(敬天新聞 令和7年5月号 4面)
▼最近、芸能人の名前が全く分からなくなった。何年か前から名前が全く分からなかったが、それでもNHKの連続ドラマで主役をする者の顔と名前は分っていたのだが、最近は主役をする者の名前さえ覚えられなくなってきた。まだ往年のスターの名前は分かるが、そういう人たちもだんだん出なくもなったし。
だいたい売れて来ると、朝の情報番組やワイドショーに出て来るようになるし、「徹子の部屋」に呼ばれるようになる。しかし、そこでも全く誰だか分からないし、名前も分からない。
特に最近は名前の漢字が読めない。我々が昔学校で習った漢字ではあるが、読み方が全く違う読み方で名前を付けてるから益々分からないのである。キラキラネームとか言うんじゃなかったっけ?
最近は特に時代が変わって行くのが早くて、着いていけない。何故か老人は、やることも無いのに一日が早く終わってしまうので、月日が経つのも早いのである。
朝日が昇るのに比べて、夕日が落ちるのが早く感じられるが、あの自然現象と人間の老化現象も全く同じである。
しかし世の中には、不慮の事故や望まぬ病気等で亡くなる人も多々ある。中には長生きしたことが不幸だったと言う人さえいる。取り方は人それぞれだから、世の中に人生の正解は無いのかもしれない。どれだけ満足したか、どれだけ楽しかったかも、その人しか分かるまい。
私も10年位前までは会う人ごとに「西郷さんに似てますね」と言われたが、今は痩せて面影もなくなった。歳を取ったら三人寄れば、持病の自慢と薬の解説と年金の心配と聞かされて来たが、なるほどそんな話が多くなった。
話はコロッと変わるが、筆者が不思議でならないのが、時々見かける女性の鼻リングである。牛の鼻輪は子供の時から、田舎でよく見かけたので驚かないが、都会では若い女性が鼻に穴を開けてリングをはめているのである。あれの何処がかっこいいのだろう? 耳なら見慣れてるから違和感はないが、鼻輪である。まるで牛である。
ま〜、若いから何とか見れるけど、お婆さんが鼻輪をはめてたら、それこそ牛のベコちゃんである。そんな時代も来るのかね〜。
▼本籍と言うのが、どういう意味を持つのか、この歳になっても良く分からない。本籍と言うのは、てっきり「自分が生まれた場所」にあるものとばかり思っていたら、そうでも無さそうである。
現に筆者は長崎県の南島原市で生まれて、18歳で上京して以来、ずっと東京近郊に住んでいる。そして何歳の時か忘れたが、何かの都合で、本籍を東京に移した。筆者の感覚としては、住所の引っ越しという感覚だった。何かの都合で本籍を移した方が便利だったのだろう。感覚的にはその位である。
本籍の写しと言うのは、何の時に必要なのかな〜? 金を借りる時かな〜? 金を貸した側も本籍の写しを受取っていて、何に使うんだろう。
担保に入れた家の権利書なら、金貸しも押さえそうだけど、本籍の意味が分からない。しかも筆者の本籍を移した先は、当時借りてた都内の一軒家である。
今そこに家がまだあるのか、どうかさえ分からない。全く他人の家である。一時期そこに住んだというだけで、何でそこを本籍と言うんだろう? それが不思議でならない。 と言う事は、筆者の前に住んで居た人、後から住んで居た人とか、色んな人がそこを本籍に使っている可能性があるという事である。
本籍の意味を知っているのは、法務省関連の仕事をしてる人たちぐらいだろう。下手すれば役所に勤めている人だって、部署が違えば知らない人もいるのではないか。国民の半分ぐらいは本籍の明確な意味を知らないような気がする。
代々の親の名前が書いてあるというのはわかるよ。この記事を書いてるうちに、少しわかって来たような気がするけど、本籍と言うのは家族のルーツ履歴書みたいな物だから、自分が住む場所の役所に届けていいと言う物で、もし兄弟が三人居るとすれば、三人が三様、自分が届け出た場所に本籍を移すことが出来るということかな? となると、住民票と同じになるな〜。
本籍の場合、家系や家族が書いてあるわけだから、本人が今住んで居る場所というほど、必要性が薄いから、何処にでも持って行けるという事かな?だけど、ある一定の歳になったら、自分が住んでる処の役所に届けとかないと、遠すぎて尚且つ縁もない所に置いていたら、何かと不便と言う事にもなるな〜。
古稀も過ぎたのに、こんな事を知らないなんて、情けない話である。
▼人を紹介すると、紹介した本人を飛び越えて付き合う人がいるが、それが嫌なら最初から紹介しない方がいい。
人の繋がりと言うのは、自分のところで止められるものではなく、放っておいても広がって行くものである。また紹介した人を飛び越えて、その先に会いに行ったという事は、貴方自身よりその先に魅力を感じたという事でもあるとも言える。
その紹介した人から見ても、貴方自身に魅力があれば、間違っても貴方を飛び越えて行くことはありません。仮にその先の人に会ったとしても、貴方に対して先の人と会った事実を報告をする筈です。やはり成長していく過程では、人生の中でどれだけの人に出会い、どれだけの知識、社会常識を身に付けるかは、その後の人生に大きく左右します。
どんな仕事をしていたとしても、人との出会いや知識の吸収は大いに必要である。知識が豊富であるとか、常識があるとか、商売が上手とか、力があるとかと言うのは、やはり魅力的である。
しかし、そんな魅力ある人でも、老年になるに従ってその能力も鈍化するのだ。いつかは後輩に追い越されて行く時が来る。それが世の倣(なら)いである。だから、そういう事に出会った時でも気にしないことである。
気にすれば気にするほど、お互いが嫌な思いをするだけである。世の中にはつまらぬ言い争いから、殺人にまで発展する人たちがいる。ちょっと立ち止まって、一呼吸入れただけで、思い止まることは沢山ある。誰かに電話してもいいし、公園を一周するだけでもいいし、渋谷や新宿の雑踏の中を歩くだけでもいいし、気晴らしに映画を見るのもいいだろう。
金魚鉢に飼ったメダカに餌をやりながら公園でゲートボールをしている無邪気な老人の姿を見て、饅頭を頬張るのもいいだろう。自らも公園に行って、ブランコに乗るのも気晴らしになるらしい。
何故「らしい」と書くかと言うと、私はブランコは怖くて乗れないのである(座るだけなら出来る)。子供の頃はブランコの上に立って90度ぐらいの角度まで揺らしたものであるがと、昔話ばかりするのも老人の特徴で、しかも誰も知らないと思って、話を盛りまくるのも特徴である。
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