敬天新聞6月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和2年6月号 4面)



▼四月号新聞の社主の独り言で、「故郷が恋しくなってきた。最近は歌を聞いては涙が溢れて来て、直ぐに故郷を思いだす。鮭と同じ帰趨本能だろう。」と書いたら、友人から「あれは帰趨ではなく、帰巣だよ」と連絡があった。私の耳が悪いのか、アナウンサの発音が悪いのか、いつも「きすう」と聞こえていたから、てっきり帰趨と思い込んでしまっていたのである。

帰巣と書いて、「きそう」と読むんだね。動物が生まれた所に帰りたい、帰ろうと努力するという意味。字から見て「自分の生まれた巣に帰る」、この方がしっくりいくね。この歳にして学ぶことも沢山ある。だいたい漢字の間違い指摘は、高校時代の古典の先生から毎回あるのだが、私が世間を留守にしてた関係で新聞が遅れて発行され行き届かなかったのもあったのだろう。

友人が言うには、前にもこの話を私にしたことがあったらしい。ところがこの友人が酒が入ると酒乱気味なので、私が右から左の対応しかしてなかったのである。こんな良いことを教えてくれてたのに、酒禍だったのである。しかし改めて、アナウンサーの発音を注意して聴いていると、「きそう」と発音している。やはり私の耳が知らず知らずのうちに老人力を身に着けていたようである。

最近は国や県からの外出自粛要請をしっかり守り、自宅で「食っちゃ寝記事書き時々筋トレ日向ぼっこ」を繰り返している。外に出るのは買い物ぐらいだが、コロナが怖いので、しっかりとマスクで防御を固めてからの外出である。コロナウイルスの予防の為に殆どの人がマスクをしている。華やかな手作りマスクも多くなり花を添える。いいことである。

ところで、電車の中で、歩いていて、スーパーの中で、最近女性が美人に見えて仕方がない。高齢になって女性に縁がなくなったから、みんな綺麗に見えるようになったのかなー、と思っていたら、ハタと気付いた。顔の半分をマスクで覆っているために、見えるところは目と眉だけである。おでこは髪で隠すこともできる。しかも目と眉という部分は、女性が一番念入りに化粧するところである。

最近は「あなた誰?」というぐらいの進化した化粧が可能である。元巨人の桑田選手の息子さんなんか、「驚き桃ノ木マットの気」と言われるぐらい不思議な感じである。マスクで隠れてる部分が、胡坐を掻いてるような貫禄のある鼻であったり、北島サブちゃんのように上を向いて歩こうみたいな前向きな鼻であったり、という肝心な部分が見えなければ、誰もが吉永小百合さんに見えてしまうのである。

ただ品のない女性が増えた。女性としての身だしなみ、気恥ずかしさ、つつましさ、と言うのかなー、昔の人は普通に持ってたけどねー。ここら辺が情操教育なんだよねー。昔は身だしなみと言ってたけど、今の若い娘に言ったら「みなはだし、ってどういう意味?靴を履いちゃいけないの?」と言われそうである。

高齢のお婆さんでも魅力的に見えるのは、この身だしなみがしっかりしているからである。こんな話ばっかりしていたら益々若い娘に縁がなくなりますなー。私の独り言を読む人は年齢層が高いので、一応、本音と建前をメリケン粉にふわっと包んで書いてます。俺はまだ現役だ、社会に一言いいたいと言うエネルギーのある方は弊紙ネットの「敬天ブログ」を読んで下さい。若島塾長さんは毎朝七時に敬天ブログを読んでから一日が始まるそうです。



▼ちあきなおみさんの歌を聴くと涙が止まらなくなる。歌は三分間のドラマだと言うが、ちあきなおみさんの歌は「語り」であり説得力がある。和製シャンソンである。あれだけの歌唱力があって、多くのファンが待っているにも拘わらず、亡くなったご主人のお墓参りを続けることが、自分の残りの人生の務めと言わんばかりの、表に出て来ない人生である。

私がちあきさんの良さがわかるようになったのは、まだ十年ぐらいの実績しかない。歌の巧さに気付く前に、外見ばかり見ていた。若い時には、異性を見る対象は、先ずは外見である。顔が一番、スタイルが二番である。歌の巧さなどまでは頭が回らない。

しかし、最近ちあきさん人気が上がっているのは、歌の巧さだけではなく、やはり亡くなった旦那さんに対するひたすらな愛の表現と一切芸能界に戻らない決意なのではないかと思う。

昔の映画スターと言う人達は、映画が廃れて芸能界がテレビに移行してからも、テレビに出ない人は多かった。テレビの方が稼ぎが多くなっても、そのスタイルを変えない人が多かった。やせ我慢である。今は芸能人と言えばテレビに出る者が主流である。そしてバラエティー番組に出て、芸人に弄られるのが人気の出る早道で、稼ぎも多いようである。

石原裕次郎さんなんかテレビに媚を売れば借金なんか直ぐに返せた筈である。今では「えっ、あんな芸人が?」と言われるような者でさえ、何億も稼いでいると言う。例えば渡哲也さんなんか、今でもテレビに出れば相当人気はあるだろうし、稼げると思うが、出ようとしない。

