敬天新聞10月号 社主の独り言(甘辛)

【敬天新聞 令和2年10月号 4面】



▼長過ぎた安倍政権がやっと終わった。あれだけ支持率が落ちていた安倍政権も辞めた途端に支持率が上がった。あの重篤な病気が再発したから、止むに止まれぬ立場から辞めざるを得なかったという演出に、国民は情にほだされたのである。日本人はお涙頂戴の人情劇に弱い。最後にそれがきちっとハマった。

誰がやっても功罪はある。安倍総理の場合、自分の口では語らないと批判された。しかし、ほとんど優秀なスピーチライターの作った文を丸読みだから、逆にミスが少なかったのかもしれない。

疑惑を持たれたモリ・カケ・サクラ問題は、さすがに自分で答えた。それだけに突っ込みどころ満載になってしまったのである。今までの総理であれば、あそこのいずれかで辞任に追い込まれていた筈である。

野党力がなかったから乗り越えられたのか、自民党が一致団結して安倍政権を応援したから長期政権になったのか、不思議な内閣であった。

結論から言うと、長期政権に至った理由は、安倍内閣が官僚幹部の人事権を掌握したからである。加えて官邸ポリスと言われている強力な情報力、調査能力を持つ人材を、秘書官として登用したからだ。

自分の応援団のテレビ局の局長が、ジャーナリストの卵に強制わいせつ罪で訴えられ逮捕状まで出た案件を、堂々ともみ消させた。一応騒がれはしたが、そのまま終息した。マスコミもビジネスだから、力のある所とは本気で喧嘩はできないのである。相手が衰えてからしか、牙は剥けないのである。だから日本のマスコミは「溺れた犬は、みんなで叩く」が、一強に向かって行く勇気はないのである。

今までの内閣は官僚に動かされていた。しかし、安倍官邸は与党議員も口を出せない、官僚も従わざるを得ない、マスコミでさえ批判記事や追及記事は書かせないという体制を作ったのである。それが長期政権になった一番の理由である。しかし、何事にも限界はあるし賞味期限と言うのもある。

菅総理は長期政権の要である官房長官を七年八カ月もやった人である。良くも悪くも酸いも甘いも全て見てきただろう。従って目の前の見本を見てきたわけだから、モリ・カケ・サクラのようなミスはやらないだろうし、また伴侶は、プラス昭恵夫人のような歴代で最も軽い、総理夫人としての自覚のない言動とは縁の無い賢夫人のようであるし、安倍政権時代より堅実な政権運営になるような気がする。

国内問題では菅政権の方が間違いなく国民のためになる政治をするだろう。また外交に関してもアメリカとの関係を基軸にして、尚且つ言われるままに従うのではなく、独立国家としての尊厳を持って交渉し、侵略に備えて防衛力にも力を入れ、経済大国としての世界的に責任を果たしうる国家を目指してほしい。

ただ親中派の二階氏がいるから、やりづらいところはあろうが、米中の争いでは先進諸国側としての立場で物を言い、尖閣諸島問題では、近々に国の庁舎を建設し、自衛隊を常駐させて、付近を航行する船舶の安全を祈願し見守る意味でも、世界最先端の技術を搭載した灯台を建設してほしいものである。

IOCは何が何でもオリンピックをやりたいようである。日本はともかく、発展途上国はこれからまだまだコロナの感染は広がり続けるだろう。世界の運動会をそのような中で実行するには是非があるだろう。目先の欲で決めないで、世界中から意見を聴いて、大局的な立場から英断して欲しいと願う。



▼半年近くの自粛要請が続き、家の中でテレビを見る機会が多かった。世界ではまだまだコロナの感染は威力を増し続けているが、日本では横ばいか収束に向かって居るような雰囲気も感じる。 ただ自粛が習慣になったせいか、外での飲み会や会合は確実に減った。葬式や結婚式の形態も変わりつつあるようだ。

伝統文化に変化が出てくるのか、それとも、一、二年後に終息を迎えたら、また何事もなかったように、昔の賑わいが戻ってくるのだろうか? 私は殆ど家から出ず、記事を書きながら、東映時代劇を見ながら、昔の人は演技がうまいなー、と思いながら、テレビ漬けであった。

我々から見たら、昔の銀幕スターはかっこいい。それこそ役者が一枚も、二枚も違うのである。それに比べたら今のスターの何と貧弱なことか。と思っていたら、孫世代から見たら、昔の人は全く魅力がないようで、今のスターが最高なのである。

我々から見たら憧れのスターであっても、若い人から見れば、只の老人にしか見えないそうである。結局は時代が過ぎれば、どんな一時代を築いた人であっても、「老兵は去るのみ」で片付けられてしまうのである。

世の中には必ず世代交代と言う時が来るのである。分かってはいるけど、いざそういう場面が来ると寂しいもんですなー。

「人の命は平等である」という言葉も、よく使われるフレーズであるが、政治家の宣伝みたいな表現で、あまり説得力はない。気持ちはわかるが現実には、余りに空しい言葉である。

