敬天新聞 令和5年2月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和5年2月号 4面)



▼今年も初夢は見なかった。一富士、二鷹、三なすび、と言うが、普段もそれらしき夢を見たような、見ないような感じだが、元旦の日に見たことがあったかな〜。

夢と言うのは見る時は立て続けに見るが、起きた瞬間に忘れる事が多い。たまに夢をハッキリ見て、しっかり覚えている人もいる。

ところで一富士、二鷹、三なすび、ってどういう意味だっけ? 一富士、二鷹は何となくわかる気がする。富士山という山は日本を代表する山であるし、日本の何処にでもある名称である。例えるなら「行く先の〜何処にでもあるオラが富士〜自慢と誇りの故郷愛」という感じであろうか

鷹も爪や嘴(くちばし)が鋭く狙った獲物は逃さないという感じで、食べ物には困らない一年になるというような趣旨か。

ところで三番目の茄子というのは、どんな意味があるんだろう? つるんとした濃い紫色の野菜である。初夢の代表に選ばれるぐらいだから、何か縁起がいい事に繋がる理由がある筈である。

「秋ナスは嫁に食わすな」という言葉もある。秋ナスは美味しいから、姑の立場からの嫁に対する苛めや嫉妬に繋がる意味合いで使われたり、逆に秋ナスは体を冷やすからこれから子作りする嫁には健康に良くないという、親の優しさから出た真逆の意味合いもある。

また「秋ナスは姑の留守にばかり食い」という古川柳もある。いずれにしても秋ナスは美味しいという意味だろう。ちなみに筆者は焼きナスが好きである。

結局、意味もよくわからないまま日本で見る理想の初夢のようであるが、単に静岡の名物を並べただけという説もあるらしい。

毎年年初に夢と理想を掲げながら、一度も実現することもなく、高齢者になってしまった。若者に夢があるように、爺婆にも夢はあるのだが、その夢さえ忘れてしまう毎日なのである。

食前に飲む薬が一個、食後に飲む薬が六個。他に目に効くと言われたサプリメント、糖尿に効くと言われたサプリメント、腰痛に効くと言われたサプリメント、免疫力が高まるサプリメント、よく眠れるサプリメントも飲んでいる。今ではどれが効いているのか、効いていないのかさえ分からない。

ただ五回打ったコロナワクチンのお陰様なのかこれらの薬やサプリメントのお陰様なのか、幸いにも一度もコロナには罹らなかった。

日本人特有の他人に迷惑をかけないマスク使用のお陰様だったかもしれないと思った年初の感想であった。




▼新年早々、新しいパソコンに入れ替えたのだが、無線でネットに繋ぐWi‐Fi(ワイファイ)が使えない。同じ機種の最新版だからと思って入れ替えたのだが、どういうわけかWi‐Fiがウンともスンとも繋がらないのである。

家のWi‐Fiだけじゃなく、スマホのテザリング(ネット通信の中継機能)まで繋がらないのだから、どうにも始末に負えない。しかもこちらは全く電気に弱く、覚えるまでに時間もかかる。記事は書けるのだが、事務所に送れない。

今回、一週間ほどパソコンに触れなくて気づいたことだが、パソコンがなくては何もできない人間になっていたのだ。記事を書くのは当然のこと、ニュースを見るのも、情報を知るのも、すべてパソコンに頼っていたのだ。

テレビなんか出演者が自分たちだけで騒いでいるだけで、全く面白くない。それで一週間、久しぶりに本を読んで過ごした。電化製品は進化し続けるが、爺婆は進化どころか脳も体も後退あるのみ。

それにしてもいつの間にかパソコン人間になっていたのだ。この新しい機種に慣れて使えるようになった頃には、またパソコンは進化してるだろうし、この次入れ替える時はもっと苦労するだろうな〜。

 

パソコンの良いところは、ひらがなを打ち込めば、いろんな漢字が出てくるところ。しかも意味が分かりやすく解説してある。だから自分が使おうとしている漢字を選べるのである。

ただ基本的な漢字は知っておかないと、文章がちんぷんかんぷんにはなる。だから義務教育での国語は大事である。

今は何でも自由だから、義務教育の学校にさえ行かない自由を選択して、それをネットで自慢している者もいる。

障害があったり、心の悩みがあったり、それぞれに事情はあるのだろう。親が子供を守ってあげるのは当然だが、いずれ子供は一人で生きていかなければならない時代がやってくる。

社会人としての最低の常識、知識、マナー、というものを、親が教えてあげないと、知らないまま大人になった子は不幸になる可能性が高い。魅力のない大人になる可能性が高いから、同性からも異性からも敬遠される可能性大なのである。