昔の映画人としてのプライドが許さないのだろう。それがまたファンが痺れるところである。やはりファンとしてはスターには最後までスターでいてもらいたいし、見せたくないものは見せないで欲しい。

今は一億総スター、総タレントと言う時代だから、芸能人の価値も低くなった。私は今尊敬する芸能人と言えば杉良太郎さんである。何度も書いたことがあるが、若い時から人知れずボランティア活動をしてきた人で、特に発展途上国の小さな国に、学校を建てたり貧しい子供たちに食料支援を続けてきた人である。それもお金を募ってと言うより、自身の金での寄付支援だからすごいのである。

こういう他人を思いやり(特に貧しい人への思いやりが強い)、自己犠牲の強い人が本当は総理大臣になった方がいい。地方区の政治家は選挙民の生活を考えるのではなく、どうすれば受かるかしか考えていない。全国区の政治家は、名前だけで通る者しか出ないので、もっと何も考えない。これが現実の政治の世界である。いかに無駄な金が政治家には払われているかわかろうかと思います。

政治家の人数を半分に減らし、閣僚を逆に倍に増やして、閣僚の半分は政治家外から専門的な人を選べばいい。日本人は神代の昔から、指導者に着いて行く、お上の指導に従う国民性である。従ってお上が優秀で、国民に尊敬される人じゃなきゃいけません。

最低でも義務教育で習った漢字は読める人、部下を含めて一線を超えた時には責任転嫁はせず責任を取る人、国民に嘘は吐かない人、そのような人を総理大臣には選ぶべきです。やっぱり杉良太郎さんがいいですねー。



▼この一、二か月明けても暮れても話題はコロナ禍だった。新型コロナが怖いのはわかる。未知の病原菌が発見されれば、いつの時代でも怖いのは当たり前である。何十年に一回は、こういう問題に巡りあうのである。世界がグローバル化し、行き来が自由になればなるほど、蔓延化は早いだろうから、被害拡大化は避けられないのである。

普段の生活においては経済が最優先で世の中は回っている。それと同等の力を発揮しているのが軍事力のようである。それで国対国が「好きだ嫌いだ」と、睨みあったり手を取りあったり、くっ付いたり離れたりしながら、歴史は繰り返してきた。戦争のような人類の争いは、ある程度予測もつくし、適当な所で手を打つこともできるし、勝ち負けで勝負を着けることもできる。

しかし、相手が見えない敵の場合、何処に潜んでいるか、何を武器にすれば倒せるか、全く見当がつかないために、どうしていいのかが全くわからない。いい例が現実世界ではダントツに強いアメリカが、何もできずに右往左往している。手の打ち方を間違えれば、政権なんか吹き飛ぶのである。今後、暴動が起きる国とかも出るだろう。

私はコロナが日本で騒がれ始めた頃、コロナよりコロナ禍で起きるコロナ後の「経済流通の仕組みが壊滅する」ことで起きる怖さを訴えた。わかりやすく言えば、零細企業や個人事業者の自殺が増えるということである。毎月給料を貰ってる人でも、その給料でその月を生活している人と言うのは、東京では意外と多いのである。

勤め先が潰れた、勤め先から解雇を言い渡されたら、もう生活していけなくなるのである。一般の人には株が上がっても下がっても関係ない。今月の家賃を払って、今月食べて行く食費がなければ生きていけないのである。また職業に差別のあるような保障の話も出ているが、今は全ての人に平等に保障して欲しい。国民には一人として無用の人は居ない筈である。

国はテレワークを勧めるが、テレワークで飯の食える人は、特殊能力を持ってる人やエリートや親会社の偉いさんだけである。殆どが出勤しなければ仕事が成立しない人たちである。

日本の場合、農業、漁業、建設業を初めとして、外に出て人と触れ合って、仕事をしてきた習慣がある。それが大きく変わってくるだろう。

またその人たちを癒すような娯楽施設、接待産業、性産業、居酒屋などで働く人達にも、今回は漏れずに支援してあげたがいいと思う(自粛要請が出てるにも拘わらず、生活保護を貰う立場でありながらパチンコに行ってる人には要らない気がする)。

まだ届いてないが、「全ての国民に十万円の支給」を何回か続ければ、最低限の乗り越えはできるんじゃないだろうか? 日本人は自粛要請と言うだけで、強制力は付けなくても大抵の人は公衆道徳を守る習慣を身に着けているので、今回の新型コロナウイルス問題に関しても必ず乗り切れるのではないかと思っている。

今回のコロナ禍は、人間の自惚れ、傲慢、驕りなどに対する自然界からの怒りがもたらしたメッセージである。歴史は各国の自国ファースト、すなわち鎖国から始まり、隣国や周辺国への侵略を繰り返すことでグローバル化してきた。グローバル化がある程度進んだら、人々の不公平さが衝突したりして、人間の欲望がむき出しになる。

 

そんな時、大自然の神が人間の能力や体力では太刀打ちできないほどの怒りを持って、人間を諫める。また元の黙阿弥になって鎖国状態になる。しばらくは大自然の脅威に恐れおののくのであるが、直ぐに忘れてしまう。それを永遠と繰り返してきたのが愚かな人類の歴史なのである。人類の欲望を裁くのは自然の掟でしかない。


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