敬天新聞 令和5年7月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和5年7月号 4面)



▼筆者は黒柳徹子さんのファンである。化粧は濃いかもしれないが先ず顔が好きである。若い頃より今の方が好きである。動きは確かに昔のように軽やかではないが、ひな人形のように全く動かないで、丸まる着飾った姿が可愛い。今では芸能界の第一人者であるのは間違いあるまい。

「徹子の部屋」に出るようになると、一応芸能人として一流になったという証として認知されるのか、先ずは家族が大喜びするようである。番組としてはNHK並みの認知度であるようだ。

一つの番組として48年間続いている長寿番組ということもあろうが、やはり黒柳徹子さんの独特のキャラクターもあるだろう。

地方によっては映らないところもあるとは思うが、何故か「徹子の部屋」は認知度が高い。特に芸能人の家族に人気が高いようなのである。

最近はゲストとかみ合わないやり取りも時々あるし、嫌な話のときは露骨に嫌な顔をするときも多々あるが、それがまた人間らしくていい。

とにかく口だけが動いて、体が全く動かない。時々手も動くが力は無いようで物が落ちても拾えないようである。誰かが操り人形見たいに黒柳徹子人形を動かしているようにも見える。何とも可愛いのである。だから、体の動く限りず〜〜〜と出演して欲しいと願いながら見て居るのである。

司会者が若ければ、ゲストに聞きにくいこともあろうが、業界の年季が入って居て、しかも高齢者ならどんなことでも聴ける。

最近はテレビだけでの営業が成り立たなくなったのか、ただ出演番組宣伝の為に出演するタレントも多い。

時代はどんどん流れている。流れているだけではない。どんどん変わっているのだ。その変わり身の早さに高齢者はついていけない。

黒柳徹子さんも、若者の流行り言葉が出たりすると、話が止まってしまう。怪訝な顔をして、相手をにらむと、相手が直ぐにその危機を察知し、話をすり替える。これは黒柳さんが大物だからであって、そこら辺の爺婆なら、無視されて終わりである。

爺婆は大抵が老害と言われる場合が多い。50年、60年前に学んだことが正しいと思って生きてるから、その意見や生き方を主張すれば、否定されて当然である。

それでは何故若者でさえ、黒柳徹子さんには気を使うのか、それは「徹子の部屋」への出演が、その人にとって、その後の芸能生活に、抜群の影響力を持って居るからである。それこそ「徹子の部屋に出た」というステータスである。あの番組に出ただけで、一年間の地方営業は保証されたようなものである。 なんの業界にもそのような存在の人は居る。がんばれ黒柳徹子さん。




▼世の中はつくづく力関係で成り立っている。力のある人の意見は通るが、力の無い人の意見は通らない。

ところがこの力関係というのが不思議で、何かの拍子で入れ替わったり、途切れたりもする。また金に影響することもある。

人間も所詮は動物の中の一種であると言うのは私の持論である。多少の知識の違いはあるかもしれないが、遣ること為すこと全く一緒ではないか。

まだ動物の方が自然に逆らわない分、自然と一体化している。人間は頭脳が発達した分、自然の法則に逆らい続けている。

ま〜、逆らっても逆らわなくても寿命はあるわけで、仮に百年の寿命が二百年に延びたところで、若者の体力で二百年生きられるなら兎も角、歩くのもままならない状態で長生きしたとしても、生きることに疲れてしまうだろう。

