敬天新聞9月号 社主の独り言

(敬天新聞 令和3年9月号 4面)


▼「天国から地獄」と言う言葉はあるが、「地獄から天国」と言う言葉は中々ない、と知人の向谷匡史さんが書いていた。向谷さんは作家だから語彙が豊富な上に機知があり、加えて空手の先生であり、僧侶でもある。仮釈放を貰った人たちの保証人も引き受ける篤志家でもある。

私は向谷さんの侍言葉で語る主人に対して、全く動じない市井の代表のような奥さんの返しが好きである。

人は誰でも一つの考えと、それに対する反対の考えも持っている。その対称の考えを奥さんの言葉で表現しているのではないかと尋ねたことがあるが、「いや、妻の言葉のままですよ」ということだった。それでますます一度はお会いしたいと興味を持った次第である。

そこで向谷さんが話題にしていた「天国から地獄に落ちるという言葉はよく使うが、地獄から天国に昇ると言う言葉は余り使われない」と言うことについて考えてみた。

その前に先ず、「天国」と言う言葉はキリスト教を中心に使われる言葉で、仏教での対比は「極楽」という。一方「地獄」はどちらでも地獄と使うそうである。

地獄は悪いことをした人が死後送られる世界で、生前の世界で行って来た罪を罰として受け入れる世界だから、拷問のような日々を終生送る世界である。これの裁定を閻魔大王様が下す(この辺は仏教的考えかなー?)。

キリスト教的地獄の状況はあまり良く知らない。仏教に比べてキリスト教は余り地獄を強調しないような感じもする。そこで、天国と極楽の違いだが、天国のイメージが優しい雰囲気がある。

私個人のイメージかもしれないが、天国には赤ちゃんの背中に羽根のついたエンゼルが居て、ギリシャのオリンピアンのようなドレスを着た女性がハーブという楽器を奏でてるイメージである。対して極楽は選ばれた者しか行けない場所で、やっぱり銭湯のくつろぎ場でゆっくりしている爺婆の光景が浮かぶのである。

天国には若い人が多く、極楽には老人が多い感じがする。天国がヨーロッパ的で、極楽がアジア的だから、そういう風に想像してしまうのだろうか?

そこで向谷さんの疑問である「天国から地獄」という言葉はあるが、「地獄から天国」と言う言葉は少ないに、私なりに考えて見た。私の浅はかな考えでの結論はこうである。それは、地球に引力があるからではないか? 上から下に飛ぶことは簡単にできるが、下から上には飛ぶことができない。下から上に昇るには一歩一歩大地を踏みしめながらしか登れない。上から下へは、何百メートルでも一瞬で落ちる。

自ら身を投げることもできるし、不注意でも油断でも落下はあることの教えだろう。

信用を築くのは大変な日数がかかるが、落とすのは一瞬である。これは弱肉強食の食物連鎖で下位の者を犠牲にして世の中が成り立っている現実を知り、生きることへの感謝と自分の幸せと不幸は常に紙一重であることの現実を知りなさいという煩悩を戒める意味もあるのだろう。と考えた次第である。


▼人は誰でも成長している。一見普通に付き合ってるような関係でも、それが果たして満足に付き合ってる関係かどうかは分からない。不満であるが、今はその場から逃げ出せない環境であるから、我慢しながら付き合っているのかもしれない。人間環境や職場環境が変わり、お世話になった人との関係も変われば、自然と縁も切れて行くのである。

ところが、面倒見たとか、お世話したとか思ってる側が、思ってるほど、相手側は感謝してない場合が多い。その証拠に離れてから電話番号や連絡場所を教えない人は多い。

同じ業界に居れば、それこそ腐れ縁として連絡を取り合わなければいけないが、業界が違うようになれば、これ幸いと縁を切るような人も多いのである。

上側に居た人から見れば、面倒見た、助けた、いい付き合いをしてきた、と言う認識だったとしても、相手側から見れば「苦痛だった」ということも少なくないのである。

私は携帯だけは、購入以来番号だけは一度も換えたことがないが、かける人も、かかって来る人も決まっていて、登録されている番号以外は出ない。また相手も必要な人だと思えば番号が変われば、変わったことを通知してくる。

