敬天新聞6月号 社主の独り言(甘口)

(敬天新聞 令和4年6月号 4面)



▼5月の2週目に田舎に帰ってきた。故郷に帰って新鮮な空気を吸うと、何故か童心に帰るのである。子供の時に見た海や山に郷愁を感じるのであろう。

私が生まれた故郷は寂(さび)れる一方なので、近所の女性は顔見知りではあるが、男性は歳が離れすぎて知らない人が多い。みな何処かに働きに行ったまま帰らないのである。働きに行った先で所帯を持ち、生活しているのだろう。

田舎には働き場所が少ないために、公務員か農業者、漁業者、土建業者、小さな商店の経営者、銀行員ぐらいしか働いてる人はいない。後は年金暮らしの高齢者だらけである。

そんな町で、柔道関係者にとって楽しい出来事があった。柔道の斎藤仁選手(故人)の息子さんが今年の全日本選手権で優勝したのである。

父親の仁選手は南有馬町に武道館ができたお祝いに講演と実技指導に来てくれた人で、今も武道館に大きく記念の写真が飾ってある。彼自身に書いて貰った揮毫「剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)」というTシャツも記念に作った。当時、国士館高校の総監督であった河野一成先生との縁で実現できたのである。

時代が変わって来たので、武道の指導も大幅に変わってきたようである。田舎には青少年の武道指導に熱心な溝田良英先生と言う方がいらっしゃる。元々は島田一郎先生という警察官の方が始められた少年柔道であったが、島田先生が転勤で移動された後も溝田先生が一人で教えられているのである。以来もう五十六年が過ぎたそうである。

有名選手も多く出ている。オリンピック選手や相撲取りまで居るという。溝田先生も後期高齢者を過ぎられたようなので、体に相当負担があるようだ。

最近は子供たちの参加も少ないようであるし、武道そのものの人気も落ちているようである。無報酬で五十年以上も子供たちの指導をされて来られたわけだから、柔道に対する情熱以外の何物でもなかったろう。

それに忘れてならないのは奥様の理解である。私からみれば仏様のような理想の奥様像である。私が大学でヤキを貰って帰郷し入院した島原温泉病院のナイチンゲールだったのである。

傷心で帰郷した私から見たら、ナイチンゲール以上の優しい人だった。いつか恩返ししたいと思っている。



▼戦後、若者の鍛錬教育として授業に取り入れられたのが、柔道、剣道、空手などの、いわゆる武道だった。体力を作る目的の通常の体育の他に、精神的要素も多分に含んだ教えが含まれていたのである。

その目的も十分に達したのか、或いは時代が敬遠したのか、最近の武道は昔の教育から遠く離れてきている。国家的授業ではなくなってきているために、習う子供たちも確実に減っている。

人気はサッカーや野球である。プロ世界があるスポーツが主流であり、団体で行うが個人技が重宝される。発展途上国や防衛を任務とするような仕事以外では、あまり武道は尊重されなく成ってきたのである。

私のふるさとには大きな武道館がある。当時、箱物建設が地方の流行であった。優先順位はどうやって決まって行くのか知らないが、幾つも候補はあった。そんな時田舎で力のあるのは、町長とか議長とか、町の有力者なのであろう。

当時の町長は武道館建設にはあまり深い興味を持っていなかった。その頃は、小学校の講堂を借りて練習していたのであるが、屋根も壁も壊れて、雨漏りも酷く、かび臭いところだった。

私も町長に掛け合い武道館建設の重要性を訴えた一人だった。最初は優先順位下位だった話だったが、町長も徐々に理解を示すようになった。

当時、町長に代わって対応したのが、田中次廣助役(現南島原市議会議員)だった。彼は実務は優秀である。

その後何年もしないうちに、大規模町村合併が始まったので、あの時町としての武道館建設が成されていなかったら、いま実現できていたかどうか、分からない。恐らく時代が武道教育を受け入れにくい環境に変わって来ているために、あの時の決断が無かったら、未だに武道館はできず、総合体育館の片隅での練習が精一杯だったのではないか。その証拠に今は学校跡地に大きなサッカー場が建設されている。

ただ、島原半島でも南高地区(現南島原市)は交通のインフラ整備が極端に遅れているために空港や長崎市などの県中心地からの不便さが際立つ。そこを整備しない事には、観客の動員も難しかろう。

諫早から愛野までは高速が繋がるみたいだが、愛野から島原半島の真ん中にある諏訪の池辺りまで真っすぐ高速道路を作れば、経済成長を齎し若者の流出も防げたのに、その努力をしなかった国会議員レベルの政治家の無力さと能力の無さが招いた悲劇である。

もう私が生きているうちの実現は夢のまた夢であろう。それでも私は、どんなに交通の便が不便であっても、生きてる限り、自分を育ててくれた故郷に帰って恩返しをするつもりである。

