敬天新聞 令和8年7月号 社主の独り言(中辛)

(敬天新聞 令和8年7月号 4面)



▼巨人軍の前監督、阿部慎之助氏が長女への暴行容疑で現行犯逮捕された事件は、多くの国民に衝撃を与えた。東京地検は6月15日、暴行の態様や事件後の状況などを踏まえ、不起訴(起訴猶予)とした。阿部氏本人も「全ての非は私にある」と謝罪のコメントを発表している。

もちろん、暴力は許されるものではない。どのような理由があろうとも、親が子に手を上げる行為を肯定することはできない。しかし、この事件を単純に「暴力父親の不祥事」として片付けてしまってよいのだろうか。

昭和生まれの親父としては、どうしても考えさせられるものがある。私たちが子供の頃、父親は家庭の中で絶対的な存在だった。悪いことをすれば叱られ、ときにはゲンコツを食らうことも珍しくなかった。今の価値観から見れば問題視される場面もあっただろう。しかし、多くの家庭ではそれが子供を憎んでの行為ではなく、親としての責任感や愛情の裏返しでもあった。

ところが時代は大きく変わった。体罰はもちろん、厳しい叱責さえ問題視されるようになった。親が子供を注意することすら「ハラスメント」と受け取られる場合もある。子供の権利を守ることは重要であるが、その一方で親が子を躾ける権威は著しく弱くなった。

今回の事件でも、報道によれば姉妹喧嘩を止めようとした際に口論となり、阿部氏が感情的になったという。酒が入っていたことも報じられているから擁護できる話ではないが、そこには「親子の衝突」という、多くの家庭でも起こり得る要素が含まれている。

現代社会は、親による虐待を防ぐ仕組みを整備してきた。それ自体は必要なことである。実際、深刻な虐待から救われた子供たちも少なくない。しかし、その反面で親と子の関係は極めて法的なものへと変化しつつある。

昔は家庭の中で、或いはご近所さんの仲裁で、解決されていた問題が、警察や行政の介入によって表面化する時代になった。良し悪しは別として、昭和世代の親父たちはその変化に戸惑いを覚えるのである。

家庭は本来、社会の最小単位である。子供を守ることも大切だが、親の役割や責任まで失われてしまえば、家庭そのものが機能しなくなる。親子が対立し、警察や行政だけが間に立つ社会は、本当に健全なのだろうか。

阿部氏の事件は、一人の有名人の失敗談ではない。父親とは何か。躾とは何か。家族とは何か。そんな問いを、現代の日本社会に突き付けているように思えてならない。

昭和の親父がそのまま正しかったとは言わない。しかし、かつて「一家の大黒柱」と呼ばれていた父親が家庭の中で果たしてきた役割まで否定してしまうようなことがあれば、その代わりに何が子供たちを導くのか。私たちは改めて「親の責任」と「親の権威」の在り方について考えるべきではないだろうか。



▼熊による人的被害が全国各地で相次いでいる。環境省の集計では、近年の人的被害は過去最多を更新し続けており、今年も各地で警戒が続いている。

その象徴ともいえる出来事が、今月の栃木県宇都宮市でのクマ出没騒動である。本来なら山中に生息しているはずのクマが、市街地の商店街や住宅街を歩き回り、市内の全市立小中学校が臨時休校となった。人口50万人を超える県都の中心部でクマ対策に追われる光景は、多くの国民に衝撃を与えた。

人命を守るため、危険な個体の捕獲や駆除が必要な場合があることは言うまでもない。しかし同時に、なぜこれほど熊が人里へ現れるようになったのか、その背景にも目を向ける必要がある。

熊は本来、人里離れた山林で生活する動物である。ところが近年は餌不足や生息環境の変化により、人間の生活圏との境界が曖昧になりつつある。人口減少による過疎化で管理されなくなった柿や栗の木が熊を誘引し、さらに森林環境の変化も影響していると指摘されている。

高度経済成長期には広葉樹林が建材用の杉やヒノキへと植え替えられた。また森林伐採や宅地開発、太陽光発電施設の建設などによって山の姿も大きく変わった。こうした変化が野生動物の餌場や棲み処を減少させ、人里への接近を促している側面は否定できない。

京都府の天橋立周辺でもクマが目撃され、観光地にまで出没する状況となっている。もはや熊害は一部の山村だけの問題ではなく、都市住民にとっても無関係ではない。

つまり、熊が人間社会へ近づいたというよりも、人間社会が熊の生息域へと広がってきたとも考えられるのである。

便利さや経済効率を追い求めるなかで、私たちは自然との適切な距離感を失ってはいないだろうか。

熊問題は単なる獣害対策ではない。国土管理や森林政策、そして人と自然の共存のあり方を問う問題でもある。

捕獲や駆除だけでは根本的な解決には至らない。里山の再生や放置果樹の管理など、熊が本来の生息地で暮らせる環境を取り戻す努力も求められる。

宇都宮の住宅街を駆け抜けた一頭の熊は、人間と自然との境界線が大きく変わりつつある現実を私たちに突き付けているのである。



▼先月、筆者が故郷の長崎県南島原市に帰省した際、市長選挙の真っ最中に遭遇した。

地方の選挙は都会の人々が想像する以上に地域住民の生活と密接に結びついており、候補者を支える人々の熱意や真剣さに触れ、改めて選挙の重みを実感した。

今回の市長選挙では、三期十二年にわたり市政を担ってきた松本政博前市長を筆者は応援していた。高校の先輩でもある松本氏は、休日には農業に従事するほど実直な人物であり、その誠実さや温厚な人柄は多くの市民や市職員から高く評価されていた。

少子高齢化が進む地方自治体においては、派手な実績や学歴以上に、高齢者に寄り添う優しさや住民への誠実な対応こそが求められると筆者は考えていた。

選挙戦では、過疎化対策や地域産業の振興、国や県との連携強化など、各候補者の掲げる政策に大きな違いは見られなかった。

一方で、前副市長が関係したサテライト事業を巡る問題が争点の一つとなった。しかし、この問題は刑事事件として捜査が進められている案件でもあり、感情論ではなく法的手続きに沿った対応が必要であると筆者は考えていた。

また、地方行政の発展には理想論だけではなく、国や県との太いパイプや行政経験も重要であると考え、長年の実績を持つ松本氏の続投に期待を寄せていた。

しかし投開票の結果、松本氏は敗れ、新人の相川武利氏が新市長に選出された。敗因について筆者は、多選への批判に加え、高齢であることへの市民の不安が大きかったのではないかと分析している。実際に演説の場面でも、言葉に詰まる様子が見受けられ、市民の一部が将来への不安を抱いた可能性は否定できない。

それでも筆者は、約三十年にわたり地域のために尽力してきた松本氏の功績を高く評価している。農業一筋だった一人の市民が志を抱いて政治の世界に入り、市政の発展に尽くしてきた歩みには、心から敬意を表したい。

選挙は勝敗を決する場であるが、結果が出た以上、市民がいつまでも対立を引きずるべきではない。支援者にとっては悔しさも残るだろうが、「試合が終わればノーサイド」である。

これからは市民全体が新しい相川市政に協力し、人口減少や地域活性化といった課題に向き合いながら、南島原市の未来を築いていくことが何より大切である。

松本氏には長年の労をねぎらい、新市長には新たな時代を切り開く手腕を期待したい。そして南島原市が、市民一人ひとりの力を結集して、さらに発展することを願うものである。



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