敬天新聞 令和5年9月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和5年9月号 4面)



▼日本大学のアメフト部の学生が大麻を吸っていた事件であるが、この事件を持ってして改革が進んでいなかったんじゃないかという論調で林真理子理事長を批判するメディアもあったりするが、それは全くお門違いである。

 たまたまアメフト部の学生が大麻を吸っていたと言う事で、日大の問題として取り上げているが、東京農大のボクシング部の学生なんか押収された大麻の量がケタ違いである。にも拘わらず、農大の学長や理事長は会見は開かないし、マスコミも会見を開けとは誰も言わない。

 要するに、マスコミは日本大学の改革が進んでいるかという問題を問いたいのであって、大麻事件は一つのきっかけに過ぎないのである。たまたまアメフト部だったから、余計に話題性があっただけである。

 これから何処に飛び火し、何が出て来るかは分からないが、私は記者会見を見て、酒井建夫学長が自分の言葉でしっかり意見を言っていたのが非常に印象的で、しっかり改革が進んでいる印象を受けた。

 前理事長時代の大塚吉兵衛学長の記者会見を思い出してみればいい。終始おどおどして、とても自分の意見を言ってる態度ではなかった。日大の学長に選ばれるぐらいの人は、誰がなってもそれなりの実績はある人で、記者の質問くらいには、余程でなければきちんと答えられるのである。

 理事長が答えなければならないような話には内容を知らない学長は答えられないだろうし、学長が答えなければならない話には理事長は答えられないだろう。

 大学は最初アメフト部に対し無期限停止を決定したのだが、逮捕者が一人だったことで、直ぐに無期限停止を解いた。

 しかし9月から始まる秋季大会に出場できるかどうかを決定するのは、関東フットボール連盟である。

 父兄や関係者の意見はあくまでも個人の犯罪であるから、全体責任を科すのは厳しすぎるのではないかという意見に配慮して最初の決定を覆したようである。

 しかしその後に、逮捕された学生が「数名で吸った」と供述したことから、再度寮の再捜索があったりと、二転三転している。

 田中前政権時代、スポーツ競技部が経営権を牛耳り、暴力的に学内を支配したのは事実であるが、それが行き過ぎて、結果的には文部省指導となり、やっと危機意識が芽生えて、林真理子理事長が誕生したわけであって、林真理子理事長で失敗したら、今度こそ幾つかの学部に分裂してしまうのは間違いないだろう。

 今回の事件は副学長の勇み足もあったように思う。元検察庁の検事出身のようだから、捜査関係者を下に見る傾向があるのだが、おそらくまだ現役の習慣の癖が残っていたのだろう。

 裏では確かにそのような雰囲気が通じる部分がある。会見でも自信に満ち溢れた回答をしてたのも印象的だったが、質問する側にも専門家が居るわけだから、少し綻びが出た印象は拭えない。

 何回も書くが、前体制の改革は一朝一夕にできるものでもないし、特に男性では見えない怪物に飲み込まれてしまって、改革は難しい。

 名誉も地位も欲しがらない、しかも日本大学愛のある卒業生で女性だからできるのである。林理事長は、日本大学のОB・ОGだけでなく、全関係者が一丸となって応援する価値のある人である。付け加えるなら、岸田総理は、9月の内閣改造で、文科大臣に末松信介議員を選んで頂きたい。毅然とした大臣の指導力が今の日大には必要である。間違っても優柔不断な下村博文ではダメです。




▼「老いては子に従え」と言うが、元気な親ほど子に従えないと言うのが、現実である。

 幾つになっても親は親。言いたいことは山ほどある。しかし本音を言えば、トラブルになるだけなのである。

 一つには世の中の価値観が変わってきていることを親は中々理解できない。人は自分が育った環境で学んだ事が常識と信じている所がある。

 夏休みで、孫を連れて帰省した子供と久しぶりの再会をした親も多かったろう。時が経てば、子が親になり、親が爺婆になるのである。この順番になっていく過程が人それぞれなのである。

 子供も自分が育てた時は、自分だけの子供だったような気がしたが、世間に出たら色んなことを学び他人のようにもなって来る。

 久しぶりの帰省だから、ずっと自分の傍にいてくれて、自分の世話をしてくれるだろうと思っていたら、久しぶりに会う友達とばかり遊びに行って、親には一向に構ってくれない子供も居たろう。本音では、それが不満だったという親もいる。

 親と爺婆の境もある。年金生活だけが頼りの爺婆は、孫に何か買ってあげたいが、その余裕もない。やがて力関係も変わって行くのだが、そこの境目が人それぞれで、しかも爺婆にも爺婆の世界があるから、これもまた大変なのである。

 中には親思いの優しい子供もいる。男はいずれ嫁の家庭に入って行くと言われるから、爺婆の最期を看取るのは娘だとよく言われる。だが親の希望の通りの関係になるのはどのくらいの確立だろう。娘もいずれは自分の家庭が第一になるであろうから。

