敬天新聞 令和5年8月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和5年8月号 4面)



▼日本には先妻が後妻を襲う「後妻打ち」という慣習があったらしい。読み方は「ごさいうち」ではなく、「うわなりうち」と言うそうである。

 この慣習に17回だか18回だか、参戦したツワモノも居たと何かの本に書いてあった。やはり一定のルールがあるらしく、攻める方も守る方も男に助っ人を頼んではいけないそうである。

 と言う事は、北条政子の後妻の焼き討ち事件は義経が加勢したわけだからルール違反と言う事になるのだそうだ。 

 またいきなり襲撃するのではなく、事前に襲撃を通告し、友人・知人に加勢を頼んで攻め入り、後妻側も、友人・知人を集めて受けて立つのだそうである。そして程々の結果が出たら、誰かが仲裁に入るのだそうだ。

 その「18回後妻打ち」に参加した兵(つわもの)は、どちらの側でも経験があるのだそうだが、やはり頼まれた数は先妻側が多かったそうで、女としての恨みは先妻側に多く残っているようである。

 どうしても先妻側には「今の地位と財産は自分の協力、支えがあってのもの。それなのに少し良くなったら、苦労を共にした私を捨てて、若い女と一緒になるなんて・・・」という積年の恨みが、後妻より確実に強いと思われる。

 気持ちは分かるね。やはり別れると決心したらできるだけ遠くへ引っ越し、二度と会わないことである。そしてある程度の年月が経てば、お互いが冷静になりお互いを忘れることで、新しい人生に出発できるのだろう。

 それにしても18回も加勢に呼ばれるなんて、よほど腕力に長けていた女性だったのだろう。今は女性と言えども暴力沙汰はご法度だから、こういう風習は残ってないと思うが、気持ちの上では「あの女だけは許せない」という感情を持ってる女も多いんだろうな〜、ああこわっ。恋愛も結婚も命がけなんだな〜。

 しかしそれは、玉の輿に乗った後妻に対しての恨みであって、器量のない男と一緒になった後妻に対しては恨みなど起こらないだろう。それどころか、寧ろ清々したと喜んでる先妻だっている筈である。そんなこと言っても、当たり外れも連れ添ってみて初めてわかるもの。見た目だけではわからんからね〜。

 誰の娘さんだったか忘れたが芸能人の娘さんで「付き合う男とは必ず一緒に住みます。勿論セックスもします」という女性が居た。殆どの親は「どんな教育をしたのかね〜。恥ずかしい」という意見だった。

 しかし話をよく聞けばこれから長い時間一緒に住む人だから、その人の良いところ悪いところを一緒になる前に知っておかないと、一緒になってから「これじゃ無理」と分かっても、簡単に別れられなくなる。そのためにも一緒になる前に、疑似夫婦を経験して相手を知った方が後悔しない、という意見を述べていた。

「嫁に行くまで操を守れ」という戦後の教育を受けた高齢者からは、目が飛び出るほどの行動であろうが、理には適っている。いま別れたくても別れられないという高齢者も多いらしい。明日のことは誰にもわからないし、人は経験してからでないと、理解できないことだらけだからね。南無〜。




▼故郷の集まりである「島原半島会」という会合に出かけてきた。島原半島三市(島原市・雲仙市・南島原市)での故郷会である。昔で言えば1市と15町である。

もっと前は、有馬会と言って南有馬と北有馬の会合もあった。それがだんだん発展的解消で大きくなっていったようである。

 ところがこの故郷の会を始めたのが、長崎原爆記念館の平和記念像製作者である北村西望氏だと言うから、伝統はあるのである。

 島原半島では、やはり昔から島原市がダントツに街であったし人口も多かったので、何をしても島原市が中心だった。他に有名と言えば雲仙市の温泉や小浜町の温泉である。

 しかし知名度で雲仙が有名だったから雲仙市となったが、元は実際には小浜町雲仙という地名だったのである。

 私の故郷は南島原市に属する町であるが、名物や名所が無い町でもある。しかし最近は、キリシタン3万人が原城に立て籠もり幕府軍に皆殺しされたことが、長崎のキリスト教群と共に世界遺産に選ばれたことで、俄かに観光客が増えてるらしい。

 ところがこういう故郷の集まりに来る人たちが高齢化していて、毎回出席者の顔ぶれが同じになっている。しかも出席者の半数以上が70代以上なのである。

 地方は少子化が進み、若者は殆どいない。家は空き家だらけである。都会に出てきた若者も老人会のような「故郷の会」に一度は出席するかもしれないが、二度目は中々出席しようとは思わないらしい。

 役員の人たちはボランティアで一生懸命に努力しておられるようだが、出席者集めが中々難しいようである。出席する政治家の中に大臣が来るとか、或いは出席者の中に有名人が来るとかがなければ、年々老齢化するだけのようである。

