敬天新聞4月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和4年4月号 4面)



▼昔の大学は、だいたい運動部は硬派だった。そして縦の関係が厳しく、必ず著名なうるさ型の先輩が居て、恐れられたのである。そういう人で社会に出てからも、その名前が轟いている人と言うのはそんなにはいない。

一つには社会人になれば、学内での力学が働かない環境になるからである。硬派の力学は、基本はガキ大将であり、原動力は暴力である。そういう人たちが一番成功を収める可能性があるのはヤクザ社会であろうが、大抵の人は縛られるヤクザ社会には行かず、その周辺で生きる人も多い。

しかし若いうちは、先輩後輩の縁で何とか収まるが、所帯を持ったり、子供ができたりすると、一人離れ、二人離れ、となる。そしてやがてブローカーや事件屋に落ちぶれ、中には詐欺を業とするぐらいまで落ちぶれる者も居る。

世の中は矛盾だらけであるが、子供の頃から矛盾の中で生きてる者は、矛盾に慣らされて、矛盾を矛盾と感じないで生きる者も沢山いるだろう。だが、勉強すればするほど、世の中の矛盾や不条理が見えて来る。だからインテリになると、為政に対して反論したくなるのである。

日本の場合、極端な全体主義とか、共産主義ではないので、況してや人治国家でもないので、概ね国民は国の運営に満足している。自民党的運営が好きなのである。

権力者は利権の独り占めが好きだが、結局その周辺に蝟集(いしゅう)する者たちも虎の威を借りて、利権のお裾分けを狙った者たちである。これは日本だけでなく、共産主義社会、独裁社会、資本主義社会、法治国家、人治国家に限らず、世界中にある社会の形である。

こういう形は、人の業(ごう)でもあり性(さが)でもあるのだろう。人類がこの世に生を受けてから恐らくずっと続いてきた風習ではあったろうが、一人の者の業としては永久には続かない。常に壊れてはまた別の者が再建し、また壊されの繰り返しであったろう。これからも地球上のあちこちで、同じようなことが永遠に繰り返されるのであろう。

軍隊が強い時代があった。暴力団が強い時代があった。同和関係者が強い時代があった。ストッキングと女性が強い時代もあった。警察が強い時代もあった。今はジェンダー時代だそうで、それをカモフラージュに名前を名乗らない無責任な発言も多くなった。

言論の自由は尊重されなければならないが、名前を名乗らない個人に対する誹謗中傷が果たして自由の象徴と呼べるだろうか。世の中が変わっているのか人が変わっているのか、歳のせいか着いて行けなくなったなー。



▼自然環境の中での弱肉強食の食物連鎖の中で、天敵とか言う立場の関係であっても、環境が変われば仲良く暮らしていける上下関係もある。

それは誰かが、その敵対者の関係にある両者に対して、両者が満足する食料を与えた時である。動物園でたまに見る光景である。ああいう光景をみると、生きるために弱者を犠牲にして動物は生きているという実態がわかる。その最たるものが人間であるということも分かる。

例えば強い動物は一匹で狩りができるので、一匹で生きているし、弱い動物は集団で生きている。そして集団で生きている動物の中でも、襲われた時に逃げ足の遅い動物、体の弱い動物が先に犠牲になる。それが自然の摂理である。

人間だけが唯一、弱い者を助けてあげられる知性というものを持ってはいるが、それが世界中で生かされているかと言うとNОであろう。

怖さも連鎖があって初めて感じるもので、余りに歳や強さが離れていると恐怖を感じない。

例えば蟻はライオンやトラに睨まれても何も感じないだろう。ライオンが怒って、蟻の大軍を牙で噛んだり、爪で引っ?いても、何匹が死ぬかわからぬが、ライオンからしたら、戦いに勝って獲物を捕らえたという実感はないだろう。

寧ろ蟻は、ライオンの怖さがわからないから恐れず勇敢に戦い、ライオンの口や鼻から侵入し、内臓を食い散らすのではないか。普段蟻はライオンに襲われたこともなく、ライオンは蟻の天敵ではないから、ライオンの強さ怖さが分からないのである。

また学年が余りに離れていても、その人の強さや怖さは、よく伝わらない。また歳の差があんまり開き過ぎても、「所詮、昔の人」と思われ、その人の強さも伝わりにくい。同じ時代に同じ道を歩いた人、同じ環境にいる人しか、その怖さや奥深さはわからないのである。人間で言えば精々が上下四、五歳ぐらいの差しか恐怖と言うのは、通じないのではないか。

それにしても生命の存在と言うのは、不思議である。こうして考えると、生き物は生きていく上で一番大事なものは、食料ということになる。人間の場合、一応「衣食住」と言うが動物のように食だけにとどめて於けば、もっと地球の老朽化は防げたかもしれない。

とは言っても、大昔は人間も食だけで、衣も住もなかったわけで、それが人類の進化と共に、衣や住が伴うようになったのである。動物と違って、欲深な人間のことだから、いずれ「衣食住」だけでは満足しなくなることは見えている。次は何を望むのか知らないけれど、その分地球の自然がすり減っていくんだろうなー。

とにかく、地球に対する感謝、自然に対する感謝、先祖に対する感謝、今生きていれることに感謝して、人に生物に優しくできる環境を創り出していくことが、一番大事なことだろうと、この歳になってやっと思えるようになりました。