大人になれば、付き合いの中心は仕事絡みになって来る。利害の無い関係での付き合いと言うのは、ほんの一握りと言うのが実情であろう。

昔の人物を思い出して電話を入れても返事がないのは、それは今「貴方と付き合いをしたくないか、しなくても今の環境、経済に全く影響がない」と言う状況である証拠である。

人は時と共に成長し変化している。そして限りある人生の残りを全うしているのである。余裕のある人ほど、昔の汚れ喘いでいた日々には戻りたくない。今それなりの地位にいる人は尚更である。

いい例が、昔散々ヤクザを利用し、ボロ儲けして財を成した人物で、今地元の名士になってるような者など、間違っても昔に戻りたくはないだろう。そんな者を追いかけるより、自分が光ることを心掛けた方が良い。

一流として輝いていれば、必ずまた向こうから訪ねて来るようになる。来なければ来ないで、それまでの縁だったに過ぎないのである。57年振りのオリンピックを見てつくづく感じた感想である。

前回のオリンピックで、昨年の世界選手権で大活躍し、大本命と言われる人が負けたり、また6大会もオリンピックに出た人もいる。そんな人もいつかは負ける。本人が持つ体力や技術には限界があり、人は誰でもいずれ落ちて行く。世間からは忘れ去られて行くものである。

世代交代は必ずある。オリンピックでメダルを貰えるのはひと握りの運動能力の優れた人。運もあるだろう。運動能力の並の貴方にメダルをくれるのは、長年連れ添った老婆かもしれませんよ。

老婆は1日にしてならず。シミもシワもタルミも前回の東京オリンピックの時には欠片もなかった溌溂(はつらつ)とした美少女だったのに、何とまー、年季の入ったお姿に。


▼一週間の命しかないセミが、蜘蛛の巣に捕らわれてバタバタと暴れていた。暫らく眺めながら、「今日はセミの何日目に当たるのだろう。今日は真夏日だから、もうラスト日かなー? それなら蜘蛛の餌になっても仕方ないか?」と思いながら、暫らくその光景を眺めていた。

それにしてもバタバタ暴れている。「生きたい、逃げたい」という暴れ方である。今日がまだ地上に出て来て四日目だったら、まだあと三日は生きられる。それにセミにとっての一日は人間にとっての一年とかかもしれない。否、人間は寿命が七十年だから、セミの一日は十年の長さかもしれない。

このセミにも家族がいるだろう。子供や妻が家で待ってるかもしれない。雄か雌かもわからないが、外で餌を取ってきて家族に食べさせるのは雄の役目と勝手に思い込んでいるのが昭和生まれの考え。ジェンダー論と言うのがよく理解できない。生きて行くには「銭んだー」論はわかる。蜘蛛はまだ出て来ない。自身が作った蜘蛛の巣の威力に自信を持ってるのだろう。

セミが疲れて動けなくなった時に悠々と現れて、食べるつもりかもしれない。そしたら妙にセミが自分の分身のような感じに思えてきて、長い棒を持って外に飛び出し、蜘蛛の巣を蹴散らした。セミは喜んで飛んで行ったように見えたが、蜘蛛の巣に絡められた時の糸が、「縦の糸は私、横の糸も私、織りなす蜘蛛の巣であなたを逃がさないわ」と羽根にくっついて居て下に落ちたかもしれない。

最近は地上にセミが沢山落ちていて、蟻の餌になっている。こういうのも弱肉強食の食物連鎖というのかなー。

しかし、次の日またセミが蜘蛛の巣にかかっていた。地上にも沢山セミが落ちていたし、もうセミの寿命が終わる季節になったのだろう。それに蜘蛛にも家族がいるだろうし、仕掛けた蜘蛛の巣に獲物が掛からないと、自分たちが生きていけない。

この自然の摂理を一時の同情で壊したり、助けたりすることが、果たして正義と言えるだろうか、と思いながら、今度は見て見ぬ振りをした。

アフガニスタンの内乱の話も、イスラエルとパレスチナの話も、どちら側に縁があるのか、どちら側にスタンスを置くのかによって、全く見かたが異なる。外国まで行って、どちらかの応援するとか、意見を言うにはもう歳を取り過ぎたが、せめて国内ではダメなものはダメと言い続けたい。


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