敬天新聞4月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和2年4月号 4面)



▼今私は井沢八郎さんの「ああ上野駅」という歌を泣きながら聴いている。東北出身ではないので昔はこの歌を聞いても、さほど琴線に触れると言う程でもなかった。しかし最近は、帰趨本能が芽生えて来たのか、故郷が妙に恋しくなるのである。人間というより動物の本能であろう。

今の私は人間と言うより、鮭の本能に近いのかもしれない。昭和三十九年の作品らしいから五十五年前の作品である。と言うことは、前回の東京オリンピックの年の作品である。懐かしい。その頃は私はまだ中学一年であったから、この歌の意味などわかる訳がない。それにこの歌の味が分かるのは、東北出身の人でなければわからない独特のイメージがあろう。東北出身の人が集団就職してきた電車の終着駅こそが上野駅だったのである。

しかも当時は中学卒業、高校卒業がザラで、家族を助ける為に働きに出るという大義(最高の道義)があった。今の若者からは考えられないかもしれないが、当時の若者は皆親孝行であったのだ。先ずは家族のために働く、実家に仕送りするために働きに出たのである。今の若い人たちには考えられない親子関係、家族関係であろう。

広島・長崎に原子爆弾を落とされた、あの大戦の敗戦から僅か十九年の年月しか経っていなかったのであるから、世界中が驚いたことだろう。歳を取ったら涙脆くなるとはよく言われる言葉だが、確かに最近はテレビを見ては泣き、歌を聴いては泣き、田舎が恋しくなっては涙するのである。そういう歳になったということであろう。

最近は「田舎に住もう」というテレビ番組が流行っている。第二の人生を夫婦で、知らない町にやってきて、田畑を耕しながら自給自足で生活し、その町に仲良く受け入れられ溶け込んでいく話である。成功例はあるにはあろうが、そんなに上手く溶け込んで行けるだろうか?

日本人の場合、性格は優しく穏やかではあるが、なかなかよそ者を受け付けないところがある。その町に引っ越して二十年も経つが未だによそ者扱いをされる、というような話をよく聞く。

自分の女房でさえ、「定年になったら一緒に田舎に帰ろう」と言うと、「あなただけ帰って。私はこの町に残るわ」と言われても不思議ではないほど、多様化した時代になった。男のわがままに女が耐えなくなったのである。いや耐える必要もなくなった時代であることを、未だに男だけが認識してない時代なのである。

動物界では、オスは種をまき散らし、メスは生命力の強い自分に必要な種だけを受け入れる。自然界の掟に従った動物の本能が正しいのか、多種多様な生存を認めようとする人間の生き方が正しいのかわからない。

人間界では、激しい生存競争を行き抜いて、高い声から野太い声に変わり逞しい中性になった婆と、低い声から細い声に変わり歩く姿も頼りない中性になった爺が、疑似恋愛の溜り場としてきた百円で遊べた爺婆健康ランドも新型コロナのせいで休館になってしまった。新型コロナよ、生い先短い爺婆の楽しみを奪わないでくれ〜。




▼いつも不思議に思うのだが、ラーメン店が二軒並んでいて、片方が流行っていて、もう一軒がガラガラの店というパターンがよくある。流行ってる方はいいとして、なぜ流行ってない店は「何故だろう?」と感じて研究しないのか不思議である。お客になって隣に食べに行ってみるとかすれば、味が原因とか店の雰囲気が原因とか、店主の態度が原因とか、何かがわかる筈である。

ラーメン屋に限って言えば、まず味に間違いないであろうが、その味で負けてるから客が隣に行ってしまうわけだから、やはり変装してでも隣にラーメンを食べに行って、どこがどう違うのかを研究する必要があろう。恥ずかしいだの、メンツだの言ってられない。現に負けて結果が出ているのだから、四の五の言ってる場合ではないのである。

自分は顔がバレてるから行けないとか、恥ずかしいから行けないとか言うのであれば、ここは女房の出番である。普段夫婦仲は今一とは言っても、こんな時こそ力を合わせるべきである。女房がしっかり味見してきて、亭主の作っているラーメンと何が違うのかを体現してくるべきであろう。

好みもあろうが、味は紙一重のところもある。人間には「流行ってるから行く」という心理もある。よくオープンする時、サクラを頼んで(金を払って)、いかにも流行ってる店に見せるために、行列を作ったりする。それを何日か繰り返すと、人は一度は行ってみたいと思うものである。