今の時代は、みな平等という社会だから、役所や社会が経済的な面倒は見るだろうが、生涯の連れ合いに恵まれないとか、周囲と付き合えない寂しさは本人しかわからないつらさであろう。そんな大人にさせないためにも、しっかりと家庭での教育も必要である。

パソコンのない生活から、本を読んだことで、相変わらず飛躍した感想ではあるが、若者への提言である。




▼三年間の時を経て、ようやくコロナの終息が見えてきた。何千年と人は生きてきた経験がありながら、未曽有の出来事が起きた時、ただ右往左往しながら、色んな実験を繰り返し乍ら生きていくことしかできないことが良く分かった。

処方箋が見つからないその期間に、多くの犠牲も当然出る。今年生命を授かった者たちは、当然のようにコロナとは何だったのか? その間はどのように乗り切ったのかは分からないだろうから、しっかり記録に留め、残してあげなければならない。

国によって取った政策が違うから、それらもしっかり検証したうえで、真実を残すべきである。この期に及んでも、自分たちの政策が間違っていたことを隠すような記録だけは残してはいけない。それは後世の人類に参考にならないからである。

日本の場合、コロナの真っ最中にも拘わらず、国民に協力を求めてオリンピックを開催した。競技者が開催を願うのは当然であったろう。その時に照準を合わせ、その時しかチャンスがない人もいたろうから尚更開催を願うのは当然であった。

しかし開催に対する選手や、開催を願う国民の意識とは裏腹の意志で開催を願っていた者たちがいた現実もしっかりと記録に残しておくべきである。今は大会組織委員会の高橋元理事だけが犯人とされているが、いくら何でもあれだけの組織を彼だけの考えで動かせるわけが無い。主催者側にもっと責任を取るべき者たちがいる筈である。事実が記録として残されるべきである。

私が言いたいのは、将来また未曽有の病が出て国民が混乱する可能性のある1000年後の人たちの為に残す記録についての話である。犯罪者記録として残すのは警察に任せればいい。そうではなく、1000年後の人たちが未曽有の出来事に右往左往するのではなく「先人はこうして乗り切った」、「始まりから終わりまでには、このぐらいの年月がかかる」とか「その間、こういうことを企む国民もいる」とか、兎に角良い事も悪いことも真実を残してあげておくことが、解決に向けて大きな参考になるということである。

ただ将来が今と同じ自由主義の法治国家であるという保証はない。時の為政者が腹を見透かされるということで、記録を見つけても「出すな」という時代になってるかもしれない。

コロナ問題は地球人として地球人に残しておくべき事実であったのは間違いないだろう。




▼コロナの感染拡大が広がっていて、その中でも死者が増えているとマスコミが煽っているが、死者の多くは高齢者で、重たい持病を持ってる人達である。重たい持病を持ってる人は、それだけで普段から薬を10個以上も飲んでるし、コロナが流行する以前から、一人で生活するのもままならない人達である。

コロナでなく、風邪をひいただけで重症化する人も多数いるだろう。普段薬を飲むのにさえ、オブラートに包まなければ飲めない人、手を貸してあげないと飲めない人もいる。そんな人であれば、誤飲の可能性は毎日のようにあるだろうし、喉とか肺に異変を起こすコロナの症状が重なれば、持病も重症化するのは当然である。これをコロナの死者と数えるのもちょっと無理がありそうである。

持病持ちの人でも、自分で健康管理できる人なら、人とできるだけ接触しないとか、マスクを常時着けて、コロナを意識することもできるだろう。だから家にいる人より、病院に入院してる人、高齢者施設に入所している人、障碍者施設に入所している人たちの方が断然リスクがあるのは当然である。

まだまだコロナの感染を舐めてはいけないが、だからと言って、コロナ感染が拡大していると言うのもちょっと違うような気がする。ただ中国からの入国者に対しての入国前の検査は厳しくするのは当然であろう。

オミクロン株も次から次に変化しているようだが、三年前にいきなり出現した時に比べれば、何となく正体も見えてきた感もある。油断は禁物であるが、いつまでも振り回されてばかりでは、経済が成り立たなくなってしまうだろう。

普通の人であれば、コロナに罹っても、解熱剤で体温は下がるようだし、一週間で普通の生活に戻れるほどになっているらしい。コロナ菌を軽々に舐めてはいけないが、恐れ戦いてばかりでもいけない時期に来てるとは思う。ただ飲食店での大騒ぎなどは、元々非常識な行為であるし、特に高齢者、大人は慎むべきである。

コロナ禍で慣習や常識が大きく変わってきた感はある。元のように戻ることがいいのか、この際無駄な風習や過度の慣例などが見直されることがいいことなのか、しっかり議論されることも、いいことであろう。


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