敬天新聞12月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和4年12月号 4面)



▼今から60年前頃までの日本の世の中の構図は「作る人、売る人、買う人」という単純な三分割だった。それが今や、「作った物を運ぶ人」、「それらを宣伝する人」、「宣伝・広告を請け負う人」が、確実なビジネスに成長し、尚且つ「そこに投資する人」、「その投資を集める人」、「投資と称して集めた金を持ち逃げする人」までが確実なビジネスになって来ているのである。

日本に道徳が無くなり、師弟関係が無くなり、親子関係が無くなり、行きすぎた平等、勘違いした平和に力を入れ過ぎた結果であろう。今のままの日本の成長が看過されるなら、やがて日本は多国民社会となり、国民は放浪の旅人になってしまう可能性大である。

国際社会の常識を備え、国際社会に馴染んで行くのは構わない。だが国内では、日本国の法律、日本国の憲法を作って、それを順守することは大事である。我々だって外国に行けば、その国の法律を遵守し、その国の風習に従って行動するのは当然である。

勿論「あれっ?」と思うようなその国の慣習に出会うことはあるが、その国の事はその国の民に任せるべきで、出しゃばるべきではない。縁があった人は、その限りでは無いだろうが。

時々勘違いした日本の若い女性が、中東など女性が頭から布を被り肌を露出させない風習のある国で、ミニスカートにTシャツみたいな格好で歩いていて顰蹙を買うことがあるが、ああいう非常識な行為が惨劇を招くことがある。郷に入っては郷に従うというのが基準である。

国でも社会でも、成長するに従って複雑になるのは仕方がない。人の考えが十人十色であることも知っている。

しかし、常識や基準が時代と共に変わったとしても、人を騙すことや欺くことが、正常と言われるような世の中にしてはいけない。その警鐘の鳴らし方にも色々あろう。 世の中に無駄に生まれて来る人は一人もいない。その一人一人がいて、世の中を形成している。夫婦愛睦まじくもよし、独りでテレビを相手に語るもよし、そうやって年は暮れていくのである。コロナに学んだことも多かったな〜。



▼爺婆(ジジババ)は、やっと覚えた携帯でのメールで絵文字を使うのが大好きである。文字にプラスして自分の思いを絵でも表すのである。

ところが先日テレビでやっていた十代への調査で、絵文字を否定するような言葉の羅列に驚いた。「了解」の事を、略して、「りょ」とか、「り」と言うのにも驚いたが、絵文字が時代遅れと言うのには、驚いた。 

爺婆は時代の流れ、早さには着いて行けない。十代の子供とメールのやり取りをする機会も無いので、別に構いはしないが、歳と共に受け取り方が違うのを初めて知った。それなら何の為の絵マーク何だろう? その雰囲気、思いを絵に表現したのが絵マークだったのではないのか。

それなら交通標識なども、若者から見たらダサく見えて、替えて欲しいと思っているんだろうか? 交通標識は基本的に運転手に向けて作られているから、関係ないのだろうか? しかし子供を対象にした標識もある。やはり子供を対象にした標識は、子供の意見を取り入れるべきかもしれない。

爺婆は覚えるのも遅いし、使えるのも限られている。若い人のように流行に着いては行けない。それに絵マークは自分の思いを伝えるのに便利である。泣き顔や笑顔、ちょっと口では言いにくい「好き」なども、その時の雰囲気で大きなハートマークや小さなハートマークで表したりする。 色の違いもよく分からないが、その時の雰囲気やバランスであろう。若者は、色や大きさまで注文を付ける。爺婆にはそんなに深い意味はない。深く読み取る力も、もう残されていない。  