だいたい高齢者になって年金生活に成ったら、老後が十年、二十年だからいいが、老後が百年も有ったら、どうやって生活していくんだよ、と言う事になる。

動物の世界では大体大きな動物、鋭い爪や牙を持ってる動物が強いと思われている。しかし実際は、小さいものほど強いというのが現実かもしれない。

普通強さを競う時、一対一での場合を想定する。しかしそれはあくまでも人間の考えでの戦いである。

常に集団で生活している動物の中には、役回りが決まっていて、相手を全く恐れないで向かっていく動物たちもいる。蟻や蜂の集団生活がそれである。

北朝鮮や中国辺りが人間の世界では、そのように見える時もあるが、しかしそれは強制的に人為的に創られた姿であって、自然の姿ではないので、いつかは崩れてしまうだろう。

これが宗教の教えなら人為的な場合であっても、まだ数倍は強いようである。理由は何百年も続いて行くからである。

先日もバイデン大統領が、故意か自然か「女王陛下万歳」という言葉を演説の最後に発したと言うのが話題になっていた。

アメリカの白人も今は政治的なスタンスで二つに分かれているが、二百年前まではイギリスからの移民であった。

国としては世界一の強国になったが、心に迷いや弱さが出た時にはやはり頼りになるのは「本音」であろう。

長く続けば続くほど、基本は動物の考えに似て来る。それこそが自然に近くなるからである。バイデン大統領も高齢者だから、自分の限界を感じているのだろう。

イギリスでも陛下は代わったが、バイデン大統領の中では、未だに陛下はエリザベス女王なのだろう。

健全な体に健全な精神は宿る。凡人の我々高齢者は、いつまでもその地位や名誉にしがみつくより、時代の流れに沿って、ありのままの世の中を受け入れ、ありのままの姿を受け入れて生きることがいいのである。

世間に見捨てられてもいいじゃないか。家族に冷たくされてもいいじゃないか。古くなった爺婆だもの。




▼世の中には生まれながらにして美しい人とか、可愛い人とかがいる。若い時にはそれが大いにプラスになる。人は見た目で判断するからである。

ところが一緒に住むようになると、その見た目の美しさよりも、心の優しさの方に人は魅かれて行くようになる。これは誰もが経験して感じる偽らざる気持ちのようである。

だが一握りの人の中には、美人神話を信じ続け、歳を取っても「私は美人よ」と信じ続け、「あの人の私を見る目が違う」とか、「昨日病院に行ったら、医者が私の体を触りたがるのよ」と、自慢するらしい。

そういう人は、近所からも、仲間からも嫌われる。だいたい皺くちゃになった顔と体で「美人」もなかろう。

ま〜今の時代は金があれば、ある程度の若作りや整形は可能であろうが、見た目の美しさは作れても、体の若さは作れない。それに老後の夫婦生活に必要なものは、美しさよりも、お互いの思いやりと優しさであろう。

最近、SHK(新橋放送局)特派員の黒門帳の親分が、あまり新橋に顔を出さなくなった。体調が優れないようである。

酒を飲んでる時は、殆どツマミを食べないが、何故か親子丼だけは大好きだと言う。また不思議と黒門帳の親分の所に相談(ほとんど遊び)に来る女性が、何故か親子で来るのである。

親子と言っても、親六十代後半、子供四十代、時々孫十代という場合もある。黒門帳の親分の軽さとノリが、世代を超えて受けるようである。

それを見透かしたように時々ミコ(老女フレンド・一緒に同じ方向を向いて風呂に入る仲)から、「ツマミを用意してるから早く帰って来てね」という電話がかかる。

そこで「風呂を入れといてくれ」と言って電話を切ると、今度はミコとの風呂の入り方ルールを浪花節調で語るのである。

風呂釜が狭いので向き合っては入れないので、黒門帳が先に入り、同じ方向を向いてミコが前に座るのだそうだが、入って来る時にミコの使い古した恥部がドアップになるので、そこの解説に力が入るのである。

その話を何処でも、いつでも、爺の前でも婆の前でも平気で話をするので、「そんな話は他人にせん方がいいよ。ミコとすればいいじゃないか」と言ったら、ほんとにミコに電話して、そのまま喋るのだから驚いた。

女衒の素質、今流行りのホストの素質は十分にある(爺ホストで食えそう)。ただ喫茶店中聴こえるような大きな声で喋るから、一緒に居るこちらが恥ずかしくなるのである。

しかし最近は、その賑やかな声も余り聴けなくなってきた。黒門帳の親分の行動範囲が狭くなっているのだ。

まだミコとマコの愛が純愛かビジネス愛かの結論も出ていないし、三田の通りすがりの出演者の皆さんの日常も気になる。

親分が得意の「高齢者の部ダジャレ三段」の腕前披露も、最近は疎かになっている。先ずは親分の一日も早い、健康回復を願っております。



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