敬天新聞7月号 社主の独り言(甘口)

(敬天新聞 令和4年7月号 4面)



▼昔の子供は大抵が親にほったらかしにされて生きた。別に今の時代にほったらかしにするような無責任な親(物や娯楽が満ち溢れ欲求に耽溺する親)だったわけではない。国が貧しく親たちはがむしゃらに働き、子供の面倒を見る余裕などなかったのである。

何処の家庭でも、子供の面倒は長女が見ていたし、長男は早くから働きに出て、仕送りをして家庭を助けていた。それが普通の家庭だった。その結果が、日本の経済成長をもたらしたのである。

それと公衆道徳の高さも経済成長に大いに役に立っているだろう。家族が多かったから、そういうこともできた。また爺さん婆さんも一緒に暮らしていた「大家族主義」だったからから、色んな風習も伝えられ受け継いできた。

それが夫婦のプライバシーが無い、子供のプライバシーが無いと、核家族主義になり、結婚する自由しない自由、子供を産む自由産まない自由に繋がり、一人一人の人権を重んじる時代になって少子化に繋がってきた。

私が住んでるマンションでは、お爺さん夫婦が娘が運転する車で孫の幼稚園通いを見送るシーンをよく見かける。それも車に乗った後も、窓を開けて「行ってらっしゃい」と手を握って、見送っているのである。

あそこまで至れり尽くせりされてる孫は、幸せと思うのか、当たり前と思うのか。爺婆の方が究極の幸せと思ってる感じである。日本の幸せ度を見ている感じがする。

一方で自分の子を虐待する親もいるし、親に捨てられ、施設で育つ子もいる。そういう被害に遭う子を無くそうという取り組みも行われている。

仮に人々を平等に扱ったところで、人々の心がそれぞれに違うので、同じことをしてあげても、歓びと感じる人も居れば、いらぬ世話と感じる人も居るのである。それは永遠のテーマであろう。

人が組織を形成し、人が国を築いている以上、どのような国になるかは、上に立つ人の裁量と考えで決まるところもある。時代に翻弄されたり、歴史に押しつぶされたり、隣国との戦いで消滅する国もあったりするだろう。

少子化になればいずれ国力が落ちて行くだろうし、やがてその反省に立って、またいずれ大家族主義の良さが見直されるかもしれない。結局、歴史も、人生も、過(あやま)ち、修正を繰り返しながら過ぎ去って行くのかも知れない。



▼先日、知人の老婆が「毎日毎日、『晴美さんて綺麗だなー』、て言ってるけど、私とどっちが奇麗なの?」と聴くので、即座に「あっち」と答えたら、「そんなに綺麗なの。それじゃ仕方がないね」と妙に納得していた。

本人は、自分で「その次」ぐらいに解釈したのであろう。こういう前向きな感覚は幸せをもたらすのである。

あの人には勝てる、あの人には負ける、と心の中で思うのは自由である。どう見ても勝ててないのに、勝ててるような態度をするのは醜いし、フォローもしにくい。自分の身の丈を考えて行動する人が福を掴んだりするのである。

しかし、若い時の恋愛は「見た目」が90%以上で、見えない心も、金も欲しいとは思はない。薄情さも冷たさも、寧ろ恋の炎に感じたりするのである。

女性で見た目が美しい人は本当に得をする。金も幸も掴めるのだ。だから、より美しさを求めて美容整形までするのである。韓国では親が積極的に進めるという話も聞いたことがある。就職や縁談にも美は影響するのだという。

しかし、絶世の美女だと思って一緒になって子供が産まれたら、妻の面影の欠片も無いほどの顔だったら、夫婦の仲はどうなるのだろう。

「子ができて初めて知る妻の顔、今日の驚き何と例えむ」。「子は宝我が家の明かり鎹(かすがい)と、妻に感謝の顔も忘るる」。

一緒になってしまったら、もう顔じゃない心だね。況してや子供まで出来て何の不足があろうかと、必死に生きてあれから40年。子は巣立ち、孫も出来て独り立ち、残された爺と婆。婆は髭も生え声も野太くなった。爺は痩せ声は甲高くなった。お互いに中性化してるのである。

ただ女性は幾つになっても毎日しっかり鏡を見た方が良い。特に老婆になったら。

ところが若いころは、毎日のように見る鏡も、歳を取るに従って面倒くさくなるのか見る回数は確実に減ってくるようだ。いや注意が散漫になるのだろう。

若いうちは皮膚感覚も敏感だから、ご飯粒が口の周りについても直ぐに気づくし、ハエが止まっても直ぐに気づくが、歳を取ったら、ハエが止まろうが、蚊が刺そうが中々気づかない。