筆者の場合、メール相手は殆ど爺婆だから、絵マーク多用が普通である。高齢者はハートマークが多いと喜ぶ人が多い。筆者から見たら若い女性と言っても、50代である。

幼馴染や同学年の同窓生の異姓と会う時は、何故か心がときめくのは、若者も老人も一緒である。若者には理解できないだろうが、爺婆にもときめきはあるのである。

それ以上に老後の生活の方が気になるけどね。



▼都会では近隣の関係が強くないから、長く独身で居ても生きていく上で不都合な面は余りないけど、地方では意外と他人の目が煩く、生きづらいところがあるらしい。

片方が亡くなって独り身と言う人は、意外と伸び伸び、さっぱりと生きているようである、女性の場合。男性の場合は、働いてる時期は交際範囲も広いが、辞めた途端にいきなり世間が狭くなる。そして家に閉じこもるのであるが、これが中々うまく行かない。

妻から粗大ゴミ扱いされて迷惑がられるケースは多い。女性も一日中一緒に居られると、扱いに困るのであろう。主婦として女同士の近所付き合いに慣れてしまっているから、違和感が身についてしまっているのである。

ところが、そういう女性に親しく話を聴いてみると、本音は意外と親しくもないのだが、人生をうまく乗り越えていく術として付き合っている関係も意外と多いようである。だから結構上手く、楽しく付き合ってるように見える関係も、不満も疲れもそれなりにあるようである。

だから、もし老後を楽しく暮らせる異性と出会うことができたなら、一緒に暮らしてみたいとか、この町から出て生きてみたいと考えてる人は意外と多いのかもしれない。

しかし、現実には老後は幾らも残っていないし墓守りとして生きている現実もある。その町から出ていけたらいいけど、兄弟や親せきとのしがらみもある。それに何よりも、先立つものが無い。老後の心配は、とにかく年金頼りなのである。

残りの人生が少なくなって初めて、人生の機微もわかってくる。これが若い時に分かっていたらな〜、とか誰でも思うことだが、その頃にはもう人生の残りが少なく、新しく何かをやろうとするには、先ずは身体が着いて行かないのである。

この経験と知恵に、若者だけの特権ではあるが、その若さがあったら、どれだけ幸せだろうかと誰もが思うことであるのだが、神様・仏様がそんなことは許してくれないのである。

やっと人生の機微が分かる歳になったと思ったら、今度は身体が思うように動かない。人生は矛盾だらけなのである。



▼お金には足が付いてるから、隠語で「お足」と言うのだそうである。

それにしても一生懸命可愛がっているのに直ぐに逃げてしまうから困る。という話しをしていたら、あの美人ママが、「浮気するのは人間だけじゃなく、お金も浮気するのよ」という話しをした。「お金から見て、魅力のある人と言う人がいると、お金は迷わずそちらに歩いて行く。自分を上手に使ってくれる人の方がやはり魅力的なのよ。人もお金も魅力的な人には弱いのよ」と言うのである。言い得て妙である。

その例から言えば、筆者にはまだまだ魅力が足りないということを実感した。男であれ、女であれ、魅力的な人の周囲には人が集まる。人が集まれば、仕事が回り出し、お金も集まると言うのは、理解できる。人が人を判断するのは分かるが、お金にそれだけの判断力があるのだろうか?

しょっちゅうお金が逃げていく実態は何度も経験しているので足が付いていると言うのは理解したが、「浮気する」と言うのは、お金に心が無ければ人を好きになれないだろうから、人に魅力を感じるのというのは心もあるということである。

しかし、浮気には本気もあれば、遊びもあるだろう。水商売に代表する騙し合いのような疑似恋愛もある。片や疑似恋愛であっても、片や本気と言う場合もあるだろう。その時金も浮気するのだろうか。

この二、三年金が入ってこないな〜、と思っていたら、男としての魅力が無くなっていたのか。老人力も身について、掌の水分が消え、スーパーの袋も水の入ったスポンジに手をつけないと開けることさえできない今日この頃、水も滴らない男であることを、金にまでも見透かされていたのか。くやしい!? 

若い人には、分かるような分からないような禅問答であるが、歳の暮れになり、寒さが身に沁みる頃になると、尚更身につまされる何となく理解できる話なのである。

今年も一年間ご愛読頂きまして有難うございました。


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