(敬天新聞 令和7年2月号 4面)
▼アメリカの軍事力を個人的に自由に使って相手国を脅せば、世界の80%ぐらいの国は、思うように動かせるのではないか。
カナダを51番目の州にしたり、グリーンランドを買収したり、パナマ運河の管理権を取り戻したり、メキシコ湾をアメリカ湾に地名変更すれば、周囲の国も右へ習いするだろうし、商業ビジネスで傘下、配下が増えるだろうし、世界のバランスが一変する筈である。
アメリカがそんな力を持つようになれば、ロシアや中国だって、遠慮がちな社会主義国に変貌するだろう。
五年半前にトランプ大統領が、北朝鮮の板門店に訪れた時、金正恩代表は今ほど自信満々での面会ではなかった。当時もオーラで圧倒してた雰囲気はあった。
愛国的なイメージが強い共和党だから、タカ派的な発言をする大統領はいたが、それに加えてトランプ大統領の商業主義才能は群を抜いており、政治家の域は完全に脱して、商人の臭覚である。
ただ心配なのはアメリカは銃社会だから、テロを起こす人物が現われる危険性は高いだろう。
政治は生活に直結してるところがあるから、トランプ大統領になって、一躍大成功する者がいる一方で、その裏で大脱落する企業者も出る筈である。
その者たちから大恨みを買う可能性は大いにある。一般の人の損害は知れてるだろうが、大企業ほどその差は大きく出るだろう。
イメージ的には共和党がタカ派で民主党はハト派というイメージであるが、党員の国民の中には、幾らでも暴力派はいる。現にトランプ氏を銃撃した人物もいた。
ビジネスでは儲ける人がいる一方で、損をする人もいる。それも大きく投資した人ほど、損する時は大きいのである。そんな人は人生を捨てて向って来る。しかも銃社会である。
それにしてもトランプ氏は政治家と言うより、ずば抜けた営業力、商業力の才能を持った営業マンである。こんな人が世界一の強国の大統領になって強権を発揮したら、それこそ世界は幾つかに割れ、成功者と貧者に二分化するだろう。間違いなく過去社会に戻るのは時間の問題である。
それが分かってて、媚びを売ってトランプアメリカについて行くか、たとえ嫌われても正論を訴え続けるか。二つに一つになるが、日本は独自の舵取りができるだろうか。
今年は昭和100年、戦後80年、阪神淡路大震災から30年である。こういう節目の年には必ずまた大きな事件が起こるのである。
それは何故か、人の心理が左右する。こういう、人々が忘れない節目の年に事件を起こせば、人の心に残るという考えを持つ者も現れるのである。
そういう意味では今年は必ず大きな事件が起こるだろう。一年の無事を祈願する。
▼また馬鹿馬鹿しい催しがロンドンで始まったようである。物真似好きな日本の若者が、何処かで始めるのではないか。ズボンを脱ぎパンツ丸出しの格好で地下鉄に乗るという催しである。
そんなことの何処が楽しいのか知らぬが、大多数の者には迷惑でしかない。現在では、世界の数十か国で行われてる行事になってるらしいから、日本でも必ずや真似する馬鹿者が現われる可能性大である。
ただ、参加してる若者は僅か20名ぐらいのようだったから、催しという程でもない。もし日本で始めようとした馬鹿者がいたら、破廉恥罪で逮捕した方が余程国民の利益に適った行動に繋がるだろう。
ヨーロッパの国やアメリカがやるから、何でも正しいとか、面白いと言う考えは間違いである。何処の国にも一長一短はある。
若者の中には何でも真似て、目立てばいいと言うひょうきん者も居ようが、殆どの人が迷惑としか思わない行動・行為はやはり取り締まるべきである。
自分たちの仲間だけで、何処かの場所を借りて催すのは自由だが、公衆の面前で、しかも逃げ場も無い公共の乗り物の中で変態チックな集団が現われたら、高齢者は卒倒してしまうだろう。