 稀に歳を取ってから、親の最期を看取るために故郷に帰って来てる女性も居るが、そのまま自分の家に帰らない人も居る。何かの事情があるのだろう。人それぞれである。だから無理に世間体に自分を合わせる必要はない。千差万別である。

 楽しいはずの夏休みに帰省した筈なのに、色んな事故に遭遇して亡くなる人も必ずいる。そんな不幸な運命に出会うぐらいなら、親子の考えのズレぐらい大した問題じゃなかろう。

 それより爺婆は残りの人生を楽しんだ方が有意義であると思った夏の夜の夢であった。

 死んだ後まで夫婦で一緒に同じ墓に入りたくないと言う人も多い。それは男よりも女側に断然多い。それだけ女側に不満が多いと言う事である。 一緒に墓に入りたくない理由は、夫に対してだけでなく姑に対しての恨みも多々あるようである。

 最近は生まれ育った実家の墓に入りたいと言う人も多くなっているそうだ。あの世はまた別の世界だし、あちらに行ったらもう一度全てを一からやり直して新しい生きがいを見つけるも良し、やっぱり家のダーリンが一番素敵だったと思ったら、また一緒になるも良し、取り敢えず、一生という人生をこの世で経験した分、あの世での生活は、賢く生きられると思うよ。

 という事は、今経験している真っ最中の爺婆体験も、あの世に行ったら、大いに役立ち、苦労しなくていいわけね。

と独り言を言いながら今年も暑い夏を過ごしました。




▼一緒になって死ぬまで「一度も悔いは無かった。楽しい思い出だけだった」という人は、レアメタルだろう。希少価値という意味で使った。 だんだんダジャレ素人三段の寺ちゃんに影響されてきた。途中、山あり谷ありと言うのが人生である。

 最近、周囲が高齢者になったせいか、高齢者と話しする機会が多くなった。若い人から見れば、爺婆は人生が終わった人に見えるかもしれないが、爺婆にもしっかり人生があり、若者に負けないような恋愛事情もあるのだ。

 ただ爺婆の恋は若者の恋に比べて、見た目が汚いので、絵にならないのである。

 例えばもぎ立てのリンゴと腐る寸前のリンゴを比べるのに似ている。美味しさではそんなに違いはないが、見た目が余りに違う。でもリンゴはリンゴである。と、爺婆は思っているのである。

 もっと厚かましい婆になると、「もぎ立ての果物より、腐る直前の方が、美味しさも甘みも断然上よ。それに柔らかくて食べやすいし」という猛者も居る。

 しかし若者は、「爺婆が思うのは勝手だが、そんなことで比べないでよ」と本音では思っていると思う。

 そりゃそうだ、腐る寸前の果物は柔らかいから歯の無い爺婆には食べやすいのである。

 リンゴであっても梨であっても、もぎ立てに食らいついたら、残り少ない歯さえも根元から折れてしまう。だから爺婆は果物に「かぶりつく」という行為さえできなくなるのである。

 例えば若者はトイレに間に合わなかったりしたら「失禁」とか言い方をするが、爺婆は「尿漏れ」という。そしてもっと高齢になると、オムツを履くようになるのである。

 赤ちゃんはオムツが似合うし、汚しても汚いとは言われないが、爺婆はオムツを履いてるだけで白い目で見られ、漏らしていたら、尻を叩かれたり、つねられたりする。 国は百歳時代とか提唱するが、菜っ葉の肥やし(掛け声)だけである。

爺婆は長生きすることも憚られる時代なのである。

 しかしそれは、誰もがいつか確実に迎える出来事だと言う事を理解すべきであるが、ただその事実を知るのは、今爺婆の真っ最中を生きてる人たちであって、未来の爺婆にはどんなに説明しても理解できない、通用しないのである。

 人は経験して学ばないと、話を何回聴いても理解できないのである。百聞は一見に如かずと言うではないか。

 寺ちゃんも飲むと威勢が良くなって遠州森の石松になったり、「飲みねぇ〜、食いねぇ〜、」の江戸っ子に成ったりする人であるが、最近は新橋に顔を出す機会がめっきり減った。

 毎日ミコを相手に狭い風呂に入るのが楽しみになってきているようである。

 男の面倒くさい付き合いに顔を出すより、気心の知れた婆さんと一緒に風呂に入って一杯やりながら講釈言ってた方が、残りの人生を過ごすには楽しかろう。

 同じ業界に居ても、みなポジションはそれぞれに違う。誰もが正しく生き、誰もが間違って生きて居るのも世の中なのである。

 それにしても昔に比べたら不可解な犯罪も多くなったな〜。季節も四季が無くなって来たし、災害も多くなってきた。

 いずれ地球も滅びるのかな〜。



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