ご飯粒が口の周りにくっ付いているのなんてしょっちゅうである。口の中が入れ歯だから、余計に鈍感になってしまうのだろう。

入れ歯を外すと口の上側が皺皺になる。この皺皺は、何故か男より女が多い。肌が柔らかいからだろうか? 高齢者もそれなりに大変なのである。



▼人生には節目と言うのがある。それがいつだか自分では中々気づかない。潮時というのも中々気づかないものである。過ぎてしまってから、あの時がそうだったんだな〜、と思うものである。

女性との出会いもそうである。過ぎてから後悔する恋もあるのだ。

「これからどうするでぃ〜?」というのが口癖の黒門帳の親分に対して、私はいつも「面倒も見れないくせに、他人の人生に口を出すな。しかもその言葉は、もう人生が終わったとか、挫折したとか、今を否定する言い方じゃないか?

人が一生懸命頑張っているのに。俺は迷ってない。まだ走ってる最中だよ」と怒ってよく席を立っていたものである。

しかしよく考えると、黒門帳の利蔵親分はそういう意味で「これからどうするでぃ〜?」と使っていたのではなく、人生の終わりを生まれ故郷の郷里に帰るのか、それともこのまま住み慣れた東京で過ごすのか?

を問うていたのではないかと、ふと感じたのである。これは一定の年齢になったら、誰もが考える悩みの一つなんだろう。帰巣(きそう)本能である。

女性にはこのような考えは起こらない。女性は知らない街に嫁ぎ、姑に虐められながらも逞しく生き、いずれはそこの主になる。そこを故郷にしてしまうのだ。だからしっかりとそこに根を張る。

男は現役で仕事をしている時は、仲間も居て、部下も居て、住み慣れれば居心地もいいが、一旦現役を退けば、一人減り、二人減りと友人が減って行くのだ。周囲に溶け込めない人は尚更である。そんな時にふと郷愁に目覚めるのである。

だが、故郷にはもう自分の居場所が無いことを、その時は気づかない。遊びに行くだけなら、昔の友人も歓迎してくれるが、帰郷して住むとなったら、「よそ者」扱いされるのである。50年という歳月がそうさせるのであろう。

周囲にもそういう人達が増えてきた。一緒に着いていく妻よりも、着いて行かない妻の方が多いとも聞く。

てっきり酒豪で酒乱の利蔵親分の嫌味とばかり解釈していたが、黒門帳の利蔵親分は、人生の分岐点がやがて近づいてくる私に対して、単に「これからどうするでぃ〜?」と優しさで尋ねていただけであることを、ふと気づいた今日この頃である。



▼後期高齢者恋愛相関図発表の場的様相を呈してきたこのコーナーであるが、あくまでもマコとミコの物語が中心である。

マコの酒が入った時の自白を基にストーリーは出来ているのだが、講談好き落語好きが特徴であるため、多少の誇張があることを御承知おき頂きたい。また出演者は多岐に亘っていますが、あくまでもミコの店に出入りする人たちだそうです。

但し筆者は、マコ以外の人とは会ったことはない。マコは電話をして直ぐに傍にいる人に換わろうとする癖がある。

私は会ったことも無い人と話をするのが苦手で、電話には出ない。その為に会ったことも無いミコから「ま〜失礼な人ね〜」と恨まれてしまうのである。

マコは自分が話好きだから、誰とでも直ぐに話し出し仲良くなれるタイプである。

実はマコには最愛の奥さんがいて、先月、ローンで買ったマンションを無事に払い終えたそうである。そこで近所の喫茶店に奥さんを呼び出し、「色々とありがとうな」と言ったら、奥さんが「お父さん・・」とうるんだ声で言いながら両手で左手を掴んで来たそうである。

何故左手かと言うと、マコは右手でビールを飲んでいたから、右手を握ったらビールが零れるから。冷静な奥さんである。恐らく奥さんは「お父さん」の後に「私こそありがとう」と言いたかったのだろうが、言葉に出なかったのであろう。

マコちゃん、アンタはえらい。顔も広いが頭の体積も重いマコは、やる時はやるのである。

ところで大金持ちの須磨さんは、「健康吹き矢」と「麻雀」が趣味であり、米屋の中野さんは夫婦で参加するそうだ。「如何(いか)にも」と言いたいために、わざわざ「タコにも」じゃなかった「イカにも」と言い直すところが後期高齢者婆にモテる秘訣らしい。

ところが何と22歳の女性とも一緒に風呂に入る仲らしい。それもマコが入ってる風呂釜の中に後ろ向きで。

目の前にパッと開いたピンクの蕾。おい、ちょっと待て。それって老女と入る時と同じスタイルじゃないかい? 

そこで見比べたら幾らなんでも「蟻の門渡り真っ黒け南高梅のぶら下がり」と呪文を唱える気持ちが分からなくもない。意地悪なマコ。


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