 だが故郷の側でも、この活動に期待している。地元の名産を知って貰うために販売しているし、或いは花の大東京で成功した人からの奇特な寄付も期待しているのである。

 そういう意味では、何とか続いてほしいと願うばかりであるのだが、色んな自由化が進めば益々、参加は少なくなるだろう。恐らく何処かの時点で、一気に若返らなければ新しいアイデアは出て来ないと思う。

 一見、徐々にゆっくりと交代した方が交代はスムーズに行くような感じがするかもしれないけど、高齢者の引退は突然やって来るので、若者が引き継ぐ前に壊れてしまうと思う。一度解散したら、新しく作るのは大変な労苦が伴うだろう。

 老人側がそこを理解し、一気に今いる若者たちに役職を譲り、引退することである。そして若者が経験不足から迷って相談に来た時だけ助言するようにして、他は一切口を出さないことである。

 特に年配者の中には「肩書」を金科玉条のごとく放したがらない人物も多く、上京して何かの仕事で頑張って認められたから、皆に押されて、その肩書でしょうから、別にその肩書が無くても、十分に頑張った証は認められている筈なんだから、その肩書は迷わず、若者に譲るべきである。

 役目を終えたら若者に交代。最初は頼りなくてもいい。今は頼りがいのある貴方も、最初は頼りなかった。後を継ぐ若者も、時と共に頼れるようになるのである。




▼歌や踊りで、その時代の教育が分かる。もっと言えば、その国の文化もわかるんだな〜、とふと思った。

 突然、戦前の大歌手であった「東海林太郎」さんを思い出した。勿論生まれる前の歌手だから、実物は知らない。昔のビデオや、物真似をする人の姿でしか知らないが、真っすぐ立ったままびくりともしない姿勢で歌う姿が印象的な人である。 その頃の歌手はみな直立して歌う歌手が多かった。兵隊さんの慰問に行ったりするので、チャラチャラ、ふにゃふにゃには歌えない。お国のために戦ってる兵隊さんの前で歌うのだから、基本は直立不動であったのだろう。

 それに比べたら今の歌は逆に、歌うより踊りに主流がある。踊れないと歌えないのだ。その点ではミコの彼氏であるマコは流行の先端を行ってると言っても過言ではない。

 ミコの彼氏であるマコは体積のある重たい頭をコミカルに操りながら、演歌調に頭を振って、見事に頭でリズムを取りながら、器用に歌うのが特徴である。

 とにかく頭の振り方がポイントである。見学希望者は「三田五丁目マコとミコの会」に連絡してみて下さい。会費は日本酒一升瓶かビール半ダースか、若しくは3千円だと思います。

「敬天新聞を見たよ」と言えば、浜松の名産品「うなぎパイ」か山形の名産品「玉こんにゃく」も一品出るそうであるから、ぜひお近くにお出かけの際には、寄ってみては如何だろうか。

 近くのウナギ屋には、めっきり可愛くなった秀美ちゃんも居ますよ。この歌い方は時代に合ってると言うより、独特の歌い方だから、普通の人は真似ができない。強いて言えば、物真似歌手コロッケがロボット的に歌う歌い方に似てると言えようか。

 そのマコも最近は人並みの老人になって来た。あれだけ新橋のレストランの隅っこで、酒を飲んだ時だけ大騒ぎをしていたマコが、最近めっきり新橋に顔を出す機会が減ってきたのだ。

 種田山頭火のように知らない町を旅しながら行き倒れになって死ぬのが夢と言い始めてから、もう何年が過ぎたろう。

「もうこの辺でいいで。十分生きた。酒も女も博打も、他人の何倍も遊んだから、もうこの辺でいいや。そろそろ行くで。」と毎年、毎日言い始めてから当に5年は過ぎた。

「だからマコ、ここでどんなに良い事言っても誰も聴いてないから、一度でいいから街宣車の前で思いのたけを喋ったらいいよ」と話をしたら、知り合って20年近くなるが、初めて街宣車の前で、マイクを持ったのである。

 令和5年7月5日の記念すべきマコの第一声は、やはり酔っぱらって奇声を発するだけだった。日本人の代表的な酔っぱらいの男の姿だった。

 しかし、マコに魅力を感じているのは三田五丁目会の「狭いから後ろ向きに同列にミコが前で一緒に風呂に入る」というミコ達ばかりではない。 顔は整形で失敗しているが乳首が綺麗な主人のいない夫人や孫のPTAにも行ったことがあるその太めの婆だって、新橋に顔を出すのである。

 マコには熱烈な24歳から83歳までの女性ファンがいる。だからマコには、もう少し元気でいてもらい、同じ「新橋盛り上げ隊」仲間として頑張って欲しいものである。

 時には遠州森の石松に成ったり、時には宵越しの銭は持たねぇ〜と、江戸っ子に成ったりと、飲めば忙しいマコではあるが、やはりマコのいない新橋は寂しいのである。



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