今月は市長選や市議会選があるらしく、暫は喧(かまびす)しい時期になるだろう。

できるだけ、田舎の事には口を出さないことにしているが、高校の先輩である松本市長さんには勝って貰いたいし、中学の後輩である井上末喜君にも当選して貰いたい。当然田中次廣氏には上位当選の実力を示して貰いたいと願っているのである。



▼日本の事を「日出国(ひいずるくに)」と呼んだ外国人がいたらしい。太平洋以西の大陸から見たら、一番東側の国に位置するから、当然一番早く太陽が見える訳で、そのことを表現することと多少の敬意も入っているニュアンスも感じる。やはり朝日には、若さがあり、夢があり、希望があるように感じる。

それに比べたら夕日は、哀愁、郷愁、終わりの始まりみたいな印象を受ける。大きな太陽が海の中に沈んでいく様は、生きるという大役を終えたという雰囲気にも似ている。恐らく百年前の人たちも、千年前の人たちも、感情としては朝日や夕日に同じ思いを持ったのではなかろうか。

ということは、若者の事を「日出者(ひいずるもの)」と呼んで、高齢者を「日沈者(ひいしずむもの)」と呼んでもいいのかもしれない。そういう意味では私もすっかり日沈者になってしまった。コロナ禍がより拍車をかけたようである。

今までの習慣や風習、仕事の形まで変わって、一気に時代が進んだ感がある。新旧の入れ替わりも進んだようで、時代遅れな人になってしまった。テレビを見ていても、今の若者の笑いに着いて行けない。全く面白くないのだ。

バラエティー番組と言うのも、タレントがひな壇というところに座って自分たちだけで騒いでいるだけである。テレビを見ているのは高齢者と子供だけなのに、視聴者の事を全く無視したテレビ制作である。

趣味を持ってる人は、日沈者になっても楽しく過ごせるのだろうが、私のように趣味も持たない、老人会の輪にも入れない者は、細々と現役を続けていくしかないのかもしれない。

私が住んでる所からは、幸いにも朝陽も夕陽も見えるのだが、時々夕陽が沈む直前に黄金色で大きく見える時がある。あれは何なのだろう。子供の頃に帰ることも忘れて夢中で遊んでいる時、母親が「もう帰る時間だよ」と呼びに来た光景にも似てるし、学校帰りの夕暮れ時にも似ている。

もう自分の子供のような年齢の人が社会の中心で活躍しているのである。時の流れをつくづく感じる今日この頃である。



▼並木ちゃんは「あの〜」と言う時、白目を剥いて話す癖があるが、良い人で4月14日で29歳になった。

娘の秀美ちゃんは「あの人は気を付けて」と言っていたが、早稲田を出たという息子は、もう少しで「お父さん」と呼びそうであるそうだ。

えっ、それは娘の亭主になるってこと? じゃ〜、ミコはどうするの?本音はミコのこと嫌い?乳首が南高梅だから?

マスクを外したら秀美ちゃんは、思ったよりいい女だそうで、利蔵親分は秀美ちゃんの方に心変わりしてる感じもするね。罪な男だね〜。

「陰毛痒い痒い祖にして爺婆は漏れる」。

マコとミコの純愛物語を読んだ読者から、「こちらには90歳(卒寿)を超えるハチ公物語がありますよ」という連絡を頂いた。傘寿(80歳)を超えた通い男がいたらしく、毎日せっせと通っていたそうである。

あんまり毎日出掛けるものだから、傘寿爺の息子が後を着けたら、卒寿超婆との愛が発覚したのだそうだ。それで非常にも息子は、二人の仲を引き裂いたというのである。

そうとも知らず卒寿超婆は来る日も来る日も、傘寿爺が来るのを待ち侘び、玄関のドアを開けているという。近所の人が「危ないから夜は玄関は閉めないと」と注意しても、「あの人がいつ来るかわからないから」と、今も毎日玄関を開けて待っているのだという。

純愛とはかくも無情で哀しいものなのか。近所の人も初めは「いい歳して色狂いしてみっともない」という見方をしていたらしいが、あまりの痛ましさに最近では同情の声頻(しき)り、なのだという。

「女は灰になるまで」という言葉があるが、心を言うのか、体を言うのか知らないが、傘寿爺が訪ねて来るのを只管(ひたすら)待っているのだという。傘寿爺はボケが進んで、今では養老院に入っているらしい。

そうとも知らず、卒寿超婆は来る日も来る日も玄関のドアを開けて待ってるというから、涙無くしては語れない「爺婆ハチ公物語」である。

マスクを外した娘を見て、邪(よこしま)な気持ちが芽生えた黒門帳の利蔵親分にも、ち〜と見習って頂きたい情報だった。


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