▼最近は、日本語が大いに乱れている。最近特に気になるのは、「過ぎる」という言葉を使って、美を強調する表現である。「美しすぎる」とか「スタイル良すぎる」とか使う。 「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉を知らないのだろうか? 「過剰に過ぎたものは足りないのと同じである」と言う意味である。

従って「美しすぎる」ということは、ピークの美しさを過ぎているので、少し薹(とう)が立っているとか、衰えかかっている、と解釈すべきであろう。

もし「美しい」をもっと褒めたいなら、「美しい」の前に「すごく」とか、「とても」とかの副詞を入れて表現すべきである。ところが最近週刊誌などが使う「美しすぎる・・」という表現の人物の写真を見て、「???」と思う時がある。あれって、対象者を持ち上げる(掲載に協力してもらう)ためのヨイショ表現なのかなー、とつくづく思うのである。

それとも、そう表現することで、読者が騙されて本が売れるのかなー?  「美しすぎる議員」とか、よく使われる代名詞であるが、本人は代名詞がつけば当選のチャンスも出て来るから、満更でもないのだろうが、余りに「?」のつくような「過ぎる」は止めて欲しいものである。世界から見た時に、日本人の目を疑われるではないか。

中国や韓国は隙あらば日本人の弱点を晒そうとしているわけだから、日本人の美的感覚はこんなものかと思われてしまうではないか。せめて男なら加藤剛、女性なら吉永小百合級を、美男・美女という表現にしないと。

美人の形も流行り廃りもあるだろうし、時代と共に多少は変わっていくかもしれないけど、やはり基本の部分では、あまり変わって欲しくないねー。

最近は芋の煮っころがし級から、大根級まで、美に対する意識までがジェンダー時代であるから、豚まんもアンパンマンも、み〜んな個性があって美人な時代である。要するに本音を言ってはいけない時代である。相手が傷つくから配慮するということだろうが、ブサイクをあざ笑ったり、バカにするのは、時代背景から言っても宜しくはないが、綺麗な人を綺麗と言うのは、別に悪い事ではない。

神代の昔から女性は美を競い、男はその美女を手に入れるために、争って来た。美人が得をするのは自然の理である。争いが嫌いな庶民は、自分の器量に会ったそれなりの女性と一緒になった方が幸せなのは言うまでもない。美人もつらいが、一緒になった男もそれなりに辛いのである。一抜けた〜。



▼黒門帳の利蔵親分がコロナに罹っていたらしい。コロナと言えば今や誰もが一番恐れる病気である。コロナでない人とさえ会うのが憚られる時代、コロナに罹ってる人と会うなど、とんでもない暴挙である。恋愛中の若者でさえ即座にNОと言うだろう。

ところが、利蔵親分の老女フレンドは「コロナぐらい怖くないわよ。早く来てよ」と宣(のたま)い、利蔵親分もそれに応えて、出掛けたという。ジジババも結構やる時はやるようである。

普段は「蟻の門渡り黒光り、南高梅の垂れ下がり、ああ汚ねぇ〜」と呪文を唱えている利蔵親分も、コロナも恐れぬ婆の純愛に満更でもない様子であった。中年は打算もあるが、老年は世の中を知り尽くし、人生もあと数年となると、人生の色んなものが見えてくるし、世間の目など気にもならない純愛な気持ちも芽生えるのだろうか?

と思っていたら、利蔵親分の老女フレンドの新しい情報が入った。ある日突然「信じていいの?」と涙を流したそうである。老女に突然ボケが進行した現象なのだろうか? 体の殆どから水分が枯れ果てている年頃なのに、まだ涙は流れるようである。

その涙は何を意味するのだろう。筆者なら困り果てて戸惑う情景であろうその雰囲気を、流石に酒も女も博打も人の倍以上やったと豪語する兵、老婆の意を組んだのか、何と「信じていいよ」と答えたという。ドテチン(聴いた者がひっくり返った音)。

どの面下げて黒門帳の親分が、そういうセリフを宣ったかは知る由もないが、相当酩酊していたのは想像がつく。「信じていいの?」「信じていいよ」。十代、二十代の若者のセリフではない。歳は書けないが、老男老女のセリフである。しかも涙付きである。

肌も歳のせいか脂分が抜けてカサカサして、スーパーで貰うナイロン袋も手を湿らせないと開けれない歳を当の昔に過ぎた年齢の二人のセリフである。貴重な貴重なセリフである。女性の「信じていいの?」に対して、そんなに軽々に「信じていいよ」と言っていいのだろうか? それとも利蔵親分の作り話だろうか? 講釈師のように見て来たような話を大袈裟にする親分ではあるが、嘘を言う人ではない。酒が言わせたのだろうか? 罪な人である。

それにしても「信じていいの?」は何を意味し、「信じていいよ」は何を意味するのか、大学では体育学部から政経学部に転部した凡人の筆者には理解ができない。

筆者に会う度に老女フレンドの事を事細かに説明するということは、筆者に自分たちの純愛(獣愛?)を見届け、書き続けてくれと言う意味だろうか? 本人たちは、現在版「愛と死をみつめて(ミコとマコ物語)」(日活映画・吉永小百合と浜田光夫主演)を演じているつもりだろうか?

これからも目が離せない老人版「ミコとマコ物語」の純愛を引き続き観察することにする。


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