極端な例で言えば、特殊な技能や高度な勉強をしてきて社会に認められた人と、公園で何もしないでゴミ箱を漁ってる人とを比べて、誰も同じ価値と評価はしないだろう。勿論口では言わないが、心の中ではそう感じる人が殆どであろう。

稀に、そういう人に手を差し伸べる優しい人がいるのも事実ではあるが。自分が今どういう立ち位置にいるかによって、考え方も随分と変わる。或いはどういう人に出会うかによっても変わるだろう。

それに「人は法の下に平等である」と言う言葉もあるが、如何にも白々しい。力のある為政者は憲法でさえ恣意的に解釈するし、法など幾らでも都合のいいように解釈する。そして権力者に有利に引用される。法律は庶民を縛るためのものである。決して平等には使用されない。

だから時に「傾奇者(かぶきもの=変わり者)」が出て来たりする。一時的には持て囃されるが、長続きはしない。世の中に必要ではあるが、正統派でないものは直ぐに消えていく。流行り廃りと同じである。 ただ、批判されようが、叩かれようが、風雪に耐え、行き抜いて行くことで、本物に育って行くのである。だから、分裂・合流を繰り返しあざ笑われても、信念を貫き通すことで、世間は認めるようになるのである。

何事も人が集まって決めることだから、欠点のない決まりはない。一短一長は仕方がないのである。何処かで妥協し、何処かで流される余裕も必要である。コロナ禍が教えてくれたのか、単に年老いて物事に対する執着がなくなってきたのかはわからぬが、妙に悟りを開いた心境になったようである。原口さんや優子さんも同じかなー。



▼独り言は勿論、敬天黒ブログと言うのは私が書いているのだが、私が時々女子高生のようなすみれや蓮華草を散りばめたような華奢な文章を書いたりするものだから、その文調と私の風体が合わないらしく、今でもゴーストライターが、記事を書いてると思ってる人が多いようである。

私の心が繊細で時に仏様のような慈愛に満ちた「称えれば傍におられる仏様」と、皆さんの心の悩みを聴いてあげ、その人に合った優しい言葉を投げかけてあげる姿を知らない人が多いのである。相談事が多い新橋では「生き仏」と呼ばれているのである。と言うと、「まさか」と疑い深い人もいるが、それはそれで感じ方は人それぞれである。

人は誰でも七色の顔を持つ。相手によって、付き合う雰囲気も、表情も、心遣いまでも違ってくるのである。嫌いと思う相手は、向こうもこちらを嫌いだろうし、嫌いな人の嫌いな人はこちらを好きだったりとか、地球がぐるりと丸いように、人の繋がりもぐるりと回っているのである。また、友達の友達はほぼ友達であるが、その友達の先の友達が友達であるかは、ほぼわからない。その先になると尚更わからない。

貧しい国では、衣食住が足りればほぼ幸せである。家族が一緒に暮らせて平凡な家庭が営めれば大いに幸せである。ところが、それらが当たり前になってくると、衣食住が足りるだけでは、幸せと感じなくなるようである。今の日本の若者がそうであるようだ。

話は変わって、コロナの影響で近所の爺婆健康ランドが閉鎖になっている。高齢者の生態を研究している立場としては、最近生態が分からなくなった。唯一情報が入ってくるのが、Tさんからのイカの頭と梅干しビチクの熟熟熟熟女との昼間のキャンペーンである。

Tさんの話には床場のトヨちゃんだけでなく、米屋の中野さんや煎餅屋の娘さんとか、色んな人が出演するので、訊いてて楽しいのである。

例えば、「時には背中を流してあげると、『背中に固いものが当たってるけどな〜に?』と振り向かれても、『役にも立たないオジギ草』が寂しく咲いていた」というオチになる。

これはあくまで昼間から酒を飲んでるTさんの話であるから、どこまでが真実なのか創作なのかはわからない。Tさんの自慢は、下は二十四歳から上は八十二歳までのガールフレンドが居ることだという。世の男性が聞いたら、嫉妬で石でも投げ着けられかけないから、特に名を秘すのである。

ただ昔に比べたら女性の自由度、奔放度、明るさ度が、高齢者になっても、元気であれば、体現できる世の中になったのは間違いない。今年は八十二歳の健康な女性がシャンソンを発表会で歌うと聞いたし、まだ一度もバラの花をお祝いに貰ったことがないと言うので、八十二本のバラを送ってあげようと思って、ヘソクリを始めた。

最近は全く飲みに行かなくなったので、女性と話す機会も殆どなくなった。若い人など先ず縁がない。一人、あと五カ月で二十代が終わるという女性がいるのだが、メールを打つと返事が一週間後という関係である。

やはり高齢者に優しいのは高齢者である。昔を共有する戦友みたいな感覚になるのかなー。誰とでも話せるTさんが羨ましい。


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