敬天新聞2月号 社主の独り言(甘辛)

(敬天新聞 令和3年2月号 4面)



▼「今売り出し中の男です」とか、「売って売って売ってる盛りの男です」とか、言われた時代もあったが、あれから40年もう売る物も無くなり、「私が入れ歯〜♪、あ〜、貴方は差し歯?」状態になり、腰痛狭窄症から来る何故か右尻だけが痛く痺れるのである。前立腺肥大予備軍を始め、老人性生活習慣病予備軍が目白押しである。

最近はつくづく女性が男性より平均年齢が10年長いという理由が分かるようになった。歳を取ればオスがメス化し、メスがオス化してくるのが目に見えて来るようになった。稀に歳を取っても雄らしい雰囲気を持ってる人もいるにはいるが、歳には勝てないのが現実である。それに比べて雌らしさを持つ高齢女性は多い。世の中を牛耳って来たのは、昔から雄である。力のある雄が、或いは権謀術数に長けた雄が、世の中を制してきた。しかし、その雄を裏で操るのは常にメスであった。

考えてみれば、小学校に行く前の子供の頃は、相撲を取ったら女の子が強いと言うのは、よくある。そして成長と同時に異性がハッキリ分かれて、男化と女化に変化するのである、概ね。おおむねと書くのは、稀にそうでない人もいるからである。

しかし今の時代は、男なのに女っぽい人をオカマとか、女なのに男っぽい人をレズという言い方をすれば、直ぐにパワハラとか批判されるから、オカマちゃんとか、レズちゃんとか言い方をすれば、少しは理解のある人と思われそうなので、そういう呼び方をするように心がけている。これも年の功なのだろう。しかし歳を重ねると、前向きな話は全く浮かばず、昔話が中心になって、記事を書きながら「あれっ、この話前にも書いたような?」の繰り返しばかりなのである。

だから政治家にも定年制は必要である。少なくとも閣僚や各党の役職には定年制度を設けた方がいい。それとは別に無報酬で「今まで無事に生きて来られたことを、国や国民に恩返しをしたい」という感謝の意味で「長老会」という七十五歳から資格がある政治家を、各県から一人選べばいい。それこそ国への貢献だから「名誉」だけが勲章で、超党派で内閣に意見を言えばいい。無報酬で無利権をモットーにすればいい。

それと議員に対する罰則が少なすぎる。国会議員は半分でいいし、小選挙区代表で出て負けても、比例で救われると言うのは止めたがいい。全く選挙の意味がない。どちらかに限定すべきである。

話は突然変わるが、気晴らしに近所のサウナに行った。私に取っては不要ではなく「要」だった。心と体のケアだったのである。外にある源泉浴に浸かって空を見上げていたら、右側が半分丸い月が見えた。夜と違って月の存在が薄い。月のそばを飛行機が飛んで行った。外にある源泉浴場から上を見て居ると、月と飛行機がどちらが上にあるかよくわからない。同じような高さに見えるのである。

飛行機は地球上、月は宇宙だから、月が遠くにあるのは一応知って居るが、地上から何メートル上空に行けば宇宙なのかはよく知らない。小学生並みの発想だが、一般の高齢者の脳なんて、このぐらいじゃないの? それとも俺だけ? 自分の専門分野にしか知識のない高齢者は意外と多いのである。私の専門分野?悪い奴を叩くだけ。男の本能、基本姿勢である「今日勝つ」を実践し、細々と世間の片隅で今年も生きて行きます。読者の皆さん「こと・よろ」ね。



▼「名選手必ずしも名監督ならず」という名言がある。選手は自分の与えられたポジションを守り、その部分だけで才能を開花させ活躍すれば脚光を浴びるが、監督と言うのは全ポジションに目を向け、一人一人の能力・技術、その日の体調、試合の流れ、雰囲気まで、見抜く眼力、胆力が要求されるわけだから、その種目の個人的な才能があっても、開花するかどうかはわからないという意味なのだろう。

この言葉がふと浮かんだのは、菅総理が余りにマスコミに叩かれるから、何故だろう? と思った次第。あんなに大役の官房長官という地位を「歴代最高」と言われるぐらいそつなく熟したのに、総理になった途端に原稿読みが「棒読み」になってしまっている。 特に最近のコロナ騒ぎでは、外国の大統領や首相は、原稿なしでもマスコミや聴衆に向かって、堂々と自分の考えを述べているので、それと対比されて貧弱に見えるのは否めない。余りにマスコミに批判されるので、ますます自信を無くしているのだろう。議員歴が長い割には確かに読み方は下手である。

国民の中にも反対意見を持つ人は幾らでもいる。しかも自分より頭のいい人も、星の数ほどいる。況してや、頭脳集団の権威の塊みたいな学術会議の懐に手を突っ込んだのだから、反撃を食うのは当然である。「予算を取り上げてしまえば、手も足も出なくなるだろう」と考えたのであれば早計であったろう。やはりエビデンスを幾つかあげて、国民の理解・了解を求めてから実行すべきであったろう。