EU諸国とは環境や風習は余りに違うのだから、何でも真似をするのは笑い者になるだけである。真似をして価値あるもの、世の中を明るくするもの、人々が喜ぶもの、役に立つもの等なら、幾らでも真似て、世間に広めて行けばいい。
下半身パンツ一枚の集団で町の中を歩くことの、何処に公共性があるのか。個人の自由表現の自由と言うのはあるかもしれないが、社会常識、公衆道徳、規律、法律と言うものを守りながら、人々は生きている。自分たちが楽しければ、周りの迷惑は顧みないという生き方は、推奨すべきではない。
電車にパンツ姿で乗車するのは、やはり日本では違反である。しかしいずれ、社会常識や世の中の環境が変わり、もっともっと開放的な時代が来るやもしれません。
そんな時代が来たらその時代に生きた人達が、その時代に合った法律を作ればいいのであって、今はまだその時ではないという事である。
今年は昭和100年だそうである。まだまだ戦中、戦後を知ってる人たちが生きてるうちは、変わって欲しくない。
令和に生まれた子供たちが、世の中の大多数になった頃には、国際的な色んな風習や文化なども受け入れられる世の中になってるかもしれない。
ただ、その国の歴史や文化や風習・風俗と言うのはそんなに簡単に変わって行くものじゃないからね〜。日本ではまだ流行って無いからいいが、何処かの国では、ヌード村とか、ヌード海水浴場があったんじゃなかったっけ?
中には発情した動物みたいな者も出て来るだろうし、ああいう世の中は日本人には似合わないと思うけどね。如何か。
▼最近は、土日祝日のブログ記事に、本欄「社主の独り言」で書いてきた過去の記事を再掲載している。
私も最近理解できるようになったが、ブログと言うのは老人に分かりやすく言うと、昔で言う「夏休みの日記」のようなものである。老人は操作が難しいので、殆どの人が見ない。老人が見るのはテレビか新聞である。
私も最近すっかり老人力が身に付いて、元々ない文章力に拍車もかかって来てるので、土日祝日にはブログ記事を休み、その土日祝日に過去の新聞からの「独り言」を掲載してるという事です。
何故この話を詳しく書くかと言うと、何回説明しても、ブログという意味と、新聞の「独り言」の説明をしても理解できない老々男女、分かりやすく言えば、爺さんと婆さんが多くなって来たからです。
字も見えなくなってきた、読解力も弱くなってきた、読むこと自体が難しくなってきたという人も多くなって来たのだろう。
私自身、過去記事を見て、気持ちは左程変わってはいないのだが、最近の記事に比べて、やはり文章に元気がある。内容が同じであっても捉え方が違ったり、やはり随所に若さがある。
首長選の選択でも今は、爺婆目線で物を言う感じになっている。
確かに生産性のない意見が多くなったが、世の中を良くしようとか、こういう世の中にしようというのは、みなそれぞれに違う。
それに若者には未来と夢があるが、爺婆には先ず未来がない。有るのは、今日は何を食うか、年金を如何に次の年金まで持たせて暮らしていくかが心配ぐらいで、精精が楽しみと言えば、気の合った者同士で安い店を探しては、昼間から飲み食いするのが関の山で、その中に異性が一人でも入れば、その取り合いで嫉妬したりする毎日のようである。
それなら夫婦仲良く家に居た方が、交通事故にも遭わず、良さそうなものだが、夫婦と言うのは水や空気のような存在だからと言いながらも、つまらぬ事でお互いに嫌悪する爺婆夫婦が意外と多いのである。
何も考えずに生きているように見えるが、老人にとっては日々を生きて行くのも意外と大変なのである。そしてその中身の無い毎日に正当性を意味づけて、有意義さを感じなければいけないから尚更である。
ま〜、御国の為に一所懸命働いて、家族を育てて来たんだから、残りの10年、20年を好きなように生きても罰は当たりません。皆さん極楽と天国を行ったり来たりできますよ。