんとお婆さんが仲良く故障の商品の修理に来ていて、お婆さんが商品の荷物を持っていたが、お爺さんが説明をしていた。そして商品の書類を出す段になったら、お婆さんが手提げ袋からしっかり書類を出していた。何気ない老夫婦の動きであるが、チームワークが取れてて微笑ましい。一見亭主関白な老夫婦かなー、と思ったが、お爺さんの方が足腰がちょっと不自由そうだったので、お婆さんの思いやりだったのだろう。

男は女を見る時、すぐに外見ばかりを見つめるが、歳を取ったら、健康と優しさと思いやりである。どんなに美に自信のあるお婆ちゃんでも、ピチピチした旬の女性には敵わない。自分の人生的立場を考えれば直ぐにわかることなのであるが、そこはそれ、いつまでも男は男、女は女という気持ちは死ぬまであるのである。

しかし、自分の歳も考えずに、若い異性を求めようとするのは、断然男側に多い。おそらくオスは自然本能的に自身の子孫を残そうとする習性があるからだろう。とは言っても、そういう恵まれた待遇にある人は、ほんの一握りで、ほとんどのオスは、「ばば専」(婆さん専門)とか、「デブ専」(おでぶさん専門)とか、モテない者同士で慰め合っているのが現実である。

ところで、知人のAさんは八十四歳の女性と時々デートする仲だそうで、六十五歳の年下整形美人(少し失敗かな?)とも付き合いがあるという。日本を長く支えてきた団塊の世代は、今も元気なのである。

団塊の世代をはじめとした年代までが何故逞しいかと言うと、戦前、戦中、戦後と、その親が世界を相手に戦い続け「産めよ増やせよ、お国のために」という信じるものがあり、兄弟の多い子供は家の中でも勝ち抜く逞しさを身に着けたのである。

今のように食べ物が豊富でない時代だったから、一つの食べ物を幾つかに切って、みんなで分けて食べる。その家のしきたりによっても違うだろうが、下の子供から順に取る場合もあれば、長男から順に取る家庭もあったろう。いずれにしても母親が平等に切るのであるが、多少の大小を子供の目ながら、見逃さないのである。自分の順番になって、最初から目を付けていた一切れが当たると、喜びが倍増したものである。

今の爺・婆が元気なのは、戦後の廃墟の中から生き延びた日本の成長期故に、全てにおいて逞しいのある。今は国として目標がないので、子供たちは自分で生きる道を模索しなければならない。難しい世の中になってしまった。

老兵は、自分の専門分野以外は口を出さないことである。


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