安倍総理の政権を引き継ぐ気持ちはわかるが、国民に安倍政権が飽きられてきたから、政権が交代したわけだから、そこはもう少し考えてからの判断が良かったと思う。やはり、官房長官の役目と総理の役目と言うのは、重さが違うと言うことを今更ながら知った次第。

安倍政権の時代は、安倍総理の軽さというか、夫人の軽率さも含めて、担いでいる麻生、二階、菅、三氏のバランスが絶妙で、その中でも、菅さんが一番堅実に見えたけどなー。安倍さんの疑惑、麻生さんの舌禍を追及できなかった野党もだらしなかったけど、それ以上に安倍政権を蔭で支えたのは、官邸ポリスの面々であったのは間違いない。

安倍政権時代のあだ花であった、秋元司議員や河井克行・案里議員夫妻の事件も、菅政権には大いに影響してるだろう。また細切れになった野党も、政権を執るには細かい意見の違いはあっても一つの塊にならなければ、反与党の受け皿になれない、という自覚が少しは目覚めて来ても居る。

野党には日本人が体質的に嫌う共産党がいるから、中々一本化できないところがある。しかし、今自民党の驕り、自惚れ、過信、怠慢、違法、などを追及し、社会に知らしめ警鐘を鳴らしているのは、共産党である。しかも共産党は政治資金を国から貰っていない。自前で活動しているのである。立派である。ただ、共産党というイメージが、北朝鮮や中国を想像してしまう。反対意見を言ったら皆殺しにするとか、国民に自由を与えない、一部の幹部だけが恩恵を受ける、というイメージがあるから、素直に受け入れられないところがある。

だが、「自分たちの利権ばかり追い求め無策無能な政権」を批判する究極の野党としては、拍手を送りたい。不条理や矛盾や疑惑を追及するには、しがらみがあったらできないのである。



▼誰にも愛国心や郷土愛はある。小さいころの思い出によっては、反愛郷の人もいるだろう。高校野球や高校サッカーの試合がその典型である。誰でも自分が生まれた故郷代表校を応援する。県内で試合が始まると、それぞれの母校や自分に縁が近い学校に応援するが、県の代表として勝ち上がって来ると、直接的には知らなくても、自分の事のように応援するのである。普段は故郷のことを忘れているが、色んな県代表大会が始まると、ついつい応援したくなるのである。年末になれば、駅伝がある。高校大会もあれば、中学校から社会人までの、本当の県大会もある。

そして多くの人が、二つの故郷を持っている。子供の頃育った本当の故郷と、大人になって働く場所として移住している現住所である。大人になってからは、仕事場と自宅という故郷もある。しかし、故郷と言うぐらいだから、懐かしむ場所、過ごした場所という意味が込められているから、やはり「幼少期を過ごしたところ」という意味合いが強いと思う。

だから鮭のように帰巣本能が、人間の何処かにもあるような気がする。人間の場合、特にオスにその傾向は強いようである。女性は結婚したら、全く知らない町(家)に嫁ぐ。初めのうちはそこの中心に居る姑に虐められながらも耐え抜き、いずれはその家の中心なって、その家を乗っ取る。

メスの本能は、オスより遥かに逞しいのである。郷愁など糞くらえである。だから、男が年老いて故郷に帰りたいと言いだせば、「一人で帰れば?」と冷たく突き放すのである。

若い時には愛もあるし、健康もある。何処へでも着いて行ける。歳を取ったら、知恵も付き経験もある。今更、知らない町に行って、気を使った生き方なんてまっぴら御免である。長く住んだ街には愚痴も言える友達もいる。気を使わなくていい。趣味の習い事もしているし、行きつけの病院もある。長年のヘソクリもあるし、年金生活になった主人なんかいない方が気が楽である。今更離婚などしてもしなくてもいい。朝から晩まで家に居て、粗大ゴミのような存在の男なんて、中性になったメスには必要ない。惰性で一緒に居るだけで、家庭内別居夫婦は多いと思う。

「わざわざ別居するのが面倒くさい」とか、「一人になると生活がやっていけない」とかの理由で「同居しているだけ」という人たちは意外と多いのである。

「私、絶対この人とは同じ墓には入りたくない。死んでからまでこき使われ嫌よ。苦労ばかりさせられたんだから。自分だけ楽しんで、私のことお手伝いさんぐらいにしか思ってないんだから。貴方が先に死んで。貴方の年金はこれから私の物。私は、これからが青春よ。」と思ってる奥さんは意外と多いらしい。

 そうは言っても、いざ墓場に入る直前になると、これがまた情が移り、お茶飲み友達の話し相手となって、人生を行き抜いてきた戦友として、仲良くなる人も多いようである。公営駐輪場で時給千円のバイトをしているAさんは熟女婆姉の所に、使えもしない一物をぶら下げて、「蟻の戸渡り黒光り、背中にツンツンオジギ草」。羨ましいねー。 


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