小さなラーメン屋にそのような経済的余裕はない。人を惹きつけるためには、本当の美味さを自分の手で作りあげるしかないのだ。

もし私が売れないラーメン屋の店主なら、店を出すまでに、ラーメンについて勉強もしてきたろうし、修行もしてきたわけだから、それでもそれ以上の人気店が隣に出現したら、店を畳むしかないね。

それでも女房に「あなた、まだ子供も小さいし、せめてこの子たちが成人するまでは、恥を忍んででも続けて下さい」と懇願されれば、「お蔦、わかったよ。お前たちを泣かせるわけにはいかない。隣が満杯で入れなくなったお零れさんでも入ってくれればいいか。その人たちを一人づつ拾って、お得意さんにすればいいかもな」と気も変わるかもしれないなー、なんて最近は、最後には人情噺で終わる独り言が多くなりました。

皆さんもこんなラーメン屋の関係見たことあるでしょう。ラーメン屋なら片方が潰れても周辺にそんなに影響は出ませんが、これがスーパーなら大変ですよね。最近スーパーの激戦も始まって、新しいスーパーができたら、片方に客が全然いなくなるというケースもあります。

そのスーパーが潰れたら、その周辺の人は、買い物が遠くなります。スーパーが潰れたら、人が集まらなくなり、スーパーの近くで小売店をやってた店まで潰れてしまうだろう。生涯を通してずっとハッピーだったと言う人はなかなかいません。人はつらいこと、悲しいことを経験しながら、時々ハッピーなことを迎えて人生を繰り返していくものですね。




▼甘利議員のUR収賄疑惑を揉み消したのも、森友、加計学園問題を揉み消したのも、安倍政権の番人であると評判の黒川弘務検事長であると、色んなマスコミが声を上げ始めた。真偽の程はわからない。現在実質ナンバー2の黒川検事長を、ナンバー1の検事総長にするために、前代未聞の黒川氏の定年延長を閣議決定したことで、検察庁が自分たちの米櫃に手を突っ込まれたと怒った結果が、河井議員夫婦の強制捜査事件だというのである。

この河合案里参議院議員を応援する時自民党は、他の議員が一律一千五百万円の応援資金だったのに、案里議員にだけ一億五千万円という正しく桁違いの応援資金を出している。党内の事情であっても、違法ではないらしい。

今は安倍一強官邸だから自民党内からも批判も起こらないが、この不平等はいずれ大きな火種になることは間違いないであろう。同じ広島選挙区の自民党から立候補した溝手氏に対する怨念が安倍総理を駆り立てたとの噂が根強い。

今は官邸が、昔の田中派みたいな状態になっているのであろうか? それなら竹下総理や金丸氏や小沢一郎氏は誰に当たるのだろうか?

ジャーナリスト志望の女性を、準強制わいせつで犯した罪で逮捕状が出ていた件を揉み消した警察官僚も出世して確か次期警察庁長官だか警視庁総監だかになる地位にいる。

同じ役所でも司法試験に合格した法律家の集団であり、検察は特別な立場の役所であり、厳正中立・不偏不党を旨とする厳粛な所であると国民は信じている。また警察に対しては、法の下に平等・公正を旨として犯罪を取り締まり、社会の秩序と安心・安全を守る役所という認識である。だからこそ、検察の不祥事や警察の犯罪に、国民は殊の外敏感なのである。

そういう組織のトップを個人的に有益になるような使い方に国民が納得するだろうか? 揉み消しの度合いにも寄るが、公文書の改ざんや廃棄と言うのは、明らかにやり過ぎ。国の管理の土地の値段を勝手に上げ下げするのも、「忖度」の範囲を超えてるし、犯罪に当たるだろう。

そういう意味では野党に少しは頑張って貰いたいのだが、とても今の野党では国民の心を掴めそうにない。一番の理由は細かいことで政策が違うのか、幾つにも分かれすぎている上に、名前を変えすぎ。全然覚えられない。我慢することも大事なのに、直ぐにころころ分離・合併を繰り返す。

それに比べたら自民党は幅が広い。軽〜い左から、重〜い右までいる。結局、自民党の方が器が大きいということである。考え方が幅広いので多彩な人脈が居ると言うことになる。それに比べて野党は、細かく分かれているために、選挙で票が入りにくい。

昔の「社会党」のようにアバウトな野党であれば、「反自民」の受け皿になれたろうが、今は政策が細かく分かれた上に、党名がころころ変わるから、誰がどの党かさえもわからない。これではとても政権を任せてみようとは誰も思はないだろう。

一世を風靡した社会党も今や風前の灯である。自民党だけが、より強大になって我が世の春である。一強は独裁にもなりがちだから、程ほどのバランスが必要なんだけどねー。


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